万延一〇三年の「叫び声」 大江健三郎を悼む

万延一〇三年の「叫び声」 大江健三郎を悼む

2023年3月3日、大江健三郎が88歳でなくなった。10日ほど経って知らせを聞いた私は茫然とし、「ha-ha」と力なく呟いた。私の大好きな『ピンチランナー調書』の語り手を真似たのだか、「88」の語呂合わせをしたのだか、もはやわからない。人は皆死ぬ、作家はいっそう死ぬが、大江だけは死なない気がしていた。

そう言えば昔、大江作品に出てくる数を追いかけたくだらない評論を読んだが、享年となってしまったha-ha=88を縦に切ると3月3日であり、昭和33年は大江が「飼育」で芥川賞を受賞した年でもある。などとくだらない遊びにふけっている場合ではない。3と3を合わせた「∞」の相に、大江を置かなければならない。親族でも友人でもない私にできるのは、ただ読み返すことだけだ。そして、周りの心ある人々に、読むよう仕向けることだけ。『ピンチランナー調書』がランナーのleadを促す大勢の声で終わるように、読め(read)!と私たちは作品に促されている。「リー、リー、リー。リー、リー、リー。」

私には昔から一つ仮説があって、それは「OEはラテンアメリカ文学作家だ」というものである。(実はもう一つあってそれは、OE作品は西暦でなく性器の呼称によって「セクス期OE」と「ペニス期OE」と「エレクトゥス期OE」に整然と分類可能なのではないかというものだが、未詳。いずれOE世界学会のパネルで発表し、数日に及ぶ熱い討議のテーマとなるだろう。)

なぜ彼は執拗に四国の山あいの谷を舞台にし続けるのか?なぜ彼の前期作品では、『日常生活の冒険』でも『個人的な体験』でも『万延元年のフットボール』でも、主人公がやたらアフリカに行くのか? 答えはそこにある。誤ってよく「アメリカ南部作家」に分類されるフォークナーが実は書いていたのがラテンアメリカ文学に他ならないように、OEも(そしてたぶん阿部和重も)本当の事を言えば、カルペンティエールやリョサやマルケスやドノソと同じラテンアメリカ文学作家なのだよ、ha、ha!

その説を思い付いたのははるか昔、以下の文章を誰も読まない個人ブログに書いた時だった。論じている『叫び声』(1963)は、大好きな作家だった伊坂幸太郎がエッセーで絶賛していたため読み、自分にとって初めてのキャプテンOE体験となった(伊坂の『SOSの猿』冒頭は、明らかに『叫び声』へのオマージュだ)。講談社文芸文庫から現在も新装版が出ている、今からちょうど60年前の初期作品である。未読の方には私も伊坂氏と同じく、現代文学と見まがうほどスタイリッシュでかつ読みやすい『叫び声』を、何のためらいもなく最初の一冊に薦めようと思う。この文章を表現を改めて再掲し、現代最高の作家OEに追悼の意を表したい。

なお、OE KENZABROUには母音AEIOUのうち「I」だけが欠けている。あなたが「私」=「I」として「朋輩」=「BRO」として読むことでやっと、OEの作品は完成する、そう「松」が書いてたぜ、きっと得意の出任せだろうがね、ha、ha!

1. 小田実のアラブ、大江健三郎のアフリカ

 1961年に出版された有名な紀行文『何でも見てやろう』には、途上国の希望とその裏側の絶望を見る小田実(おだまこと)の透徹した視線がそこかしこにあふれている。たとえば、ナセルの演説に駆けつけた聴衆たちの熱狂を記す次のような箇所。

