『少年の日の思い出』解説|母が優しくしてくれたのはなぜか|あらすじ感想・伝えたいこと考察|ヘルマン・ヘッセ

『少年の日の思い出』解説|母が優しくしてくれたのはなぜか|あらすじ感想・伝えたいこと考察|ヘルマン・ヘッセ

概要

 『少年の日の思い出』は、1931年に発表されたドイツ作家ヘルマン・ヘッセの短編小説。

 初稿の段階の題名は『クジャクヤママユ』(1911年)であり、それが1931年にドイツの地方新聞に掲載される時に『少年の日の思い出』へと改題された。日本では後者の題名で定着している。

 少年時代にチョウチョ採取を趣味にしていた「ぼく」が、同じ趣味を共有していたエーミールのコレクションを盗んでしまい後悔する物語。

 教科書に採用された小説はほかに、ワイルド「幸福な王子」、魯迅『故郷』、梶井基次郎「檸檬」、中島敦「山月記」、宮沢賢治「注文の多い料理店」、志賀直哉「小僧の神様」などがある。

 また「海外小説のおすすめ有名文学」ではドイツ文学も紹介している。

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登場人物

ぼく(友人):私の友人で本作の主人公。私がチョウチョの収集を見せてきたことをきっかけに、チョウチョにまつわる少年の日の思い出を語り出す。

エーミール:思い出に登場するぼくの同級生。ぼくと同じくチョウチョの収集を趣味としている。

私(聞き手):本作ではぼくの少年時代の話の聞き手。

名言

盗みをしたという気持ちより、自分がつぶしてしまった美しい珍しい珍しいチョウを見ているほうが、ぼくの心を苦しめた(19頁

もうどうしようもなかった。ぼくは悪漢だということにきまってしまい、エーミールはまるで世界のおきてを代表でもするかのように、冷然と、正義をたてに、あなどるように、ぼくの前に立っていた(22頁)

そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな

あらすじ・ネタバレ

 私は書斎で友人と子供の頃に思い出について話し合っていた。私が一年ほど前からまたチョウチョ集めをやっているということを友人に伝えると、見せてほしいと言われる。

 友人に収集したチョウチョを見せると、友人は幼年時代に自分も熱心にチョウチョを収集していたと語る。しかしその思い出を自分は汚してしまったという。語るのも恥ずかしいが言いながら、友人はその思い出を私に語り出す。

 ぼくは8か9歳の時にチョウチョ集めを始めて、その後夢中になった。ぼくは美しいチョウを捕まえて標本にすることに歓喜を覚えた。

 あるときコムラサキという珍しいチョウを捕まえた。その頃は自分は珍しいチョウを捕まえても、道具が貧相なので妹にしか見せていなかったが、得意のあまり隣の子供に見せたいと思うようになった。その少年は収集自体は少なかったけれども、手入れが正確で一級品だった。またあらゆる点で模範少年であり、ぼくは嘆賞しながらも憎んでいた。

 さてこの少年にコムラサキを見せると、彼は足が二本かけているという欠点を指摘した。自分の喜びはかなり傷つけられ、二度とその子にチョウチョを見せることはなかった。

 二年が経過して、その子(エーミール)がヤママユガをさなぎからかえしたという噂が広まった。それは、ぼくがそれ以上に欲しいと思ったチョウはないぐらい欲したチョウで、すっかり興奮してエーミールの家に出向いて行った。

 エーミールの部屋までいきノックするとエーミールはいなかった。しかしハンドルを回すと戸は開いた。そこでせめて例のチョウだけは見たいと思い、中に入るとはたしてそのチョウはあった。ぼくはそのチョウを見ると、どうしても手に入れたいという欲望を感じて部屋から持ち出してしまった。

 チョウを隠して階段を降りようとすると誰かが下から上がってきた。それは女中だったのだが、恥ずべきことをした感じた。すれ違ったあと、元の場所に返さなければならないと思い、またエーミールの部屋に戻ってきた。ポケットからそのチョウを取り出すと、前の羽がバラバラになり、触覚が一本なくなっていた。

 悲しい気持ちで家に帰り、そのことを母に打ち明けると、母はエーミールのところにいって許してもらうように頼まなければなりませんと言われた。それでエーミールのところに出かけて、事の経緯を詳しく話し謝ることにした。

