一 問題の所在
二 「戦後80年所感」のテクスト分析
三 「戦後70年談話(安倍談話)」との比較
四 むすび
1 問題の所在
なにかSF小説のような題をつけまして恐縮ですが、最初にどういう意味かを一般的に申しますかわりに、いろいろなトピックを挙げながら、だんだん本日のテーマをはっきりさせて行くという仕方でお話してみたいと思います。
「戦後80年所感」をめぐる状況 2025年10月10日金曜日の夕刻、と言っても午後5時30分開始ということですからこれは平日働く勤め人ならリアルタイムで見たり聴いたりするのがほぼ不可能な時間帯でなかろうかと思うのでどれだけの方が生中継でご覧になったかはわからないのですが、石破茂首相が首相官邸で記者会見を行い、日本にとっての戦後80年という節目にあたっての「個人のメッセージ」を発表しました。ここに既に微妙な問題がいくつか含まれております。
まず、戦後何十年、ということで一国の首相が記者会見を行うというのは、石破氏が初めてではないし、最近の歴史を踏まえれば特におかしな出来事でもない。1995年の村山富市首相による「戦後50年談話」を皮切りに―もっともこの時村山首相は後に続く慣例となるとは予想だにしていなかったと思うのですが―、2005年の小泉純一郎首相による「戦後60年談話」、2015年の安倍晋三首相による「戦後70年談話」と10年おきに続きました。その意味では2025年の今年にこういった会見が行われるのは誰もが予想できることである。しかし、時期は前の3つと大きく異なります。村山談話と小泉談話は8月15日のいわゆる終戦記念日に発表されました。安倍談話は、これはナショナリスティックなイメージで見られていた安倍首相だけに、いたずらに周辺諸国を刺激しないようにという意図を感じるのですが、1日ずらして8月14日発表。ところが今回は10月10日です。一体なぜか。
石破内閣の脆弱性 一言で言えば、8月15日前後の石破氏には「戦後80年談話」を発表できる政治的基盤がなかったのだと言えるでしょう。お聴きの皆様の記憶にも新しいように、石破氏率いる自民党は夏の7月20日に行われた参議院選挙で議席を減らす結果となり、衆議院に続き参議院でも少数与党に転落します。248議席中の101議席、公明党の21議席を加えたとしても過半数には届きませんから、これは厳しい状態です。もちろん、党内では敗北の責任を問う声が強まり、「石破降ろし」の動きも強まってきました。石破氏の意思としては、辞任を否定し、一時期は本当にそのまま続けていくのではないかと思われていましたが、9月7日になると一転してメディアに辞意表明をします。この中間に挟まれた8月は、石破政権にとって何か賭けに出ることのできる時期ではなく、戦没者追悼の儀式に出席して誠実なスピーチをすることで支持率浮揚を図ることに徹していた期間のように思えます。そのため、村山内閣以降の慣例を破って10月に、しかももう辞めると決まった首相が見解を披露するという形で発表された。
最初に「個人のメッセージ」だと申しましたが、今回の「戦後80年所感」は事前に閣議決定を経て発出された「談話」ではありません。村山首相が「戦後50年談話」を発表する前、社会党首班の内閣だからというので、「村山が近隣諸国に過度な謝罪をして外交的にマイナスの影響を出すのではないか」と懸念する声が、特に連立を組む自民党内から上がった。そこで村山氏は、談話の内容を閣議で問い、認められない閣僚でもいようものなら辞任を促しそうな迫力をもって承認させた。こうしたことがありました。
今回の状況も、一部それに似通ったところがあります。石破氏はミリタニーマニアとして知られる軍事好きである一方、対外協調を重んじ安倍政権とは外交をめぐる考え方が異なっていた。自民党で「保守」「右派」とされる人々の中では、「石破は余計なことを言い出しかねない」と思われていた。例えば「日本の尊厳と国益を護る会」なる自民党保守系グループ代表の青山繫晴参議院議員は、何度か発表を見合わせるよう申し入れをしている。この度自民党総裁となった高市早苗氏が、安倍談話を高く評価する一方で戦後80年には何も発表する必要なしと述べているのも、党の雰囲気を表しています。
「戦後80年所感」の意外な完成度 「プディングの味は食べてみなければわからない」という有名な言葉があります。私を含め、多くの国民は政治的にレイム・ダックとなっている石破首相の所感に期待などしていなかったでしょう。それどころか、国を憂う方々は、石破の野郎、エゴのために国益に反することを言い出しはしないだろうな、と不安に思っていたかもしれません。ところが、発表されたものを聴いてみると、あるいは読んでみると、なかなかどうして完成されたものだったので驚かされました。学術的にという点でなく、政治的観点から見て完成度の高いスピーチでした。
