概要
アリストテレスの概念。
デュナミスは「可能態」、エネルゲイアは「現実態」と訳されることが多い。
デュナミスはラテン語ではpotentia(ポテンチア)になる。これは日本語の「ポテンシャル」の語源なので、なんとなくイメージは掴みやすいだろう。
ちなみにエンテレケイア(完全現実態)という概念もある。これら三つの概念が互いに関係し合あうことがあるのだが、とりあえずデュナミスとエネルゲイアがどういう関係なのかを理解するのが重要である。
『形而上学』におけるデュナミス
『形而上学』の第5巻は哲学的概念の説明の章になっているのだが、その12章がなんとデュナミスを説明する章となっている。とりあえずここを見てみる。
デュナミスの哲学的意味
曰く、この言葉には5つほど(この区分はおそらく訳者によるものだが)の哲学的意味が含意されているらしい。まず一つ目であるが、
或る物事の運動や転化の原因〔始動因〕のことで、これはこの物事とは他なるもののうちに存し、あるいは他なるものとしてこの物事それ自らのうちに存するものである。
(上)183頁(1019a10)
ということである。
わかるようで分からない、ピンとこない表現を多用するのがアリストテレスであるが、ありがたいことに具体例も載せている。
曰く、建築術がこの例に当てはまるらしい。建築能力のある人と家を考えてみよう。この人が家を建てることになるわけだが、家にはこの能力が備わっているわけではない。というわけで、この建築する能力こそディナミスであるということができるとのことである。
二つ目が
或る物事がそれとは他なるものによって、あるいは他なるものとしてのその物事それ自らによって運動転化させられることの原理をも意味する。
(上)183頁(1019a20)
これは具体例を載せてない。どうなんだろうか。例えば、或る悪い人が説得されて良い人になる可能性がある場合などがこの例に当てはまるかもしれない。この場合、その説得を受ける人にその能力があると言われるので、ディナミスは悪い人が持っているということになる。
三つ目
その事柄を巧みにまたは意図の通りに遂行しうる能力を意味する,
(上)183頁(1019a20)
具体例としては、話が上手い(巧み)とか歩くことができる/できない(意図の通りに遂行しうる)とかがここに当てはまる。巧みの方はセンスとか才能があるという意味まで含意を広げられるかもしれない。四つ目は、「これの受動の場合」((上)184頁(1019a20))らしい。ちょっとよくわからない。受動なので、例えば匠の技で素晴らしい仏像を作った場合、その仏像にデュナミスがあるということか。
五つ目が
それのゆえに物事が端的に非受動的であり、不変化的であるか、または容易には悪く転化させられないような性を所有せる状態〔所有態〕がその物事の能力〔性能〕と言われる。
(上)184頁(1019a20)
これも具体例はないが、例えば石の硬さなんというのどうだろうか。石は簡単には割れないので、石にはそういった留まっている不変化の能力があるといえるのかもしれない。
現代的な感覚でいえば、破壊される場合にもその能力があるといって差し使えない状況もあると思われるが、例えば椅子が破壊される場合は椅子に対して破壊される能力があるとは言わないだろう。
明らかに5番目はアリストテレスの哲学的思想が背景にあっての定義づけだろう。というのも、ここには静止=良い状態という思想が含意されているからである。それゆえ、5番目の定義はかなり不思議な感じがするが、裏を返せばアリストテレス的ということかもしれない。
このあとディナトン(可能的な)とかアディナミス(無能力)という用語の説明になるのだが、この説明はあまり重要ではないので割愛する。というのもこれらのデュナミスの説明はエネルゲイアとは関係ないからだ。
実は、この第5巻では、エネルゲイアに対するデュナミスの説明は行わない。その説明が登場するのは『形而上学』第9巻なのだ。というわけで、そちらを読解してみることにしよう。
エネルゲイアとデュナミス
