死
死はどこからもやってこない。死は経験できないのだから。死は彼方に存在し、我々にできることといえばせいぜい「死ぬ」という発想を持てることぐらいである。死に対する情動や死後のイメージ(想像)が空想に宿るのはそのあとである。死というのは錯覚として私たちの元に訪れる。生の苦しみからの解放としての死、あるいは生という豊かさに対する絶望としての死・・・、つまり生の裏側としての死・・・。私たちが死に抗い懸命に生きるのも、むしろ積極的に死に向かうのも、こういったイメージ(想像)を通してなのだ。
しかし、そういった諸々の現象はこの「死」が生み出してくるものなのだろうか?
懐疑
疑えないものが存在しないというならば、懐疑主義の果てから全てがやってくるのである。我々が何かをすでに知っているということはない。しかし、経験の蓄積の中で徐々に何かを信じるようになるのだ。つまり、あらゆることを。
崇高
この崇高の瞬間に現象は運動し始める。
老い
常に老いない現象が存在する。死の間際になっても、あるいは死んだ後でも。
睡眠
死んだ経験。夢。そして活性化された経験へ。
情動
思考(言語)
思考がどこからやってくるかはわからないが、どこからかやってくる。思考は明らかに概念として現れてくるのではなく、リズムのようなものとして現れてくる。つまり「音なき音楽」のようなものとして。このリズムは何らかの意味も携えている。
身体
空想
倫理
他者
自己
自己が生成するのは無限と接触することを通してだ。無限との接触により自己は自己にも接触する。無限との接触なのだから、隔たりを通した接触であり、自己にも空間的・時間的な位置づけはない。それでも自己はあるのだ。そこから私たちは、隔たりに近づき、世界を具体化することで、自らも具体化する。世界はそこにあり、物がそこにあり、私の身体はここにある、ということになってくるのだ。
社会
社会性の起源というものがあるなら、それはユートピアということになるのではないか。
政治
経済
時間
時間は途方もなく遠いところからやってくる。そしてその瞬間に崇高が到来し、崇高の瞬間に情動性が宿ることがありうるのだ。それぐらい引き延ばされた時間は永遠(これは情動性ではない)のように感じるはずである。そして、永遠の中から過去や未来が現れ、ノスタルジーや憧憬の情動が生じることになるわけだ。
空間
空間も無限に広がっている。空間の果てを私たちは経験できない。しかしやはりそこから、何かが到来する。無限に遠かったり、無限に広かったりする現象の中で崇高が到来するのだ。
世界
自己と世界は一致しない。そこに人生の悲しみと喜びの全てがある。
生
(未完)