われわれが作るいろいろなイメージというものは、簡単に申しますと、人間が自分の環境に適応するために作る潤滑油の一種だろうと思うのです。石破茂はダメな政治家だ、というイメージがあったとして、それを頼りにニュースを見れば、複雑な政治状況がわかりやすくなるかもしれない。ここで石破茂のなかに、いわばその「属性」として「ダメさ」が内在していると考えるか、それとも演説にふれるという現実の行為を通じて、ダメか素晴らしいかがそのつど検証されると考えるかは、およそ社会組織や人間の価値を判定する際の二つの極を形成する考え方だと思います。今回の「所感」に関しては、国民が抱く石破氏のイメージ更新に寄与するものがあるので、何らかの手段で演説にふれ、政治的に美味なプディングかどうか検証されることをお薦めします。
政治においては理屈よりも「マイト・イズ・ライト(力こそ正義)」の実力主義が優越します。選挙に負けた党トップのことなど、表面上は頭を下げこそすれ、所属議員皆心の中では一顧だに与えていないわけですね。参議院選挙敗北後の石破氏は、「戦後80年談話」について閣議で承認を得るという正攻法を取るに足る政治的地盤が不足していた。しかし政治的信条から、あるいは「虎は死して皮を残す」ではないが、どうしても談話を残したい。そこで、個人の見解として出すということで何とか落着させ、名称も「談話」でなく「戦後80年所感」としたわけです。私のような古い人間は、「所感」という言葉を目にすると、どうしても昭和25年に日本共産党が分裂した時の「所感派」を思い浮かべてしまうのですが。それはともかく、一種苦肉の策でひねり出されたことが読み取れるような発表時期と名称だったということです。
「所感」の政治的位置どり ここからしばらく、「所感」の立ち居振る舞いを見てゆくことにしましょう。石破氏は冒頭近くで、「これまで戦後50年、60年、70年の節目に内閣総理大臣談話が発出されており、歴史認識に関する歴代内閣の立場については、私もこれを引き継いでいます。」と宣言しています。石破氏が今までの談話をひっくり返すのではないかという懸念を、解消しているわけですね。それにしても、この文を日本語学的に分析すれば主語が「私も」、述語が「引き継いでいます」とならざるを得ない。事実を並べた文の前半と、主語・述語を連続させる後半とが、どうも無理やりまとめられたような不整合を感じます。「歴代内閣の立場」を「これら」でなく「これ」という単数の代名詞で受けているのにも苦心の跡が見られる気がします。石破氏にとって、政治的に絶対に入れておかないといけない制約条件の多かった一文なのではないでしょうか。
じゃあ保守派議員が言っていたように出さなくて良かったじゃないかとなるかと言うと、その批判もうまくかわしている。安倍談話が「国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった」と述べているのを引用し、その「歯止めたりえなかった」理由について今から論じるのだと。せっかくの機会ですので、10年前に発表された安倍談話の当該箇所を引用します。
世界を巻き込んだ第1次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、1000万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。
当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。
自分が今から述べる「所感」は、この箇所を敷衍し補ったものである、という態度表明です。石破氏の「所感」に懐疑的だった保守派の議員たちというのは、思想的あるいは人間関係的に安倍氏に近かった人が多いですから、建前でも「安倍談話の補論です」と言われればなかなかケチをつけづらいわけです。
量の点でも、石破所感は独自の価値を有しています。戦後50年談話以降の、新聞社等が発表している文字起こしをコンピュータで文字カウントしてみると、結果は以下のようになりました。
村山談話 1285文字
小泉談話 1136文字
安倍談話 3432文字
石破所感 6346文字
もっとも、安倍談話以降は常用外漢字へのカッコつきの読みがな(例えば「無辜(むこ)の命」等)や小見出しも含めての字数なので、正確な数字ではないかもしれませんが、石破所感が量的に突出しているのは間違いない。逆に小泉談話は他に比べてコンパクトで、談話よりもその1週間前のいわゆる「郵政解散」(2005年8月8日)にメディアが気を取られることを見越している感じもあります。
