「エンターテインメントとは、あらかじめわかっていることの再確認である」
これは森村泰昌『生き延びるために芸術は必要か』の中に出てくる一節だが、興味深いのはこれが他人の言葉の引用だということである。しかも注によると、その他人とは「知人」の「河本信治氏のことをいう」のだが、彼が「どこかの講演会で〔…〕話していたと記憶しているが、いつのことかは忘れてしまった」と森村氏は言う。
元来インテリを気取ったりする身振りのない森村氏だから、「思想家の誰々はこう言っている…」的な書き方は間違ってもしないし、そこに魅力があるのだが、つまるところ出自があやふやになってしまうほど、冒頭のエンタメ定義は巷間に流布したものだとも言えよう。
私はこれをもっと突き詰めて、次のように言い換えたい。
「芸術とは、差異(の知覚)である。
エンタメとは、反復(の知覚)である」
何か見たこともないもの(差異)が切り出されてくるところにいわゆる「芸術」があるとしたら、すべてがn度目であるようなもの、それがエンタメである。これはエンタメを貶めようとする意図からではなく、定義から自然と導き出されてきたものであることを注記しておく。
そしてロバート・ゼメキスの傑作『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(今回はパート1のみ扱う)は、まさにこの反復と差異のせめぎ合いのドラマとして見ることができる。とりわけ反復の造形法が緻密で、それゆえにエンタメ中のエンタメだとこんにちまで言われるゆえんである。以下、作品に即してそれを見ていこう。
この作品が「反復」をテーマにしているというのは、正直言って見た誰もが感じることだろう。1985年と1955年が、見事なまでに重ねられている。ビフはジョージを「ハロー、誰かいるか」と言って頭を小突きながらいびり、最後は「下を見ろ」と言ってまた小突く。こういった所作が反復されていることは、批評などと銘打たなくても誰もが気づくことである。
もう少し「反復」の理解の解像度を上げるために、それを「リハーサル」と言い換えてみよう。作中である出来事が起きるとき、それは何度目か。例えば物語のクライマックスとなる「深海のダンスパーティ」は、冒頭、マーティの母によって「あそこで初めてパパとキスをして…」という風に予告されていた。つまりリハーサルが行われていたのである。しかも興味深いのは、この話を聞いたマーティの姉が「その話百万回目」と言うことであり、作中1度目に見えたその話すらすでにn度目の反復なのである。
ジョージがロレインをダンスに誘う場面はどうだったか。これも店外で、マーティによって「こうやって口説き文句を言うんだ」とリハーサルが行われていた。ジョージが車中で襲われるロレインを助ける場面も、彼はあらかじめマーティから教わったリハーサルどおりにことを行う(尤もここで、マーティのポジションがビフに置き換わっているという差異が生じるのだが、結局パンチでビフをのしたジョージは反復に成功する)。作中の本当のクライマックスである時計台での雷シーンも、あらかじめドクが丁寧な模型を用意して、(観客に対してと言うべきか)念入りなリハーサルを行ったうえでの本番だ。ここでもリハーサルどおりに事が行かないかと(つまり差異に軍配があがるかと)思いきや、果たせるかなマーティは未来への帰還に成功する。その先の1985年で待っていたものは、ジョージにへいこらするビフという前とまったく違った姿なのだが、これは結局のところ差異に軍配があがったと言えるのだろうか。むしろこの差異は、更なる物語(パート2へと続く)を呼び込む布石であるように思われる。そして事実、パート2では反復の襞の折り込まれ方が更に混迷の様相を呈する。今回はパート1についてしか論じなかったが、エンタメ映画の最高峰として、いかにあらゆる細部が「リハーサル済」のものとして登場してくるか、再見される方はぜひそこに注目していただきたい。