エネルゲイアとデュナミスを関連づけた検討は『形而上学』の第9巻で取り組んでいる。
ここでは、エネルゲイアについてこう言っている。
エネルゲイアというのは、当の事態が、「ディナミスにおいて」と我々の言うようなそのような仕方においてでなしに存続していることである。
(下)32頁(1047a30)
・・・謎である。謎だが解釈していくしかあるまい。
文法的にこういうことだ。まず、ある物だったり状況がデュナミスの状態がある。他方でエネルゲイアというのは、そのようデュナミスの状態を脱した状態だとアリストテレスは言っているわけである。
具体的には、ヘルメスの像を作るための材料となる木材などがデュナミスとなる。つまり、ヘルメスを可能とする木材というわけだ。
ただし、こういったデュナミスとエネルゲイアの関係は単なる類比関係(能力に対する現実の運動)であるらしい。実はアリストテレスが定義づけたいエネルゲイアの定義はこのあと登場する。
それが目的をそれ自身のうちに含んだ行為を指すエネルゲイア(現実態)である。ある種の状態(行為)のうちには、その行為のうちに目的を含んでいる完璧な行為というものがあって、それこそエネルゲイアだという。
具体例としては、見ることや思惟することなどがそれに当てはまる。どういうことかというと、例えば「見ているとき」には「同時に見ておった」ということらしい。それに対して、家を建てているというときには、同時に家を建て終わっているわけではない。後者の過程を運動といい、前者の過程をエネルゲイアと呼んでいる。
常人には理解しづらいが、おそらくアリストテレスは文法的な区別を念頭に置いている。つまり、補足にもあるのだが、「現在進行形と現在完了形が同時」の時にその行為はエネルゲイアと呼ばれるのである。それでも理解しづらい。なぜなら、見るという行為の現在完了は「見た」ということになるが、「見た」あとは見てない(現在進行ではない)のではないかと思ってしまうからである。ここら辺は、もしかしら古代ギリシア語の文法構造では普通に通じる違いかもしれないのでわからないが。
これが新たなエネルゲイアの定義なのだが、面白いのは、アリストテレスがエネルゲイアを説明するのに目的論を使用していることだろう。その行為が自らのうちに目的を含んでいる場合は完全であり、また良い行為だというわけである。アリストテレスの目的論というのは有名で、物事のあり方を目的論的に考える傾向が彼にはあるのだが、ディナミス/エネルゲイアの説明にも使用しているわけである。しかもエネルゲイアの方が、完璧な行為で、良い行為(テオーリアにもつながる)となるわけだから、目的論的に自らのうちに全てを含み込んでいるものがアリストテレスにとっては良きこととなる。伝統的な存在論的考え方と見れば良いのか。少なくともこういった考え方は哲学の伝統に深く刻み込まれることになったので、アリストテレスの影響力というのはなかなかのものだったと言えるし、ヨーロッパ的な伝統やキリスト教思想に相性が良かったと言えるのかもしれない。
まとめ
つまるところ、デュナミス/エネルゲイアにはいろいろな意味が含まれているので、これこそデュナミス/エネルゲイアの意味だ!!というような一義的な意味があるわけではない。ただ、哲学的意味としては、エネルゲイアになる過程としてのデュナミスや、完全な行為としてのエネルゲイアなどが重要となる。アリストテレスの本を読む場合は、そころへんを頭の片隅に置いておくと良いかもしれない。
また『自然学』では植物の成長をデュナミスとエネルゲイアを使って説明する。要するにデュナミス/エネルゲイアという概念で自然現象も説明しようとしているわけである。歴史的にこの思考体系は自然科学の発展とともに消え失せることになる(はずである)。つまり、目的論的原理は物事のうちに存在(実在)しない。あるのはむしろ数式で表されるような物理法則だということになる。自然を司どる法則に対する見方が変わっていくわけである。まあ面白い。
参考文献
アリストテレス『形而上学(上)』出隆訳、岩波文庫、1959年
アリストテレス『形而上学(下)』出隆訳、岩波文庫、1961年