 するとエーミールは怒鳴ったりせずに「そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな」と言った。ぼくは自分のおもちゃをみんなやるというといらないといい、「君がチョウをどんなに取り扱っているか、ということを見ることができたさ」と言った。

 ぼくは一度起きたことは2度と償いのできないものだと悟った。母は何が起こったかは根掘り葉掘り効かずキスだけしてくれた。ぼくにはもう寝る時間であったが、そのまえにそっと食堂に入り、厚紙の箱に入っていたチョウチョを一つ一つ取り出し、指で粉々に押しつぶしてしまった。

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解説

日本だけで有名な『少年の日の思い出』という題名

 ヘルマン・ヘッセの他の作品『車輪の下』(1905)や『デミアン』(1919)などと比べて『少年の日の思い出』はまったく有名な作品ではない。というよりもこの作品がよく知られているのは日本だけなのだ。

 実は『少年の日の思い出』は Das Nachtpfauenauge (クジャクヤママユ)という題名で1911年に発表されていた。それが1931年に改稿され、そのときに題名を Jugendgedenken(少年の日の思い出)に変更し地方新聞で発表した。そしてたまたまその新聞の切り抜きを翻訳者の高橋健二がヘッセから直接もらって翻訳したのが日本語版の有名な『少年の日の思い出』なのである。だから、この題名ではドイツ人ですら知らないというなかなか稀有な小説なのである。

 しかしなぜ日本人がこの小説を知っているのかというと、この小説が教科書に収録されているからである。以来現在まで70年以上も収録されているという。だから、あらすじを覚えていたり、「そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな」というセリフを記憶している人も多いかと思う。

青春を生きる少年の倫理的な成長が主題(テーマ)なのか?

 教科書に収録されているので単純に道徳的な話だとして読み解く人も多い。思春期の「ぼく」はエーミールのチョウを盗み壊してしまうが、そこで、自分がいかに倫理的に良くない行為をしてしまったのかを悟る。そして、エーミールに謝ることで、彼はその罪を認め人格的に成長する物語なのだとする見方である。

 しかし詳細に読んでみると、「ぼく」は盗みを犯したという罪をあまり気にしていない。盗みがバレないように、「ぼく」はチョウをポケットに隠そうとして潰してしまうのだが、そのあと潰れたチョウを見て「ぼく」はこう思うのだ。

盗みをしたという気持ちより、自分がつぶしてしまった美しい珍しい珍しいチョウを見ているほうが、ぼくの心を苦しめた。

19頁

倫理的な過ち(盗みという罪)が「ぼく」を苦しめたのではない。美しいチョウを潰してしまったという、ある種の骨董趣味的精神の傷の方が「ぼく」を苦しめたのだ。

 『少年の日の思い出』では、主人公の「ぼく」はずっとチョウの美しさや珍しさに惹かれていた。盗みも、最初から盗もうとしたのではなく、見ているうちにその宝のような美しさに魅了されてしまったからである。主人公の「ぼく」の行動は主観的な感情が優位に働くところがあり、だからこそ美しいという気持ちや独り占めしたいという欲望が道徳的倫理に先行している。

 さて、彼はこの時の罪を認めて、成長できたのだろうか。否、「私」が現在の「ぼく」にチョウを見せたときの「ぼく」の態度は、あの頃から成長していないことを示している。

そしてチョウチョをまたもとの場所に刺し、箱のふたを閉じて「もう、結構」と言った。
その思い出が不愉快ででもあるかのように、彼は口ばやにそう言った。

12頁

 チョウに纏わる思い出は、いまだに不愉快なのである。あの頃の思い出と完全に和解し、罪を認めたのではない。いまだに思い出を引きずっているのだ。このように、そもそも盗みという罪を犯したにも関わらず、罪という点ではあまり反省していないことと、現在の彼があの思い出を不愉快に感じていることから、この物語はよくある精神的な成長を描いたわけではないといえる。

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考察・感想

伝えたいこと——母がキスだけしてくれたのはなぜか

 では、この小説は何を訴えかけているのだろうか。

 最後のシーンをもう一度振り返ってみよう。ぼくはエーミールに軽蔑されて家に帰ってくる。そのときぼくは「一度起きたことは二度と償うことができない」ということを悟る。これはぼくがエーミールのチョウを粉々にしてしまったことを指すだろう。たしかにあのチョウは言葉通り、もう取り返しのつかないものだ。