「ナセル!」隣りの男が私の肩を叩き、またそう言った。私も同じコトバ―同じ魔法の一語で応じた。それで、私と彼との気持ちは通じ合ったとみてよろしい。いや、野外スタディアムを埋めつくした聴衆のすべてが、ただその一語のために、ここへ集まり、かくも熱狂的に拍手をし、歓呼の声をあげているのだろう。私はうらやましいと思った。「ナセル!」を批判することは、アラブ連合をけなし去ることは、むしろ容易であろう。しかし―たとえ「ナセル!」の語が民衆をたぶらかす魔法であろうと、無鉄砲な言い方をあえてすれば、それはとにかく「未来」というものに結びついている。それも大きく結びついている。

講談社文庫版『何でも見てやろう』p.339

 ここで唐突に現れる「未来」の語は、読者を何がしかの感傷に引きずり込む力を持っている。『何でも見てやろう』自体、「もっとも高度に発達した資本主義国、われわれの存亡がじかにそこに結びついている世界の二大強国の一つ」(p.9)であるアメリカに、「ひとつ、アメリカへ行ってやろう、と私は思った。」という有名な冒頭が示す、装われた身軽さで乗り込む男の体験記だ。その感慨自体、冷戦に規定された想像力の所産である。しかし冷戦期でもなお、いやだからこそいっそう、アラブ諸国やアジア・アフリカなど「第三世界」に、「未来」が想像的に託された時代もあったのだ。1960年、「アフリカの年」。

 同種の想像力を、その希望と終焉を、私たちは大江健三郎の初期作品に読み取ることができる。(小田実にならって)無鉄砲な言い方をあえてすれば、大江健三郎の初期作品は日本文学の領土には属していない。それらはカルペンティエール『失われた足跡』(1953)がそうであり、マルケス『百年の孤独』(1967)もまたそうであるように、「第三世界の文学」として書かれているのだ。このような視点から、『叫び声』(1963)を読んでいくことにしたい。

2. 『叫び声』の中の冷戦

『叫び声』は、「恐怖の時代」における「叫び声」が、聞く者みなにそれが自分自身の声でなかったかと耳を疑わせる、という哲学者の箴言で幕を開ける。しかし語り手「僕」によれば、目に見える恐怖のない現代においても、一部の者にとって事情は同じなのだ。

戦争も、洪水も、ペストも大地震も大火も、人間をみまっていない時、そのような安堵の時にも、確たる理由なく恐怖を感じながら生きる人間が、この地上のところどころにいる。かれらは沈黙して孤立しているが、やはり恐怖の時代においてとおなじく、ひとつの恐怖の叫び声をきくとその叫びを自分の声だったかと疑う。そしてそのような叫び声は恐怖に敏感なものの耳にはほとんどつねに聞こえつづけているのである。かなり以前のことだが、僕もまたその叫び声を聞く者のひとりだった。

大江健三郎『叫び声』講談社文芸文庫p.7、強調筆者

 この冒頭部分からいくつかのことが読み取れる。第一に、語り手から見た世界は、表面上「恐怖の時代」ではないが、敏感な者には水面下の恐怖がたえず感じられるような、二層構造をなしているということ。これは「ゆたかな時代」のアメリカにおける物質的繁栄と核の恐怖、高度成長期の日本における経済成長と米軍の軍事力、など、冷戦期の世界と日本を特徴づける二層構造と対応している。

第二に、少数の「恐怖に敏感なもの」には叫び声が聞こえ、「僕」もある時期まではその少数者の集団に属していたこと。これは一種のエリーティズムだ。「僕」は、語り手の立場を生かして自分たちを特権化している。

 以後、『叫び声』の前半は「僕」による若者四人の共同生活、「僕」が呼ぶ《黄金の青春の時》の回想という形をとって進められていく。叙述のそこかしこに、「『僕』を含めた敏感な少数」対「愚鈍なその他」という線引きが行われているのを読み取っておこう。まず「僕をふくめて三人の若い同居人」(p.8)と「若いアメリカ人」(同)の「共同生活」という表現。後に「その祖父がブルガリアから移住したスラヴ系のアメリカ人」「すべてソヴィエトに送りこまれる筈のアメリカ情報局要員にふさわしい風貌、骨格」(p.21)と東西冷戦の二極を印象づけて描写され直すダリウス・セルベゾフは、当初「若いアメリカ人」としか形容されず、ディテールが語り落とされている。