石破所感はコンパクトでは全くありませんが、無駄な繰り返しで水増ししているというのではどうもないので、「これは出す意味があったんじゃないか」となりやすい。石破所感の長さは、ある程度内容が要請するものでもあるのですが、歴代談話と比較した時のセールスポイントともなっているわけです。
丸山眞男への言及 これからこの「所感」の内容を詳しく分析していこうと思うのですが、私が気になった部分にまずふれておきたいと思います。大日本帝国憲法の問題点を述べる箇所で、石破氏は明治期までは元老が制度上の弱点を補えていたのだと論じたうえで、丸山眞男の名に言及します。丸山は、1957年に石破氏が生まれたちょうどその前後の時代に大活躍していた、日本政治思想史学の泰斗です。
それでも、日露戦争の頃までは、元老が、外交、軍事、財政を統合する役割を果たしていました。武士として軍事に従事した経歴を持つ元老たちは、軍事をよく理解した上で、これをコントロールすることができました。丸山真男の言葉を借りれば、「元老・重臣など超憲法的存在の媒介」が、国家意思の一元化において重要な役割を果たしていました。
私はこの丸山眞男の出し方に違和感を覚えました。石破氏は猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』、保坂正康『昭和陸軍の研究』、半藤一利『昭和史』等に基づくと推察される情報や逸話をこのスピーチ内に織り込んでいます。そのこと自体が首相として画期的ですが、スピーチ内で言及しているわけではありません。私たちが石破氏から著者たちの名を聞くのは、「戦後80年所感」終了後のアフタートークと言うべき、質疑応答の場でのことです。東条英機をはじめその時代を生きた人物の名は出しても、研究者の名にはふれなかった。しかし、丸山の名だけは出しています。おそらく、諸外国に翻訳されて報道されることも見越したうえで。
『日本の思想』引用への疑問 それも不思議ですがヨリ不思議なのは、ここでテーマになっている元老を論じるにあたって丸山を引いてくる必然性がまるでないことです。丸山は江戸思想史から出発しながら現実の日本政治にも発言や介入を続けた知識人であり、著作を見渡せば当然多くの事物が出てきます。その中で、元老は丸山がそれほどオリジナルなことを言ったトピックではない。大体、元老が明治憲法に規定されていなかったことなど、日本史選択で受験に臨むちょっと気の利いた高校生なら知っています。専門書も書かれていますし、もし説を補強したいなら、引用できる論者や研究者も多くいます。「丸山の言葉を借りれば、」と枕詞をつけるなら、後に来るのは「無責任の体系」や「無法者・浪人・神輿」や「永久革命としての民主主義」など、丸山がオリジナリティを発揮した言説にするのが普通です。そしておそらく、石破氏も―彼がどこまで演説原稿を書いたのかはわからないですが、目は通しているでしょう―そのことには自覚的です。
急いで付け加えないといけないのは、石破氏が引用した「元老・重臣など超憲法的存在の媒介」という言葉は、間違いなく丸山の著作にある言葉で、引用が間違いというわけではありません。今手元にその本がありますので、朗読してみます。
明治憲法において「殆ど他の諸国の憲法には類例を見ない」大権中心主義(美濃部達吉の言葉)や皇室自律主義をとりながら、というよりも、まさにそれ故に、元老・重臣など超憲法的存在の媒介によらないでは国家意思が一元化されないような体制がつくられたことも、決断主体(責任の帰属)を明確化することを避け、「もちつもたれつ」の曖昧な行為連関(神輿担ぎに象徴される!)を好む行動様式が冥々に作用している。「輔弼」とはつまるところ、統治の唯一の源泉である天皇の意思を推しはかると同時に天皇への助言を通じてその意思に具体的内容を与えることにほかならない。
丸山眞男『日本の思想』岩波新書、1961年[旧版]. 38頁 強調筆者、原文にある傍点は省略。
前後を読むといっそう、丸山独特の魅力ある用語が並ぶ中、ここだけをピックアップした意図がわからなくなります。なぜ丸山が独自に提唱したわけでもない分析を、丸山の名と結びつけて引用したのか?
新・『日本の思想』としての「所感」 ここからは私の仮説ですので飛躍が入りますが、これは丸山の「日本の思想」というテクストに注目せよという、それこそ「メッセージ」なのではないかと、私には思えてならないのです。それが考え過ぎであるなら、このスピーチの骨子として「日本の思想」というテクストがあるため、自然と丸山の名が入り込んだのではないか。「戦後80年所感」自体が、戦後80年を迎えた日本に対する分析と提言、すなわち石破版「日本の思想」なのではないでしょうか。そこに胚胎する諸現象を以下もう少し具体的に述べてみましょう。
(つづく)
