アリストテレスにおけるファンタジアに関するノート【論考】

アリストテレスにおけるファンタジアに関するノート【論考】

アリストテレスにおける感覚主義

 『魂について』のファンタジアに関する第三巻第三章でアリストテレスは、知性認識〔νοειν〕と感覚すること〔αισθανεσθαι〕のある種の共通性から話を始めている。ここに、どちらも「あるものを捉える」魂の働きであるという共通性があるということ、アリストテレスによれば、それはギリシア哲学においては古くから言われてきたことであった。しかし彼らが語らなかったある魂の働きがあるという。「しかしながら、彼らは同時に、〔ηπατησθαι〕ということについても語るべきであった」(DA427a)。

 周知のように、アリストテレスは感覚の中に真理を発見する能力を持ち込んだ。「感覚は固有の対象においては常に真」(DA427b)なのである。これはプラトンにはなかった発想である。プラトンにとっては感覚とは不断の生成に属すいわばドクサであり、そのうちにおいては擬似真理しか見いだされない。プラトンの哲学的建築術の中では、真理が見出される場は見ることの出来ないもの、触れることの出来ないものとしてのイデアにおいてであり、超感覚的なイデアのうちにこそ真理はあるのである。結果的にプラトンとは反対にアリストテレスは、感覚すること、つまり広義の意味での(プラトン的な)生成の中で、真偽の性質を哲学的に語る必要が生じたわけである。ファンタジアもその文脈の中で捉えられることになる。

 感覚することについて最初に言及しておこう。アリストテレスは感覚することの枠組みの中に、感覚するもの(感覚器官)と感覚されるものという枠組みを導入している。この時に感覚するものが感覚されるものを認識するならば、それは互いが似ているということによってである。伝統的な哲学の枠組みである思考と存在との一致という見方がアリストテレスにもあるわけである。そしてこのようなことは認識に関する枠組みを象徴的に制度化する。感覚もこの枠組みに従っているならば、感覚的なものの象徴的な制度化、この場合感覚的なものにおける真理の創設という制度化があるのであり、それゆえ感覚における真という制度化から生じる偽も象徴的に制度化されていることになり(というのも互いに依存し合うわけだから)、すでに存在論的な枠組みのなかで議論が成り立っていることになる。さらにまたその存在論的な枠組みの中でアルカイックなものは知性よりもむしろ感覚である。「・・・知性認識されうるものは・・・感覚されうる形相のうちに存在しているのである。そしてだからこそ、何も感覚しなければ、何一つ学んだり理解することはないだろうし、また知を行使して観想するときには、必然的にファンタスマを伴って観想するのである」(DA432a、161-162頁)。言い換えれば存在論的基礎はアリストテレスにとって感覚だったということであり、さらに感覚が認識論的象徴制度としての思考と存在の一致を前提としているならば、現象学的に言えば、すでに基礎からの現在の時間化があったということである。アリストテレスのある種の感覚主義はこのような枠組みに由来している。こういったことは、思考が非時間的、非空間的であることを考慮に入れれば自明なことではないのだが。ファンタジアも感覚の枠組みから逃れられないものなのだろうか。

アリストテレスにおけるファンタジア

 まずファンタジアのアリストテレス的な意味について引用から明らかにしておこう。

「実際、ファンタジアは、感覚とも思考〔διανοια〕とも異なる。ファンタジア自身は感覚を欠いては生じないが、またこのファンタジアの働きを欠いては判断〔ὑπόληψις〕は成立しないのである。」

(427b)

 「・・・このファンタジアの感受状態は、われわれが望む場合には、われわれの意のままになる(その証拠に、ちょうど物事を記憶術の体系に従って並べておいて、そこから影像を作り出す人々のように、目の前に何かを作り出すことができるのである)。」

(ibid.)