 さらに、後にアメリカ黒人と日系移民の混血とわかる「虎」、朝鮮人の父親と朝鮮名を持つ呉鷹男、日本では人種的マイノリティーでに属する二人からも、当初のうち固有性が剝奪されている。「とくにきわだった個性をもった人間だというのではなかった」(p.14)一般的な「日本人」である「僕」をふくめて、「虎」と鷹男を「三人」と名ざし、セルベゾフと合わせ「僕のみならず、二人の日本人と若いアメリカ人」(p.9)と規定していることには、語り手「僕」の演出がある。

 具体例として、序盤に起きるオートバイに乗った若者の死をめぐる、「僕ら」と「社会」の対立構造を見てみよう。片や、血を流す若者に感情移入して「戦争からかえっていく四人組」(p.11)のように感じ、若者が息を引き取ると「インディアンのように」跳び出していく「僕ら三人」。片や、人が死にゆくさなかでも血で車のシートが汚れるのを気にして「不法侵入で訴えてやる」(p.11)と叫ぶことしかしないベンツの男。この対立が、「僕ら」仲間うちの一体感を強調している。

 そして四人が遠洋航海する予定のヨットは「レ・ザミ(友人たち)号」と命名され、彼らはアフリカに出航することに決める(「象牙海岸、黄金海岸、ケープタウン!」p.65)。なぜ彼らはアフリカに行くのか?

 それは、アフリカが「虎」の想像上の故郷であると同時に、呉鷹男がたどりつきたかった「この世界とはちがう世界」(p.28)であり、「僕」が冷戦や梅毒を恐怖しなくてよい場所として造形されているからだ。かつてのアフリカは、次の挿話でのエジプトのように、そして小説前半における第三世界がそうであるように、「国外脱出の気分」を持つ者の想像力を受け止めてくれる「ノアの方舟」、「未来」が語られる場所だったのだ。

その冬、エジプトでは戦争がおこっていた。[…]ナセルは世界じゅうに義勇軍を要請した。僕の大学にも、エジプト行きの兵士が募集されているという噂がつたわり大騒ぎになった。僕がその噂を、共同の家に持ち帰ると、鷹男も虎もノアの方舟の噂をきいた獣たちみたいに昂奮した。翌日、[…]危険な嘘にすぎないことがわかった。そこで僕らは、僕の大学に流行の熱病のように、国外脱出の気分がみなぎっていることをあらためて知った。

(p.126)

 しかし彼らのアフリカ行きは、セルベゾフが少年誘拐事件を起こして日本を去り、資金回収のため始めた中古ラジオ回収業も詐欺に遭い、夢の象徴である「レ・ザミ号」が「雨ざらしで汚れてしまってばかな物干台みたいなものに堕落」(p.122)することで、どんどん現実に浸食され、実現可能性を喪失していく。彼らの現実への最後の抵抗が、「虎」の企てた「銀行強盗」だった。アメリカ兵の外套とオモチャの自動小銃を身につけた「虎」は、アメリカの憲兵と日本の警官に発砲され横須賀で命を落とす。《黄金の青春の時》は終わったのだ、ただ「虎は、魔法の力で横須賀をアフリカの土地に変えたみたいだったんだよ」(p.133)という、鷹男のロマンティックな美化を残して。

 鷹男の想像がどうあろうと、横須賀はアフリカではなく、冷戦戦略上必要な米軍基地も、消えはしない。同時に、アフリカに想像的に「未来」を託すことのできた時代も、冷戦という現実に敗れ、終わっていった。

3. 『叫び声』の中の性

 ここまで、《黄金の青春の時》の崩壊を冷戦という大状況と関連させて見てきた。次に、同じ主題を性という「個人的な体験」の角度から見てみよう。四人の共同生活は、ホモソーシャルな色彩に満ちている。「僕らの天井の高い洋室は鷹男と虎と僕自身の汗でいっぱいになった。それはやがて友人たち(レ・ザミ)号の匂いとなるだろう…」(p.32)

