はじめに
思いがけず人の書いたものに心動かされた。文章に惚れた。夢中になって文字を追っていた。
自分が読んだのはダ・ヴィンチWebにおける芸人さんの連載コラムだった。「東大卒コンビ・無尽蔵のコラム連載『尽き無い思考』」。コンビ無尽蔵の野尻氏とやまぎわ氏が、芸人としての生活やお笑い界についての思索を、交替で綴っている。
二人は数多くのライブに出演し、芸人として着実に知名度を上げ賞レースで成績を残しながら、芸人としての自らの活動や芸人という職業について観察している。そのメタな思考は、芸人として生きている実感から丁寧に重ねられたものだ。前述のコラムはその実感の中から生まれた言葉であること、読んでいるとよくわかる。
彼らの書いたものを読んでいると、二人はきっと誰も到達したことのないところへ行けるのだろうという予感がする。そういうワクワク感のある文章を紹介したくて、私はここに感想文を書いている。
コンビ無尽蔵について
無尽蔵は野尻氏とやまぎわ氏によるお笑いコンビ。二人は東京大学落語研究会にて出会い、コンビを結成したとのこと⑴。野尻氏は1998年生まれで、やまぎわ氏は1999年生まれ⑵。若い。
二項対立を超えていけ
自分は二人の文章のどこに惹かれたんだろう。それはきっと、単純な二項対立から脱した思考を読み手に示してくれるところだ。
例えば野尻氏担当の「尽きない思考」第9回。タイトルは「お笑いは結局、陰キャのものか?陽キャのものか?」。その中で野尻氏は、お笑いは陰キャのものでの陽キャのものでもないとして、よくある「陰キャ/陽キャ」文脈を崩す。お笑いは物事の新たな面白がり方を提示していくべきものだから、既に固められた「陰キャ/陽キャ」文脈に乗せていこうとすること自体が、お笑いではないのだとする。
その結論を引用しておこう。
陰キャと陽キャ、大衆性と斬新さ、テレビとライブ、メジャーとアングラ、主観と客観、不敵と謙虚、豪快と繊細、サービス精神と自分勝手さ、面白いものと面白くないもの…芸人はあらゆる相剋する二項の狭間で揺蕩い、清濁を併せ呑んで世の中へ新たな価値を吐き出す職業なのです。ですので、お笑いはその深遠さに挑まんとする酔狂さと大胆さを兼ね備えた求道者のものであるとしか言いようがありません。(「尽きない思考」第9回より)
自身の行っていることを、20代なのにこんなに練った思考でしっかり定義している。二つの相反するもののせめぎ合いは、彼自身が舞台に立つ中で感じるものだろう。二項対立に呑み込まれることなく、それを超えた何かを求める姿勢を表明する文章は、読んでいて心地良い。
彼の特徴的なところは、二項対立自体の詰まらなさに既に気付き、その上で新しい価値を社会に提示する意志を持っていることだ。二項対立構造に縛られながら、二項のどちらかが極端になるまで突き詰めていこうとするのではない。行くところまで行ってしまった「私」から見える世界を、誰かに教えようとするのではないのだ。個人の景色や感情ではなく社会的価値を見据え、「私」の追求ではなく周囲への効果に心を向けている。
このようなあり方は、尊敬してしまう。自分はどうしたって「私」に興味があるし、袋小路の思考の果ての「私」が吐き出すものに共感するから。「私」の芸術を生み出す人が社会に関心がないということではないのは、わかっている。社会は無数の「私」が作るものだから、「私」を突き詰めていくこと、そして「私」をどうにか捉えようとすることは、社会を考えることに繋がるはずだ。でも「私」を穴が開くほど見詰め、こねくりまわしてぐちゃぐちゃにしたところから社会を見るのではなく、彼は「私」を手に持った状態で社会に目を向けている。それが何だかとっても新世代な気がした。若いのに、若さの葛藤を抜けてもう大人であるようだ。
