概要
『ホムンクルス』は山本英夫の漫画。2003年から連載が始まり2011年に完結。2021年には実写映画が公開される。主演は綾野剛。
トレパネーションを受けホムンクルスが見えるようになった名越が、そのホムンクルスと対峙する物語。
山本英夫の漫画には他に『新のぞき屋』『殺し屋1』などがある。ほかの漫画は『薬屋のひとりごと』『君たちはどう生きるか』『薬屋のひとりごと』『しあわせアフロ田中』『失恋ショコラティエ』などがある。
名言
伊藤学:人間の眼というのは、目の前の世界を映すだけのものではありません。目の前の世界に、自分を映し出すものでもあります。あなたが、ホムンクルスを見ている以上に、ホムンクルスが、あなたを見ているんです。
名越進:これは簡単な取引・・・。俺は心を見る。君は心を見る。それだけ・・・。これから君は本当の世界でもう「嘘」をつく必要はないんだ。人にも・・・俺にも・・・嘘つく必要は、ない・・・。ただ・・・ほんのちょっと・・・自分に嘘をつけばいいだけだ。
解説
深層心理をえぐる
『ホムンクルス』は元金融エリートのホームレス名越進が、医大生の伊藤学からトレパネーション手術を受けないかと誘われるところから物語が始まる。トレパネーションとは頭蓋骨に穴をあける手術なのだが、それをすると第六感が芽生えるようになるという。そして名越が、そのトレパーネーション手術を受けたところ、左目でホムンクルスが見えるようになる。相手がロボットに見えたり、砂人間に見えたり、、、。しかし、ホムンクルスとは何なのか。
伊藤:要は人々の心の深層に沈んだ歪みが、いろいろな化け物・・・「ホムンクルス」として見えるんです。
人はさまざまな欲求不満だったりトラウマを抱えてたりする。その捌け口が見つからない場合は、それを深層に沈め込み、現実には歪んだ形で表出する。
その深層のことを、フロイトは無意識と言った。実は本作は精神分析的に人の心の深層を抉っていく物語なのである。ホムンクルスの見える名越は、ホムンクルスによってその見る相手の深層(ホムンクルス)を解釈していく。そして相手のトラウマだったり抑圧を解消してくことで物語が進んでいくのだ。
ホムンクルスは自分の写鏡
これだけだと、名越は精神分析家のような役割として、どんどん人の歪み治療することで人を救っていくという幸福な物語となるだろう。
しかし、本作はそうではない。ホムンクルスとは何なのか。実は全ての人間のホムンクルスが見えるわけではない。見える人間と見えない人間がいるのだ。その違いを生み出すのは何なのか。
伊藤:気づいているんじゃありませんか。ホムンクルスが自分自身だということを。
これが本作の面白さだ。実は相手の歪みとは自分の歪みで、自分の歪みとリンクする部分が相手に見えているに過ぎない。言ってみれば、他者とはこのホムンクルスによって繋がっているのである。
これはクリストファー・ノーラン監督の『メメント』ととも重なる主題である。『メメント』では世界が自分の写し鏡だと言われていた (We all need mirrors to remind ourselves who we are.)。見ているものこそが自分自身が何者かを現すのである。ホムンクルスもそうだ。他人を解釈するということは、自分自身の無意識を解釈するのと同義なのである。
「見てくれ」という自己欺瞞
名越は自分自身は何者か?という問いの答えを求めて他人のホムンクルスを解釈していく。しかしながら、自分自身は解釈していけば解釈していくほど、相手のホムンクルスが自分に移ってしまい困惑する。この移ってしまったホムンクルスには何の意味があるのか。
伊藤:それは「見てやった」んだから俺も「見てくれ」という期待・希望・欲求の表れに過ぎません。
名越が「見ていた」のは「見てくれ」という欲求の裏返しだったのだ。それでは名越自身とは何だったのか。それは「見てくれ」という欲求そのものである。
最終的に見えるホムンクルスが全て自分自身となる。もはや解釈の必要がなくなるのだ。もはやそのホムンクルスは自分自身なので、相手を解釈するのにさしたる問題がなくなるのだが、その相手が自分自身を見てくれるわけではない。名越は最後「ここは天国か・・・?地獄か?」と呟く。そう、その世界で自分自身が何者かを理解できても、自分を見てくれる存在は存在しない。名越の「見てくれ」の欲求は満たされることがないのである。
考察
他者という隔たりーー「見てくれる」条件
名越の「見たい」という欲求は、自分を「見てほしい」という欲求の裏返しであった。名越は自分自身という心を見てほしかった。
しかしこの自分自身というところに難しさがある。自分自身とは、名越にとってどのような自分自身なのか。それは原理的に他者とは異なった自分自身に他ならない。ところでホムンクルスとは何だったか。それは自分自身である。つまり、ホムンクルスを通して他者を見るということは、決して他者にたどり着くことはないのである。
しかし名越の求めた「見てほしい」自分自身というのは、ホムンクルスを介さない自分自身なのだ。とはいうものの、ホムンクルスを介してしか他者を見ることはできない。つまり、名越が見て欲しかった自分自身を、他人が見るということは原理的に不可能なのだ。
哲学的に見ると、ハイデガーからレヴィナスへの転換のような構造がある。ハイデガーが主体(現存在)を基礎に置いたのに対して、レヴィナスは隔たりとしての他者を基礎に置いた。そしてそのような他者はまさに主体(エゴ)を通して、主体を成り立たしめるものとして現れてくると(詳しくは「他者に対する責任:レヴィナスの哲学について」参照)。
名越の悲劇はこのような他者を認められなかったことである。彼には明らかにある種の完全な一体化願望があった(見ると同時に見られる関係=恋愛)。しかしこの可能性は常に予測不可能な形で裏切られる。自分が「見た」としても、相手が「見てくれる」とは限らないからである。それが成立するのは「自分に嘘」(ななこ)をついた時である。他者はいつでも自分の思い通りにならず、その意味において、名越の「ここは天国か?あるいは地獄か?」も理解することができる。
ホムンクルスに見られて
さて、我々の世界はどうであろうか。自分たちに立ち返って考えてみよう。もちろんホムンクルスは私たちには見えない。しかし私たちは日々、ホムンクルス=幻想=フィクション=に囲まれている。
「心」とは何なのだろうか。たとえば自分の心、あの人の心とは何なのだろうか。それはある行動や行為、言葉なのから同定されたフィクションに過ぎない。もちろん、心は何らかの形であるだろうが、それは波のようなものとして、あやふやなものとして、永遠の謎としてあるだけである。
そして本作自体はどうなのだろうか。本作を読み、ある人は驚き、ある人は気持ち悪いと感じ、ある人は感動するだろう。しかし、この漫画こそフィクションであり、つまりはホムンクルスそのものではないか。私たちはこの漫画を読み共感することで、自分自身を覗いているに過ぎない。名越に共感するところがあるということは、、、それは名越が読者自身のホムンクルスだからだ。
ホムンクルス=フィクションは自分を覗き込むための鏡である。ホムンクルスはいつもこちらを見ている。あとは、見返す勇気があるかどうかだ。
狂気に陥らないために
おそらく必要だったのは、人ではなく物への執着への回帰である。始まりのように車の声を聞いていれば、狂気に陥らずには済んだかもしれない。