 「感覚は、視覚能力と視覚活動のように、能力としての可能状態かあるいはその発現としての活動現実状態かのいずれかである。しかしそのどちらも成立していない場合でさえ、例えば、夢の中で現れるもののように、何かが現れることがある。」

(428a)

 こうしてみると、ファンタジアの意味とは、想像や表象といった言葉で言い表される働き、内容のことだということが分かる。それゆえ新版のアリストテレス全集ではファンタジアは「表象のはたらき」と訳されている。

 問題はそういったファンタジアの位置づけである。ファンタジアはどう位置づけられるのか。ファンジアが感覚と信念の結合である(この場合、信念は言語と結びつく)といったプラトン的考え方を批判した後、ファンタジアの特徴として(1)動であること、(2)感覚を欠いては生じないこと(3)感覚と類似していることなどの特徴を述べ、最後に真偽の問題について以下のように述べる。

「この最後の点[ファンタジアの動が真でも偽でもありうる点]は次のような理由から帰結する。すなわち、まず固有の対象を対象とする感覚は真であるか、あるいは最小限にしか偽を含まない。しかし第二に、これら固有の対象が何かに付帯しているという感覚があり、そしてこの場合には、もはや偽であることがありうる。なぜならば、白いということの感覚は偽とはならないが、白い物がこれかそれとも他の何なのか、ということについては偽でありうるからである。また第三に、共通の対象の感覚、すなわち付帯的な感覚の対象ーーそこに固有の感覚対象が帰属するものーーに付随するものを対象とする感覚がある、私が言うのは、例えば、動や大きさのことである(それらは感覚されうるもの付帯するものである)。これらの対象については、感覚に関して欺かれる可能性が最大である。感覚の活動実現状態によって生じる動は、以上の三つの感覚の形態を起源とし、それに応じて相違するだろう。そして第一の固有の対象に関わる感覚に由来する動は、感覚が現に成立しているかぎり真であるが、それ以外の二つの感覚に由来する動は、感覚が現に成立していてもまた成立していなくても、偽でありうるのであり、なかでも感覚されうるものが遠くにある場合は特にその可能性が高い。」

(428b)

 言い換えれば、感覚経験を通じて、つまり真なる感覚経験に何らかのしかたで基づけられることによって生じた、それ自体では偽なる経験がファンタジアなのである。もっと詳しく言えば、感覚における(1)固有の感覚(2)付帯感覚(3)共通感覚という三つはそれぞれ何らかの仕方で真なる経験なのだが、一方では現在的な感覚に基づいて、他方で経験された感覚に基づいてしか経験されず、さらに感覚でも言語でもない経験がファンタジアなのである。つまりファンタジアは感覚という制度に由来しているのである。このようにしてみると、フッサールの知覚(現在的)と想起、空想(準現在的)の区別とほとんど変わりなく、フッサールは古くギリシア時代にまで遡れる制度を踏襲しており、この制度は哲学において非常に根深い制度だということが分かる。アリストテレスが始まりであるかは分からないにせよ、アリストテレスの感覚主義、それゆえ現在主義は決定的な何かを哲学に持ち込んでいる。

記憶と感覚『自然学小論集』「記憶と想起」

 しかしアリストテレスはこのような感覚主義者だったと、つまり制度化された現在的感覚を基礎として構築して、そこからあらゆる哲学的な問いかけを行ったというわけではない。アリストテレスには興味深い別の側面もあるのだ。『自然学小論集』の記憶と想起に関する第二論考を見てみよう。

 アリストテレスは感覚と記憶(記憶もファンタジアの一部である)の関係について次のようなことを述べる。「しかるに、ちょうど述べられたように、今在る事柄の、今における記憶というものはない。すなわち、現に前にある事柄には感覚が、いまだ来ない事柄には期待があるのだが、過ぎ去った事柄には記憶がある」(449b)。ありきたりな説明だが、ここで重要なことは感覚と記憶の差異を強調していることである。この差異はアリストテレスにとって決定的な差異であり、それゆえどのように感覚が記憶となるのかが問題となった。「このように困惑しているのは、その記憶が可能である前提として、現に前にあらぬものを見ることも聞くことも可能だということになるだろうからだ」(450b)。言い換えれば、記憶は感覚とは断絶しているのに、どうして記憶は感覚化されうるのか、つまり記憶それ自体がそれとして存在するはずなのに、どうして記憶は感覚に由来する像(イメージ)のような働きをなすのであろうかということである。これは、よく考えてみると感覚主義への批判にもなっている。というのも記憶が感覚に基づくというのは、アリストテレスからしてみれば、アプリオリな構造ではないからである。しかし記憶と感覚の間に断絶があるのはなぜなのか。そもそもどうしてそのような困惑を認めなければならないのか。アリステレスは記憶の謎を提示する。「以前に感覚しているということから、そのような諸々の動(=ファンタスマ)が、魂において、われわれの内に、生じているのにもかかわらず、感覚したということに基づいて起こっているのかどうか、我々は分からないときがある。つまり、それが記憶か否かを、われわれが疑う時がある」(451a)。さらに我々は以前の記憶として思い出すこともあれば、実際に起こっていないことを思い出すこともあり、練習によって記憶が強化されることもある(ibid.)。つまり、感覚がアプリオリに記憶されるということは、日常的現実を考慮に入れるならばあり得ないのである。時間のアプリオリな性質として流れの性質があるということをアリストテレスは前提としていない。つまり断絶と記憶の誕生があるのであり、アリストテレスが最終的に記憶を像として定義したことを考慮に入れるならば、何らかの仕方で像が誕生したという制度化があるのである。「なぜなら、持ち続けている状態ないし受け止めている状態が内に生じ終わったとき、そのときそれが記憶なのだがら。したがって、受け止めている状態が内に生じつつあるのと共に記憶が内に生じつつあるというわけではないのである」(451a)。記憶に関しては、アリストテレスは発生の観点を捨てることはない。というのも記憶が感覚から断絶している以上、記憶は感覚的のではなく感覚的のであって、それ以前にはその不安定さ、不明瞭さ、つまり感覚の制度からの逃れ去りがあったからである。

