加藤典洋『日本の無思想』を読む|解説・要約

加藤典洋『日本の無思想』を読む|解説・要約

ホンネとタテマエ

 政治家が失言を漏らしたとき批判に耐えきれず前言撤回することがある。そのとき「本音」と「建前」の関係はどのようになっているのだろうか。

 本音は「口にはださない本心」、つまりこの場合はうっかり漏らしてしまった失言が本音である。であるならば、建前とは失言となってしまうようなことを言ってはいけないということであり「表向きだけの方針」である。

 『日本の無思想』の著者である加藤典洋は、いまでは一般的となったこの建前と本音の意味を問い直す。この政治家の失言撤回事件として挙げられるのは、「南京事件はでっち上げだ」という永野法務大臣の1994年の発言であるが、加藤が違和感を覚えるのはその発言を前言撤回したにもかかわらず恥ずかしげもない永野の態度である。

 もしこの失言が本音であるならば、前言撤回は恥ずかしいことではないのか。その問いを出発点に本音と建前が時代を経るごとに意味を変え、現代で通ずるホンネとタテマエになっていったと論じる。そう、元来の本音は「口にだす本心」であり、ホンネとは似ても似つかぬものなのだ。

 元々の本音と建前は遠藤周作の『沈黙』の踏み絵の場面を思い出すとわかりやすい。キリスト教への信仰が本音であるならば、キリストの顔の像を踏むことは死と交換だとしてもできない。信仰とはそれほどにまで強い者であり、それこそが本音である。だがホンネは前言撤回しても痛くも痒くもない。ようは現代のホンネは棄損されようが撤回しようがどうなってもいいのである。

ニヒリズムとねじれ

 ホンネとタテマエの本質は実は互いが相対的な点にある。ホンネとタテマエは入れ替え可能なのだ。さらに突き詰めて考えてみると、ホンネとタテマエはどちらも建前であり、本音はどっちでもいいなのだと加藤は指摘し、そこに深刻なニヒリズムをみる。どっちでもいいよ、という本音があるからこそ前言撤回が簡単にできるし、恥ずかしくも感じないのだ。

 本音と建前からホンネとタテマエへ。この変遷の起源には全面降伏した敗戦の体験が、それに伴う切断がある。

僕達はつまり、かつては征服者に完全脱帽し、全面的に屈服したのですが、占領が終わり、征服者が去ると、この事実をなかったことにしたくなりました。こうして、彼らのうちの何人かは、次のように考えます。いや、自分はあの時、アメリカに絶対帰依したのではない、たしかにそのようなしぐさは示した。でもそれは、帰依したふりをしたのにすぎない。うわべでは頭を下げたが、腹の中では面従腹背をきめていたのだ、と。あの絶対帰依はタテマエ上でのことであって、ホンネでは、戦前以来の信念を保持していた。そう、あれはいまとなって考えてみれば、面従腹背だったのだ、と。彼らはそう考え、そうれを自分で信じるため、いわば、自分の内部にその時はなかった「本心」を、”新設”することにしたのです。

戦後完全服従したかに見えたのはアメリカが怖かったからで、本心では戦前以来の信仰を保っていた、という本心の捏造が戦後日本の「ねじれ」の起源である。ようは降伏に伴って意見をコロコロ変えた恥に耐えきれず、過去の自分は内心では一貫していたのだという物語を捏造したのだ。

抵抗の形

 この指摘は戦後に固有のものにみえる。だがこの問題を「日本近代」へと広げ、さらには西洋の「近代」にまで同型の「嘘」を指摘する。

 そこで呼び出されるのがドイツ哲学アーレントである。アーレントは古代ギリシャにあったポリスとオイコスが代表する公と私の関係に、社会的なものと親密的なものが侵食していると論じる。加藤は、古代ギリシャの公の復権を唱えるアーレントの結論には同調せず、社会的なものと親密的なものの関係から公と私を論じる。

 ルソーマルクスが論じる社会の前提にあるのは、私利私欲に満ちた「私」であり、そこから公を立ち上げなければならないというのが加藤の主張である。

 最後となる第四部は、「日本の無思想」から思想が芽生えるために、副題の言葉を借りれば「戦後の思想風土の蘇生のために」書かれている。日本の社会構造の基本となる「二重構造」の起源を考察し、そこから沈黙(しじま)という語らないことの権利やべしみというお面の可能性、そしてもどくという抵抗の形を取り出す。

 最後の最後まで真摯に考え抜かれた本であり、そのため我々読者も強く思考を促される。必読の書である。ぜひ読んでほしい。

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