西洋哲学と東洋哲学の話
本屋にぷらっと寄って、株とか経済の棚のところには・・・行かない。その隣に置いてあった『自分とか、ないから 教養としての東洋哲学』(しんめいP)をぱらみした。しんめいPさんは色々あって無職になったのだが、なんと東洋哲学の本をたくさん読んで救われたらしい。
最初に西洋の哲学者の顔が登場するのだが、確かに、誰もが虚無のような顔をしている。額に皺が・・・・。ニーチェ・・・、君ってやつは超人に・・・・。それに引き換え、ブッタのなんちゃらスマイルの穏やかさよ。
いや、よく分かるんだ。西洋哲学を体に染み込ませてしまった私からするとあれはよくわかる。例えば無情みたいな考え方が紹介されるけれども、実はそういう考え方は古代ギリシアの哲学にだってある。ヘラクレイトスに「万物は流転する」という有名なやつがあるしね。世界は移り変わるものだよね、的な発想は古代ギリシアにもあった。ただ、それを前提に置いたときの発想が異なる。常なるものは無い、、、私たちにはそう見えている、、、でそれって偽では?と。揺らいだり安定しないものは嘘!! 僕らの見えている世界はそうだけど、でもその裏側で何か真なるものが支えているはず!! それを探すぜ!! っていうのが西洋哲学の根本である。つまり穴を掘って掘って金の鉱脈を探し当てる、この思考方法が西洋哲学的な探究というわけだ。
東洋哲学だとそうじゃないらしい。まず何があるか。無常である。なのにだ。あれこれ考えてしまう。あろうことか自我があるなんて考えてしまう。それこそ妄想なのだ!! というのが東洋哲学(というか仏陀的思想)らしい。だから東洋哲学は穴なんて掘らない。金の鉱脈なんてない。そもそもないのに探そうとするから、穏やかじゃなくなる、苦しくなる、挙げ句の果てには「超人」とか担ぎ上げた挙句に、狂人になってしまう(ニーチェよ・・・・)。
そりゃあ苦しくなるわけですよ、ネガティブ思考が西洋哲学なんだから。
現状を肯定してくれないんですよねえ、ヨーロッパの哲学って。むしろ探そうとするんですよねえ、その背後にあるものを。あれはね、よろしくない。答え探しになっちゃうから。で現象学の結論が、答えなんてありません、というか、まあすごく曖昧なものなのですよ、という感じになってしまって、これまたまあ大変という・・・。まあ色々世界のことを理解するのにはものすごく役に立つんですけどね。
本に買いてあったんだが。荘子は無職だったらしい。無職で後世に名を残すとは・・・。いや、今思えば、ソクラテスも無職だったんじゃあないか?? 無職でもみんな生きている。そう、樽で一生を過ごした人間もいたわけだ。そう思うと、全然大したことない。東洋哲学を借りれば、この無職だと〜〜〜というのが、妄想なわけですね。
いや、そんなことは、知っているけれども。むしろ、それなのにその妄想が頭から離れない理由を西洋哲学に教えてもらったんだけれども。
こうやって堂々巡りみたいに全ては繋がって、あっちいってはこっちいって、非常にちっぽけな存在なのに、かくも自分が偉人にでもなったかのように苦しむわけですねえ、、、いやあ大変。
さて株の話だが、私はこれをヨコヨコの法則と呼んでいるのだが、その法則に従って、
アクセルマーク(3624)を買いました!
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