 さらに決定的なことをアリストテレスは述べる。それは記憶における事物と時間の関係である。指摘しておくべきなのは、事物の比と時間の比はそれ自体独立した性質を持つということである。それゆえ「おそらくは、そのもの自身のうちで、外にある事物の諸諸の形相とは、諸諸の時間と比例的なものをも、把握しうるであろう」(強調筆者)(452b)。結果的にアリストテレスは次のように考えた。「それで、事物の動と時間の動とが同時であるとき、そのとき、記憶によって現実に活動している」(453b)。最終的にアリストテレスは、このような合致のときに記憶があると考えた。逆に言えば、記憶の発生において事物の動(空間化)と時間の動(時間化)の比はアプリオリには一致しないのである。アリストテレスの記憶が一般的な意味での想起のことであり、それゆえ現象学的な意味での想像の地位を占めるものならば、記憶は想像への制度化であり、それ以前は事物と時間の比(リズム)が調和しない状態、ずれ、歪み、それに伴う相互侵食があり、それゆえ事物の動は時間化しつつある動であり、時間の動は事物化(空間化)しつつある動である。つまり現象学的にいえば、ここには無の時間化・空間化がある。アリストテレスはその状態を「思い出していない」状態だと考えて、つまり空虚だと考えてそれ以上考察しなかったのであるが。しかしながら、アリストテレスはこれによって、誤った記憶に対して答えを与えたと考えている。というのも、この合致こそが記憶なのであり、感覚と記憶は別の時間化に属すのだから、記憶は感覚の時間の再構成なのではなく記憶という過去の時間そのものであり、それゆえ誤った記憶を思い出すにしても、それ自体何も誤っていないのである。それゆえここでアリストテレスは感覚における現在の時間化には関わり合わない過去の時間化、それゆえ現象学的には空想における現前の時間化に確かに触れている。これが示唆するのは、アリストテレスはありきたりな感覚主義者だったわけではないということである。彼が哲学をするために参照としたのは現実であった。この現実もそれ自体すでに感覚という概念に相当近いものなのだから不当に制度化されているにしても、しかしながら矛盾を孕んでおり、感覚の制度の彼方に触れているのである。この意味でアリストテレスはプラトンを超えている。というのも、アリストテレスとって最も参照すべきは現実であり、イデア論に由来する制度を信用する必要はないからである。しかしながら、この現実が不当に拡張化され制度化されているものならば、とりわけ感覚を存在論的な概念として使用するならば、それは不当な制度化として分析を簡単に終わらせてしまうだろう。結果的に、一方でアリストテレスは自身が参照とする現実についてほとんど探求することがなかったために、それをほとんど感覚と同一視することで感覚主義者のような装いを示すことになったのだが、他方で厳密に探究することがなかったがゆえに現実が「生まの現実」への接触しており、それゆえとりわけ「記憶」に関しては深い問いを提起することとなった。アリストテレスのファンタジアは確かに想像の制度化を被っているが、しかしながら想像から空想への通路を確保してもいる。その独特な繊細さによって。


引用は全て、『アリストテレス全集7』中畑正志ほか訳、岩波書店、2014年、からほとんどそのまま載せてある。ただし「表象のはたらき」はファンタジアに、「表象」「表象された事柄」はファンタスマに訳語を変更した。

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