題名と内容の不一致〜〜餌は見栄え以上に美味しかった
なぜ働いていると本が読めなくなるのか--その問いの答えを求めてきた読者に、仕事と読書の関係を軸に置いたここ100年の労働史という、題名からは予想できない内容を読ませるのが本書である。本書は2025年新書大賞を受賞した(2024年は『言語の本質』)。
キャッチーな題名と10万部以上という宣伝に、本書を自己啓発と勘違いした読者は多いだろう。もちろんこれは著者である三宅の罠である。餌にかかった獲物を捉え半強制的に知識を与える。読書とは能動的な行為なのだから、著者が読者に強制的に読ませることはできない、そう思うだろう。繰り返しになるが、三宅が仕掛けた罠は題名と宣伝のみだ。それでも本書を手に取った読者が最後まで読み進めることになるのは、ひとえに内容が面白いからである。見栄えに騙されてかぶりついた餌が、思いのほか美味しかったというわけだ。
前提ーー大衆と労働の肯定
本書が前提とし暗黙のうちに肯定するのは、大衆と労働でである。大衆 vs エリートなら大衆を、労働 vs 無職や独立なら労働を肯定する。例えば、教養にコスパが求められる今日的状況を糾弾したレジーの『ファスト教養』は批判対象になる。三宅はファスト教養を非難するレジーにエリート主義の匂いを嗅ぎ取るのだ。
エリートが大衆を批判するという構図は、最近の現象というわけではない。労働と読書の関係を明治にまで遡ると、読書の勃興期からすでに大衆とエリートの対立があった。そして、大衆の学ぶ様式をエリートが批判するという構図は100年以上前から繰り返されている、と三宅は指摘する。レジーの『ファスト教養』は、100年間繰り返されてきたエリートの大衆批判の系譜に位置付けられるのである。
大衆を非難するエリートという構造が繰り返されてきた以上、大衆を擁護するエリートの系譜もある。大衆を擁護する三宅のエリート批判は、この構造の内部に止まっている。
この点から本書を批判することは容易である。労働者階級におけるエリートと大衆の対立からは、労働しない者の存在は綺麗に忘れ去られている。また、読者層のなかでも大きな割合を占めてきた女性、主に主婦の読書の歴史が語られることもない。労働者かつ男性という二つの制約を課すことで、多くの読者を獲得できたかわりに、読書史において重要でありながら語られない存在がいることも忘れてはならない。
簡潔に要約ーー半身の思想
本書の内容については、「最終章「全身全霊」をやめませんか」で掲載されている表(p.239)で簡単にまとめられているので紹介する。
時代区分は明治〜大正、戦前〜戦後、オイルショック〜バブル期、バブル崩壊後〜現代の四つに分けられる。それぞれの時代区分で、国の状況に関するトピック、労働に関するトピック、自己啓発の欲望、自己啓発の手段、読書の位置の5つの項目に解説がつく。
・明治〜大正は近代化の時代であり、職業の自由化が進行した。立身出世のために修養で自己を磨いた。読書はエリートの教養としてあった。
・戦前〜戦後は高度経済成長の時代であり、新中産階級が誕生した。エリート階層に追いつくため教養を持つことがよしとされた。読書は大衆にも開かれ、エリートと大衆の教養のためにあった。
・オイルショック〜バブル期はジャパン・アズ・ナンバーワンの時代であり、日本企業的働き方が定着した。会社で出世することを目標とし、会社研修が充実した。読書は教養を身につけるためではなく、娯楽として消費されるようになる。
・バブル崩壊後〜現代は民営化、グローバル化の時代であり、仕事が自己実現のためのツールになった。仕事で自己実現をするため情報獲得に奔走し、読書はノイズとして忌避されるようになった。
仕事=自己実現となった現代、消費で自己実現できたバブル期へと戻ることは、経済・社会的にもう許されない。現代の病に対する三宅の処方箋は、マルクス主義フェミニスト上野千鶴子の概念を借りて、半身になることだと説く。ときには全身全霊になってもいい。だが永続して全身全霊になるのは危険である。それは仕事、子育て、家事、読書、どれに対してもである。だから仕事にも私生活にも半身でかかわることが重要になる。
現状、わたしの周りにいる若い労働者で、面白い人は少ない。不安定な時代だからか保守化が進み。少し前の労働観に戻ってる気もする。だから本書の結論にわたしは大賛成である。みんなちょっと働きすぎというか、働くことが疑わざる前提条件になってやしないかと思う。この本を読むことでちょっとでも仕事から離れられるようになるといい。
書評は他に『コミュニケーション不全症候群』、『ゼロからの『資本論』』、『史上最強の哲学入門』、日本の無思想』などがある。