やまぎわ氏も野尻氏同様に、達観を感じさせる文章を書く。やまぎわ氏担当の第6回「芸人という運ゲーを続けるために社会人をやる」では、一般社会人の生活と比較しつつ、芸人の活動は運に左右される部分が大きいこと、そして他人に人生を握られ過ぎていることを指摘している。賞レースで勝ちあがることにも「たまたま」の要素はあり、その「たまたま」で人生が変わっていく。そしてそのようにして芸人の人生を左右するものの中には、審査員の価値観やお客さんのご機嫌など、外部要因も絡んでいるということだ。やまぎわ氏の言葉を引用しておこう。
「他人には縛られない!自分のやりたいことで生きていく!」というモチベーションの芸人は多いと思いますが、実際はそんな芸人の方が他人に人生を縛られ、理不尽な社会の荒波に飲まれているのではないでしょうか。(「尽きない思考」第6回より)
だから彼は運要素の大きな芸人界で生き残るべく、幸運を引く確率を上げるためのマインドセットを用意しているという。成果が出てもその中の運要素を鑑み、改善点を探し続けることと、短期的な勝ち負けに動揺せずに、お笑いを続けていくこと。そしてお笑いを続けるために、彼は就職もしている。
自分が目下取り組むことについて、こんなに分析的で冷静にいられるのだろうか。賢いとはこういうことなのか。いろいろなことに揺さぶられてばかりの自分は羨ましい。
やまぎわ氏は「(賞レースで)受かる/落ちる」「ウケた/ウケない」「売れる/売れない」などといった、単純な思考にはいない。そこに陥る愚かさを今の時点で彼は知っている。その沼にハマりあたふたしている人々を差し置き、タケコプターで飛んで自分で決めた目的地に行こうとしているようだ。
個人的なメディアが増殖する今、二項対立的議論はそこかしこで膨れたと思えば、忘れられ放置される。でも二人は諦念の中で世界に操られ苦悩するのでもなく、外部として醒めてその世界の問題を指摘していくのでもない。彼らは自分が求めたその世界の中で、自分をアツく発揮しながら、その世界自体も変えていこうと心の奥で思っている。それをやってのけている彼らのしなやかさは、私とは違う世代なのだと感じさせる。新世代として、きっと誰も到達したことのないところへ行くだろう。
おわりにー軽やかな飛翔へー
「東大卒コンビ・無尽蔵のコラム連載『尽き無い思考』」について、野尻氏とやまぎわ氏の文章も引用しながら見てきた。二人の文章を読んでいると、二人が世の中を俯瞰し、客観的により良いあり方を考えていることが伝わってくる。我々は地上の混沌に沈み、重い体で伏し、疲弊した頭に思考を拒否されながら、生活をしている。でも、無尽蔵の二人はこんな世界でどう笑えるかを志向して着実に進み続けていて、我々が縛られるようなありふれた桎梏からは解き放たれている。彼らは軽やかに飛翔している。そしてどんな世界になっても卑屈や虚無主義に甘んじることなく、無尽蔵に飛び続けられるしなやかさを彼らは持っている。
そんな感想になるのは、彼らの文章がとても優れているからというのもある。漢字の熟語を用いながら、自分の思考を一つ一つ切り出していく野尻氏の文章を読むと、玉がカットされ磨かれ、硬質でキラキラした輝きを増していくのを見ている感覚になる。和語や話し言葉を使いつつ、現象を広い視野でカバーしながら述べていくやまぎわ氏の文章は、滑らかで手触りのよいベルベットに覆われていくような安心感がある。二人とも自分の内面を表現するのが上手い。憧れる。
自身を表出できている感覚は、自分と自分の生を把握できている感覚に繋がるだろう。他人に振り回されるのではなく、主体性を感じられる生。そうやって生活できたらいいなと、二人の文章を読みながら思う。
「こうあるべき」から解放され、自分も飛び立ちたい。そして誰も行ったことのないところへ行ってみたい。無尽蔵コラム「尽きない思考」を読みながら、私は最近そんな夢想をしている。
注
⑴東大卒コンビ・無尽蔵のコラム連載「尽き無い思考」 | 連載 | ダ・ヴィンチWeb 記載のプロフィールより
⑵無尽蔵 | Sun Music Group Official Web Site プロフィールより
※画像は写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK(ID:25404974 作者:YKwork)
