『言語の本質』を哲学的にみる|解説・書評・感想

『言語の本質』を哲学的にみる|解説・書評・感想

概要

 『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』は2023年に中央公論新社から発刊された、今井むつみ、秋田喜美著の新書である。

 今井むつみの専門は認知科学、言語心理学、発達心理学。秋田喜美の専門は認知・心理言語学。今井は言語の発達を言語と身体の関わり、音と意味のつながりに焦点を当てて心理学的に研究しており、その時に頼りにしてきたのが秋田のオノマトペ研究であった。そして、発達心理学者とオノマトペ研究の言語学者の二人が共同で「言語の本質」を探究した成果が本書である。

キーワードは「記号接地問題」。この観点から言語の習得はどのように可能となるのか、どのように言語を発達させるのか、言語の本質とは何か、という大きな問いに切り込んでいく。

 書評は他に『コミュニケーション不全症候群』、『ゼロからの『資本論』』、『史上最強の哲学入門』などがある。

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内容解説

内容は9章に分かれている。

最初の三章ではオノマトペそのものに焦点を当てて考察している。様々に誤解されやすいオノマトペなので、その誤解をまず解きほぐそうというわけである。最初に明らかにしたいのは「オノマトペは言語である」ということである。

第1章で「オノマトペとは何か」を概観した後、第2章ではオノマトペの「アイコン性」について論じている。一般に「アイコン」というのは視覚媒体であるが、聴覚的媒体であるオノマトペにも「アイコン性」が備わっており、そこからオノマトペの言語的性質を浮き彫りにする。第3章では、本格的に「オノマトペは言語である」ことを論じていく。

第4章からは言語の習得の問題に移っていく。人はどのようにして言語を習得していくのか。ここでは記号接地(身体に根差した記号経験)が言語経験獲得の前提として考えられている、そして、子どもの具体例を取り上げながら、まず第4章で言語習得の入り口の段階を、第6章では入り口を過ぎた後の発展的な段階の言語習得を見ていく。そのさい、第4章ではオノマトペがカギとなり、第6章では、アブダクション推論(仮説形成推論)とブーストラッピング・サイクルがカギとなり、言語の習得の在り方を論じていく。

第7章では、これまでの結論からヒトと動物を分かつものについて考察していく。どうして人間だけが言語(一般に言語と呼ばれるもの)を持つのか、それは対称性推論(前提と結論をひっくり返してしまうような推論)を行なってしまうかどうかの違いだということがまとめとして提出される。つまり、人はある種の誤りも起こりうる推論を行うことで言語をどんどん獲得していくのである。

要するに、全体を通して、人がどのように言語を獲得し言語を使用することができるのかを解説した本といえよう。本書はまず、言語の獲得には身体性が必要であり、そこには記号接地が欠かせないということから始まり、だからこそ、オノマトペという経験が原初の言語経験であるということが語られる。そして、オノマトペ言語からどのようにオノマトペ感のない言語へと発達していくのかが語られ、その時に重要となるのが「アブダクション推論」であり、それを土台として「ブーストラッピング・サイクル」という知識の自己生成サイクルが駆動されると巨大な言語体系が出来上がる。私たちはこの言語体系を駆使して、ある対象に名前を与えたり、人と会話したりする。

原初の身体体験から言語へ、発達心理学的な知見を取り入れて言語の獲得が時間と共にどのようになされていくかを知ることができる。

考察・感想

哲学的視点から見た言語とAI

 哲学的には、身体の面から言語へのアプローチ自体はそれほど珍しいものではないと思う。生活世界フッサール)や世界=内=存在ハイデガー)が提唱されてからは、この「身体」を軸にあらゆる活動(知覚、言語、政治など)を考えるようになっている。

 言語に関してはまた、「沈黙する言語」について語っている哲学者もいる(メルロ=ポンティリシールなど)言語というのは世界に切り込みを入れるものだけれども、それは無から突然生まれてきたわけではない。言語がなくても意味は存在する(自生する意味)。つまり、身振り手振りやジェスチャーの次元にも言語は存在するのである。また、超越論的テレパシーはその言語の基底部分だということもできよう。だからこそ、沈黙の言語があるからこそ、表出された言語の体系には様々なものが存在するのである(日本語、英語などの言語の違い。また手話などの伝達形式の違い。他にも世の中には口笛のようなもので意志を伝える民族もいる)。そのような哲学的視点から、さらに沈黙した言語についても考察を心理学的に追究することができるかもしれない。つまり、「子どもも当初から巨大なシステムを持っているはずがない」(vii頁)とあるが、実は、一般にいわれる言語のシステムとは別の仕方で、その土台となるものとしてある種のシステムを持っているのである。

 AIに関してもこの著作では触れられていたが、AIには身体がない、と考えるのではなく、AIには私たちとは別の身体性が備わっている、と考えた方がはるかに面白いはずである。確かに単なるChat GPTのようなものだと身体性は欠如していると考えれるが、身体データを元にして歩行するロボットなども登場している。つまり、AIもそのうちいわゆる身体性を獲得したAIというものが普通に登場するはずである。しかしながらその時の身体性というのは私たち人間とは全く異なるものとなっていよう。AIの身体はいわば血液のない身体である。おそらく人よりも体重が重いであろうし、体温も異なるだろう。しかしそこにも身体はある。そういった身体をAIが獲得した時、その時初めて今までにない生命というものが誕生することになるのかもしれない。

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