「友人たち」の、男同士の関係が紡ぐホモソーシャルな場は、女性嫌悪によって成り立つ空間でもある。「僕」は娼婦との最初の性交がオブセッションとなり、自分の健康な体に梅毒の兆候を探し回っている。恋人とも性についての議論ばかりして性交渉はできず、「もともと自分にこの恋人をふくめてすべての女との性交をさけたいという欲求が潜在的にあり[…]そこで恋人と議論だけに固執しているのではないか」(p.49)と自分で分析する通りだ。鷹男は毎日浴室で自慰にふける生活から、「虎」の恋人を譲り受けて同棲に切り替えようとするが、結局「部屋じゅうに屁と尿と屎とをしてまわったのさ」(p.56)と幼児期への退行を見せつける形で別れ、結局ホモソーシャルな共同生活と浴室に戻ってしまう。「虎」ですら、鷹男の恋人(女)を引っかいた猫のロビンソンを「ロビンソン、おまえはひどく引っかいたなあ」と「裸の胸にだきしめて」(p.55)顕彰するありさまだ。有名(?)な「女子大生の平均放屁回数は一日六個なんだよ」(p.61)という鷹男の台詞も、女性嫌悪的なギャグであるだけでなく、「僕」に恋人と別れることを薦める文脈で発されていることにも注意されたい。

 E・K・セジウィックの高名な分析が示す通り(『男同士の絆』)、ホモソーシャルな関係性は、実は同性愛傾向(ホモセクシュアリティ)を抑圧する。そしてホモセクシュアリティが表面に露出して止めようがなくなった時、ホモソーシャルな共同体は崩壊する。この図式に忠実に、「僕ら」が共同生活を営む《黄金の青春の時》は、セルベゾフのホモセクシュアリティによって崩壊してしまう。セルベゾフが少年を誘拐した事件について、「僕」・「虎」・鷹男はほとんどふれようとしない。ふれることができないのだ。そして、セルベゾフの告白した朝鮮戦争で「朝鮮の若者」を銃殺してしまった逸話を事の遠因(贋のトラウマ)として、(内心では信じないながらも)受け入れようとする。しかし週刊誌記者が後に暴露したように、「僕」が満喫していた《黄金の青春の時》とは「男色家のアメリカ人が東京につくったホモ・セクシュアルのハレム!」(p.95)の別名でしかなかった、という可能性が強く示唆されている。

 そして「僕」は真相を知った恋人になかば押し切られて性交を行うが、その間の台詞がすべて不自然なカタカナ表記で記述されていることからもわかるように(p.103)、「僕」が他者に出会いコミュニケーションをはかる契機とはなっていない。同様のことは、自らの怪物性を証明するために、夢とも現実ともつかない認識で女子高生を殺害してしまう呉鷹男にも言え、犯罪を行う時の「こういうことは現実にはおこりえない。」(p.157)という彼の思索はゴシック体で表記され、不自然さを強調されている。

死んだため理想化された「虎」はひとまず除くとしても、「僕」も鷹男も、彼らの「浴室」(それは自慰を行う場所である)から出て、他者に出会うことができない人間なのだ。彼らの見た「アフリカ」が現実のアフリカではないように、彼らと暮らしていたホモソーシャルな「若いアメリカ人」も、ホモセクシュアルとしてのセルベゾフ個人ではなかった。《黄金の青春の時》は政治的にも性的にも、観念が現実に浸食され、現実の固有性が露出することで、本当に喪失される。

 終章である五章は、いわば「終わりの終わり」を「僕」が体験する箇所になっている。あの事件から五年の歳月が過ぎた。「僕」も収監されている鷹男ももはや若くはなく、「友人たち(レ・ザミ)号のうしなわれた幻影が、僕らの共通の血」(p.175)だと認識して過去に生きている。

