『城の崎にて』解説|死に対する親しみと偶然生きていること|あらすじ感想・伝えたいこと考察|志賀直哉

『城の崎にて』解説|死に対する親しみと偶然生きていること|あらすじ感想・伝えたいこと考察|志賀直哉

概要

 『城の崎にて』は、志賀直哉の短編小説。1917年(大正6年)5月に白樺派の同人誌『白樺』に発表。日本の私小説の代表的な作品の一つとされており、心境小説としての趣が強い作品となっている。

 志賀直哉は他に「小僧の神様」などがある。

 事故で怪我をした主人公が療養のために訪れた城崎温泉で、散歩をしながら生きていることと死んでいることについて思い悩む物語。

 教科書に採用された小説は他に、夏目漱石こころ』「夢十夜 第一夜」、梶井基次郎「檸檬」、宮沢賢治「注文の多い料理店」「やまなし」、星新一「ボッコちゃん」などがある。

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登場人物

自分(志賀直哉):電車にはねられ、城崎温泉にて療養中。

あらすじ

 自分は電車に跳ね飛ばされて怪我をしたため、養生のため城崎温泉に来ている。散歩しているときは怪我のことを考える。自分は死んでいてもおかしくなかったが、しかししに対する恐怖はそれほど起こらなかった。

 自分の部屋からは蜂が見える。どこかに蜂の巣があるらしい。働き蜂がせっせと働いている下で一匹の蜂が死んでいるのを見つけた。その蜂は全く動かず、いかにも死んだものという感じを与えた。夜には雨が降り、蜂の死骸もどこかにいってしまった。

 それほどたたずして、自分は円山川に行くつもりで宿を出た。すると橋の上で人が何か川のものを見ながら騒いでいる。鼠を川に落として、石を当てようとしているのだ。その鼠は魚串が刺さっており、川から這い上がろうとしても石垣に引っかかって川に再び落ちてしまう。自分は死ぬ運命なのに鼠が殺されまいと必死なのが頭についた。自分ごととして考えてみた。もし自分の怪我が医者に致命的なものだと言われていたらどうだっただろうか。すこし弱っただろうが、死の恐怖にそれほど襲われなかっただろう。ただ鼠のように生きようと努力しただろう。なんにせよどう転んでもそれでよく、仕方のないことだ。

 またしばらくしてある夕方、町から小川に沿って上へ歩いていた。もうここらで引き返そうと思った時に小川の脇の流れにいもりを見た。自分はいもりを脅かして水へ入れようと思った。そこで小鞠ほどの石を適当に投げてやった。別にいもりを狙ったわけではなかった。しかしいもりにあたっていもりは死んでしまった。いかにも偶然殺してしまった。自分は死について思った。自分は偶然死ななかった。いもりは偶然死んでしまった。あの死んだ蜂はどうなったか。そしてあの鼠はどうなったか。考えていると、生きていることと死んで了っている事とはそれほど差のないような気がしてきた。

 3週間後自分はここを去った。それから3年自分は脊椎カリエスにならずに済んでいる。

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解説

第二期の志賀直哉成熟期の私小説

 時期的には中期の作品になる。

 志賀直哉は初期の頃は父との不和を描いた作品が多い。また漱石からの朝日新聞連載小説の執筆依頼と執筆の断念などが重なり、大正3年から6年に及ぶ最初の空白がある。この4年にわたる期間は沈黙し捜索活動をしていない。『城の崎にて』はその沈黙期間の後の作品だ。

 この頃になるとすでに漱石は亡くなっており、また1917年8月には父との不和が解消され、『和解』を執筆している。漱石と父という二重の束縛とストレスから解放され直哉は自由に作品を作れるようになっていた。そしてこの頃から旺盛な執筆活動を開始する。その直哉成熟期の代表的な作品がこの私小説『城の崎にて』なのだ。

脊椎カリエス、ハンの犯罪、フェータル

 聴き慣れない単語や小説が登場するので、ここでおさらいしておこう。

 まず最初に登場する脊椎カリエスである。志賀は電車に轢かれた時にできた傷が脊椎カリエスになるかもしれないと語っているが、脊椎カリエスとは結核菌が脊椎へ感染した病気のことをいう。つまり結核性の病気で、昭和40年代には随分と多くみられた病気である。脊椎に結核菌が感染するので、カリエスになると背骨が痛む。

 これはまず結核にかかっていることが前提なので、志賀の場合も結核にかかっていたということなのか、はたまた医者がそれらのことをよくわかっていなかったということなのかはここでは判断がつかない。ただ結局志賀が脊椎カリエスならずに済んだというのが、この話の結論でもある。

 中盤で登場する『范の犯罪』(1913)は、志賀直哉の小説である。志賀が述べている通り、これは妻を殺してしまうその夫范の話である。この話、実はかなり面白くて、妻を殺してしまったのが故意の犯罪なのかそうではないのかがわからず最終的に無罪となるという奇妙な話なのだが、「その前からかかっている長篇」とは一体なんだろうか。

 志賀直哉の長篇と言ったら『暗夜行路』しかあるまい。この頃はその前身となる『時任謙作』を執筆しているので「その前からかかっている長篇」というのは『時任謙作』のことである。

 これまた中盤で登場するフェータルとは何のことだろうか。英語だとfatal、命取りになる、致死的な、致命的なという意味である。英語で言ったのは、要するによくある格好付けだろう。

