概要
山本英夫のバイオレンスアクション漫画。三池崇史監督により2001年に映画化された(R-18指定)。
イチを要するジジイのはぐれ者グループと、垣原率いる暴力団垣原組との抗争と、イチのサディズム、垣原のマゾヒズムの邂逅を描く。
名言
ジジイ:妄想ってのは、結局、欲望の塊なんですよ。
解説
殺し屋イチの仕事
舞台は新宿歌舞伎町。主人公のイチはジジイ専属の殺し屋である。組織を破門されたジジイのはぐれ者グループ(メンバーは他に井上、昇、龍)は暴力団の柿原組の殲滅を目論んでいる。最後には垣原組のトップ、垣原を殺すことで殲滅が終わるのだが、毎回ヤクザを殺しにいく殺し屋として派遣されるのがイチである。
この殺し屋イチは全然殺し屋っぽくない青年である。強面ではないし、突然泣き出したりする。しかし、殺すときの残虐さは凄まじい。靴の踵に嵌め込まれた刃でめった斬りにし、殺された肉体は幾つにも分断され、原型を留めない。なぜこんな残虐なことができるのか。
実は、殺し屋イチはそこでその暴力団の一員を殺しているとは思っていない。現場で相手に対峙すると昔の虐められた思い出が蘇り、その妄想の中で、いじめっ子をやっつけているのである。そしてもう一つ、彼は超がつくほどのサディストなのだ。つまり、この妄想の力とサディズムがイチの残虐さの根源なのだ。
妄想が現実に力を与える
この物語では主要人物がそれぞれ強烈な嗜好や妄想を持っている場合が多い。仲間の井上は薬物中毒で死体性愛を持ち、自らの死体での屍姦願望がある。龍という中国人は妄想こそないが本物のヒモである。イチの欲望はS(サディズム)欲望であり、人を痛めつけることに性的な興奮を覚える。しかも実は相手は自分にやられたがっている(殺されたがっている)と妄想の中で思っている。垣原組の長垣原は逆にM(マゾヒズト)であり、痛みに愛や性的快感を感じている。
実はそれよりも強烈な妄想を抱えているのがジジイである。ジジイ曰く、そもそものジジイの暴力団殲滅計画はこの新宿に平和を取り戻すという平和の新宿計画のために練られたものであった。しかもその理由が「だって、オレが死んだ後に楽しいことがあると思ったら、おちおち成仏してられねえ」というものであった。このジジイ、見た目はジジイであるが実は整形をしている35歳で、ステロイドにより小柄だが異常な筋肉量を保ち、垣原組の殲滅には丸3年もかけて実行に移しているというとにかく新宿の平和のために命をかけている存在なのだが、その計画を話す相手がなんと「東京ハローひまわりテレフォン」という「ストレス発散したい時」「八つ当たりしたい時」「イライラした時」「話を聞いてほしい時」「寂しい時」などにかけられる、東京都内にある単なるコールセンターだったのである。『東京大学物語』のように、これまでの全てがジジイの妄想の中で完結しているのではないかという疑念まで湧き上がってくるラストである。
さて現実に力を及ぼしていたのはなんだったのか。それは妄想である。イチは妄想により殺し屋になり、ジジイは妄想により殺しのグループを結成し、暴力団を殲滅した。現実を変えるのは妄想である。それが強ければ強いほど、その現実に及ぼす影響もとんでもないところまで膨れ上がるのである。
考察
妄想の力が弱くなった世界で
さて、ちょっと現代について考えてみる。漫画の世界ではなく、現代はどうなんだろうか。『殺し屋1』では新宿歌舞伎町という街が妄想さえも飲み込むとんでもなく魅力ある街のように描かれていた。
新宿という現実に、妄想を飲み込まれてしまったイチは・・・普通の人間になっちまったってことですわ。
妄想よりも刺激的な街新宿。新宿という街が実際そうなのかは判断しかねるが、現代という時代自体が、この新宿のように妄想を飲み込むような魔力をもっていないだろうか。
街に魅力あるのではない。妄想を逆に飲み込む現実というのは、現代ならばインターネット空間である。妄想というのは到達が難しかったり、未知のものであったりしたほうが大きく膨れ上がる。しかし現代のようなインターネットの時代になると、全ては手の届くようなところにあるように思われる。外国に行きたいと思えば行ける。買いたいものがあればAmazonで買える。したいことがあればすれば良い。やらないのはやる意思がないだけで、やることが原理的に不可能というわけではない。
詰まるところ、欲望は妄想しなくても満たせるのである。イチの妄想的願望はある程度はインターネットの力を借りれば擬似的に済ますことができるのではないか。ジジイの願望もネットの世界でこれまたある程度は満たすことができるのではないか。そもそも漫画の世界でのことなので現実では到底不可能である。それなら妄想せずともインターネットで済ましてしまおうということである。
妄想があるのは未知の世界があるからである。しかし、あのビルはヤクザビルなのだろうか。現代ならおそらく調べればそれほど困難なく分かってしまうだろう。分からなくても手掛かりぐらいは掴めるだろう。未知は妄想を生むが、未知のものが少なくなれば妄想も要らなくなる。したがって現実が妄想に勝つようになる。
しかし妄想は現実を動かす根源でもある。妄想の力が少なくなった世界でも、人を動かすのは妄想力なはずである。妄想の力が弱くなった世界で、それでも常に妄想は活火山のマグマのように蠢いている。