そこにセルベゾフから、宛先に「虎」と呉鷹男と「僕」の名を連名で並べた、遅まきの手紙が届く。「友人たち(レ・ザミ号)の黄金の輝きにてらしだされたわれわれの青春の亡霊」(p.177)。手紙には、セルベゾフが日本を発った後「インドのニューデリイで英語教師をしたりベイルートで案内人の仕事をひきうけたりして」(p.178)暮らしていたが、結局今はパリで英語教師をしていることが書かれていた。セルベゾフの近況報告は、インドやベイルートなど第三世界に希望を仮託した想像力が、現実の資本主義に敗北し、セルベゾフ自体が西側の先進国に住み西側の主要言語たる英語を広める役割を引き受け、資本主義の尖兵(パリのアメリカ人!)になってしまったことを象徴している。

「僕」はギリシアからイタリアへ、少し前に小田実が旅したのとは逆の経路で旅することにする。「僕」はギリシア人娼婦アルクメーヌと性交渉し、初めて他者と交流を持つことができた(この場面は、単語にイタリア語読みのルビ打ちではあるが、きわめて印象的に描かれている)。が、それも「in nessun luogo(どこにもない国)」という彼女が発した言葉の強さにかき消えてしまい、「僕」はまた思索に戻っていってしまう。

《黄金の青春の時》の喪失それ自体を反芻しながら、「僕」はパリでセルベゾフに会う。セルベゾフは肥り、「すでにまったく中年のアメリカ人の印象」(p.206)であり、「虎ちゃんも鷹男ちゃんも、ほんとうに可哀相にねえ」(同)のように、かつてとは言葉遣いまでホモセクシュアルふうに変わっている(とはいえ、これ以後の台詞はすべてフランス語で発されているから、最も変容したのは「僕」のセルベゾフ像なのかもしれない)。「僕」は、喪失と形容することもできない荒涼感の中、アルジェリアの反フランス闘争が単なるテロ行為と化し、セルベゾフがホモセクシュアリティをさらけ出して自分に求愛してくるのを聞いている…。

4. 腐敗と希望、そして未来

1961年、小田実は次のように書いた

「西洋」のなすがままに、しぼりつくされ、半殺しのめにあっていた「われわれ」被支配国、植民地国、後進国、そして貧困。そこで、おそらく、アジアは一つとなる。いや、私は「アジア」というコトバを思い浮かべるとき、必ずそのコトバに中近東はおろかアフリカさえもふくめてそうしているのだが、そこの一点において、アジアとアフリカはまさに一つになる。[…]

そして、腐敗と希望。

それが、その相反した二つのものが、私のエジプト滞在の一つの結論であった。

(p.323)

 われわれは、この後の歴史を知っている。ベトナムが冷戦構造に組み込まれて長い戦争が起きたことも、小田自身がその戦争に関わって反対活動を行ったことも知っている。最後には資本主義が共産主義に「勝利」したことだって知っている。そしてグローバリズムがやってきて、どこかの国の思想家が「アジアは一つ」とぶち上げたのとはまったく別の意味で、アメリカもアジアもアフリカも一つにしてしまった。しかし。

 この時代には、冷戦の現実から外に向かうための「第三世界」という思考枠組みがあった。そして、その「腐敗」だけでなく「希望」を、「未来」を語る言説があった。語る=書く作家がいた。その事実を、われわれは喜ぶべきだと思う。もちろん、「希望」は死に、「未来」は現実に塗り替えられる。しかしその時代の思考枠組みが、想像力が、何より「希望」の強さが生んだ「第三世界の文学」には、今でも魅力と可能性に満ちている。

 最後のページで「僕」が荒涼の中で上げる叫び声は、万延一六三年を生きる現代の読者の声でもあり続けるのだ。OEが死後の未来を生き続ける限り、リー、リー、リーと!、ha、ha!

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