 これらのことを知っておくとより理解が進むだろう。

死に対する親しみと偶然性

 話としては、いくつかの死に対して徒然なるままに考察を深めていく私小説だ。

 まずは自分の死である。死にそうになる。ただし生きてて良かったと思うと同時に、生きていく活力が湧いてきたとかいうわけではない。

 二つ目が蜂の死である。それは静かな死である。死んだ蜂に全く拘泥することなく傍で働き蜂がせっせと働いている。直哉はこの死は淋しいという。しかし淋しいから忌避すべきものだと考えていない。逆にそのような淋しさの中にある静かさを書きたいとさえ思っている。

 三つ目がネズミの死である。この死は一転してもがき苦しむ動の死である。七寸というのはだいたい21センチメートル。結構長い。頭の上に三寸ほど、喉の下の三寸ほどそれが出ているとあるから、刺し貫いている状態らしいが、そんなことしたら鼠がまず死んでしまわないだろうかと思うがどうだろうか。とにかくそれが引っかかって川から這い上がれない。石を投げられて必死に逃げている。それをみて直哉は「あれが本当なのだ」と思う。つまり「自分が希っている静かさの前に、ああいう苦しみのあることは恐ろしい事だ」ということである。

 そして四つ目が蠑螈いもりの死である。このいもりは、直哉が当たらないと思ってなげた石がなぜか当たって死んでしまっている。そもそも直哉は殺す気が全くなかった。投げたのも、当たらないと思っていたから投げたのである。なのに偶然にも当たってしまい、いもりは死んでしまった。

 様々な対比が重なっている。二つ目と三つ目の死では静と動の対比が際立っている。三つ目と四つ目では石ころを対象に当てようという意志があったかどうかが対照的である。一つ目と四つ目は死んでもおかしくないのに生きているのと、生きてておかしくないのに死んでいるののコントラストだ。

 その中で直哉が冷めた目で見出した考えが「死の偶然性」「死への親しみ」だ。「死の偶然性」はとりわけいもりの死に象徴されている。いもりは死ぬはずではなかったが死んでしまった。特にそこに因果的な理由があったわけではないだろう。そして自分は生きてしまった。しかしそこにも因果的な理由はないだろう。そこに直哉は「偶然性」を感じ取っている。

 また「死への親しみ」もこの作品の通奏低音となって響いている。厳密に言えば、「生への喜びのなさ」ということでもあるかもしれないが、自分が生きてしまったことに対する生の奥深さに対して志賀は何度か言及している。とりわけ、話の最後では次のようなことを言っている。

そして死ななかった自分は今こうして歩いている。そう思った。自分はそれに対し、感謝しなければ済まぬような気もした。然し実際は喜びの感じは湧き上っては来なかった。

 この感情が直哉を貫いている。直哉は自分が生きてしまったことに対する何がしかの感謝とか、生きようという意志みたいなものを感じることができない。生きているというのは、ただ生きているという事実でしかなく、直哉にとってはそれ以上でもそれ以下でもない。自分は偶然生きている、それだけのことだ。この生に対する執着のなさをこの作品で直哉は貫いている。

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考察・感想

死への欲望と志賀直哉

 直哉には死への憧れみたいなものがあったようだ。この作品ではそれを「死に対する親しみ」として描いている。例えば次のようなことを言っている。

自分は死ぬ筈だったのを助かった、何かが自分を殺さなかった、自分にはしなければならぬ仕事があるのだ・・・(省略)・・・。実は自分もそういう風に危うかった出来事を感じたかった。そんな気もした。然し妙に自分の心は静まって了った。自分の心には、何かしら死に対する親しみが起こっていた。

 「死への欲望」について語ったのはフロイトである。彼は人間の精神生活にある無意識的な自己破壊的・自己処罰的傾向に注目した。つまり、人間には生(生きること)とは反対の衝動が備わっているということである。「生きたい」というのは純粋な生の欲望なのではなくて「死への欲望」に対する抵抗なのだ。

 直哉にもそれに近いものがあるが、それと全く同じではない。直哉の場合、破壊衝動のものがあるわけではなく、死というのも単純に受け入れているのだ。死にたいと思っているわけではないにしても、「死ぬのも悪くない」と思っている。しかも静かに死にたいと思っている。この頃の志賀直哉らしい冷めた視点だと思う。

生きていることと死んでいることはそれほど差がない。

 おそらく本作品の最大の謎がここだろう。

生きている事と死んで了っている事と、それは両極ではなかった。それ程に差はないような気がした。

『城の崎にて』36頁。

 やや唐突に、両極ではないとする。しかもその意味するところは、それほど両者に差がない事だとする。

 両者は紙一重だ、ということだろうか。つまり生きるも死ぬも偶然でしかない。その意味で自分が今生きているのにはなんの理由もなく、次の瞬間には死んでしまっている事もある。それだから、それほどに差はないということなのだろうか。

 しかし客観的には大きな差だろう。なぜ志賀の場合それほど差がないのか。

 淋しいと同時に死に対する親しみを感じていることが重要だろう。ある種の死への近しさがこのような両者の差のなさを生んでいるように見える。

 ある種の真骨頂は、そういった懐疑主義に対して、穏やかな目線、静かな心を持っている事だ。目的がないと人は動揺すると考えたのはニーチェやサルトルだ。実存の時代では、すべてが不安である。不安の中では死というものが重要な実存的契機として浮かび上がってくる(例えばハイデガー存在と時間』を参照)。

 しかし志賀直哉はそのことに対する防衛反応を取らない。死は偶然に訪れるらしい・・・とだけ冷めた心で考える。それだけだ。達観とでも言えば良いだろうか。この達観が両者の差を埋めているのである。

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参考文献

志賀直哉『城の崎にて』新潮文庫、2005年。

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