赤瀬川原平『超芸術トマソン』考〜概念のビルドゥグスロマンとして読む〜

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赤瀬川原平著『超芸術トマソン』の「ふつうの読者」は、ひょっとすると「へぇー、こんな物件あるんだ。面白いなー」とかいう目で見たり読んだりするのかもしれない。それもそれでひとつの楽しみ方だろう。しかるに私は概念を操るひとりの「ガイネニスタ」であるゆえ、この本を「概念のビルドゥングスロマン」として読んだ。「超芸術トマソン」というひとつの概念が主人公として誕生し、成長し、衰退する(?)までを描く、20世紀日本の『ヴィルヘルム・マイスター』として本書は読まれ、また使われねばならない。

まず赤瀬川は、道にある意味のよくわからない突起物や、どこにも通じていない階段などに目を留める。ここまでだったら、他の人もしたことがあったかもしれない。しかし赤瀬川が彼らを突き放すのは、それらが芸術を超えた何かであるという直感から「超芸術」と名づけてみることである。「ゆるキャラ」「マイブーム」などの生みの親、みうらじゅんも、皆がなんとなく思っていたことに名づけを与えることからムーブメントは生まれると説いているが、その先駆的業績がこの「超芸術」であるだろう。のみならず、その語になにか座りの悪さを感じたのか、赤瀬川はそこに、当時巨人にいた「無用の長物」バッター、ゲーリー・トマソンの面影を重ね合わせ「超芸術トマソン」と命名する。この漢字+カタカナは、のちの椎名林檎の名作『無罪モラトリアム』『勝訴ストリップ』などの先駆である。概念が産声をあげる瞬間を、赤瀬川自身の言葉で見ておこう。

「「四谷の純粋階段」
「江古田の無用窓口」
「お茶の水の無用門」
一つではわからず、二つでもなかなかわからなかったものが、三つ揃うとそこに共通する構造がまったく新しい顔であらわれてきて、そこに「超芸術」という、これまで人類の誰一人として意識することのなかったものが、史上はじめて意識のB3からB1そして意識上へと、ゆっくり浮上してきたのでありました。
はっきり申し上げます。これは、
「超芸術!」
というものであります」

やや大言壮語の感はあるが、これが「超芸術」誕生の鬨の声である(「トマソン」がつくのは更に先の話であった)。「三つ揃うと…」のくだりなんかは、文章を書きあぐねている人とって大いに参考になるのではないか。事柄AとBがなんとなく似ている、ならばそれと同じ型のCを見つけて、串刺しにしてしまえ。私自身もそうやって多くの記事を書いてきた。

そして「超芸術トマソン」という概念が誕生したのち、赤瀬川がやったことは「下位区分」を設けることだ。すなわち「純粋階段」「無用門」にはじまり、「アタゴタイプ」「原爆タイプ」「阿部定タイプ」…などである。この手つきもガイネニスタには大いに参考になる。赤瀬川がトントン拍子に概念の下位区分を、しかも実に巧みなネーミングセンスで作っていくその手つきには舌を巻く。

そしていよいよ、「超芸術トマソン」は親のもとを巣立つ。すなわち「読者からの投稿」が始まる。そうすると、あれもありました、これもありました、と一人歩きが始まる。こうなったらこっちのもん、というかもうあっちのもんだ。

ところで、『超芸術トマソン』が書物として優れていて、単なる物件報告ではなく2025年にも読むに足る理由として、その言語感覚と文章力がある。赤瀬川が尾辻克彦名義で芥川賞もとっていることは知られていよう。『国旗が垂れる』などの小説もたいへん面白い。『新解さんの謎』や『純文学の素』にも通じるが、彼の言語感覚は非常に鋭敏で、『トマソン』は1987年刊行の本なのに、「虚無ってる」「エグい」などといった令和っぽい語がすでに使用されていることにも驚かされる。文章の特徴としては、あるトマソン物件(例えば「2階ドア」)ができた言われを、必ずあれこれと想像してみせるところにその力量が発揮されている。例えば次のようなくだり。

「このドアを出入りするのは超足長オジサンであろうと推論するほかはありませんでした。さもなければ羽根の生えた鳥人であります。東京タワーのてっぺんから飛んできて空中で羽ばたきしながり外からドアをコンコンとノックする」

笑い飯の漫才「鳥人」を知る者なら、偶然が生み出した先駆性にヒヤッとするくだりだが、かくのごとくして、赤瀬川は読者からの(時にはあまり面白くない)投稿にも熱心に付き合ってあげるのだ。それが親の役目であると言わんばかりに。この観察+空想の両輪をなんなく(そう、いかにも軽妙なタッチで!)駆動させることができるところに赤瀬川のすごみがある。

次なる展開として、あの四方田犬彦が登場したり(しかも海外からの投稿ということでトマソン概念を世界進出させた!)、色々なことはあるが、注目すべきは、徐々にこの本自体が翳りというか、端的に言うと飽きを見せ始めるように思えるところだ。例えばそれは赤瀬川の次のような言葉に表れている。

「やはりこれがないとダメだ。胸騒ぎである。最近あちこちからトマソンの報告を受けて思うことは、その胸騒ぎの欠落しているものが多いということ、何枚か写真を見せられて、説明を聞くと、なるほど、あれこれトマソンの条件を満たしてはいる。で、そうだねぇと仕方なく相槌を打ったりしているのだけど、いくら見ても胸騒ぎなんてぜんぜんしない。
これは困る。基本が間違っていると思う。〔…〕本当は超芸術なんて二のつぎなのだ。まずはその物体を前にした胸騒ぎがあり、それを考察していくと、何らかの道具でもないし不動産でもないし芸術でもないし、結局それは超芸術としか言いようのないもの、となるのが事の本筋である。それをどう間違えたか〔…〕」

と、以下だいたい予想できる文章が続くので割愛したが、もっと端的に、こう言っているところもある。

「しかし考えというのは直感のたんなる後追いであります」

ガイネニスタたるもの、その取り扱いや鮮度には常に気を配り、決して理が勝ちすぎることのないようにせねばならぬと、私自身も気持ちを引き締められた気分だ。

さて、このあたりで「概念」としての書物、『トマソン』考を終了する。赤瀬川が切に願ったとおり、この本はただ読むだけでなく、読者に実践を促す本だ。だが私としてはその「実践」の意味が、ただ「僕も私も道の突起見つけました」だけではなく、以上述べてきた概念形成、操作、運用の意味での実践であってほしいとも思う。

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