 しかし母はぼくに対してどのような行動をとっただろうか。

母が根ほり葉ほり聞こうとしないで、ぼくにキスだけして、かまわずにおいてくれたことをうれしく思った。

22頁

残酷なエーミールとは違って、母はなぜか優しい。しかし母こそ謝りに行きなさいと言った張本人である。実際にエーミールが許してくれなかったことでまさに「償えなかった」のに、なぜ母はそれを責めたりとか、もう一度謝りにいけ、などと言わなかったのだろうか。

 もう一度「一度起きたことは二度と償うことはできない」という言葉に戻って考えてみよう。この言葉は確かに真理だ。壊したりしたものはもう元には戻らない。確かに複製とかは可能だが、もうそれはオリジナルではない。かといって二度と償うことはできないのだから、真剣に生きろ!とかいうのもおかしな話だ。「ぼく」はこの時11歳ぐらい、つまりまだ小学生だ。様々な失敗や過ちを犯して人生経験を積んでいく年齢だ。償えないからといって、ぼくのように情熱まで無くしてしまうことは良いことなのだろうか。

 なるほど償うことはできない。しかし、許すことはできる。もうあのチョウは二度と戻ってこない。しかし、行いを許すことはできる。「償えない」ことと「許さない」ということは別のことだ。エーミールは償えないから許しもしなかった。しかし、母は償えないけれども許してくれたのである。だからこそ、母はキスだけして構わずにおいてくれたのだ。

 償いができないというのはとても残酷な世界だ。一度やってしまうと、それは烙印のようにその人の人生に付きまとう。実際「ぼく」には、今でもチョウを盗んでしまったことが苦々しい思い出として残っている。しかし他人がそれをどう受け止めるかは別の話だ。償いができないという残酷な世界にそれでも許しが成立することで、この世界はかろうじで優しい世界の様相を帯びることになる。

世界のおきてとしてのエーミール

 つまり、「許し」があるというのは一種の「救い」なのだ。そう考えると、エーミールのより一層の無慈悲さが際立ってくる。エーミールの性格をみてみると、まず目につくのは子供っぽくないことだ。「ぼく」がコムラサキをエーミールに見せた時に彼はなんと言っていただろうか。彼はまず「20ペニぐらい」と値ぶみし、展翅の仕方が悪いとか足が二本欠けているとか指摘するのだ。それに対して「ぼく」は「その欠点(足が欠けていること)をたいしたものだとは考えなかった」と語っている。両者のチョウに対する態度の違いが鮮明に表れている。

 エーミールにとって大事なのは客観的な指標による価値や美しさだ。チョウの良さ(価値)は足が欠けていないなどの誰でもわかる客観的な指標によって決まる。極め付けは「20ぺ二」だ。チョウの価値はお金で計算することができるのである。

 他方「ぼく」にとってそんなことは重要ではない。ぼくにとってチョウが大事なのはもっと主観的な判断によるものだ。例えば羽が美しいということ。この美しさは主観的なもので、他の人がどう考えていようがあまり関係がない。もう一つは他の人に自慢したいという欲望である。この主観的な美的価値観や欲望がチョウの大事さを決定する。

 主観的で自分の欲望のままに進んでしまう「ぼく」と客観的で理性的で冷静で「許し」を与えてくれない無慈悲なエーミール。この対比の中で、実はエーミールは大人的世界や価値観を代表していることがわかる。エーミールに「君がチョウをどんなに取り扱っているか、ということを見ることができたさ」と言われた後、「ぼく」は次のように考えることになる。

もうどうしようもなかった。ぼくは悪漢だということにきまってしまい、エーミールはまるで世界のおきてを代表でもするかのように、冷然と、正義をたてに、あなどるように、ぼくの前に立っていた。

22頁

 エーミールは「世界のおきて」の代表なのだ。ここでいう世界というのは感情の排された客観的な世界、起きてしまったことは償えない、悪いものは悪い、といったようなある種無慈悲な世界だ。エーミールはそのようにして、ぼくの前にもはや乗り越えられない壁として立ちはだかる。というのもエーミールは全て正しいからだ。世界のおきては「ぼく」のちっぽけな熱情など葬り去り、そして「君がチョウをどんなに取り扱っているか」という大人的基準のもと断罪する。ぼくはもう「世界のおきて」が支配している空間では、チョウに対する熱情が許されていないのだ。だからこそ「ぼく」は最後、自分が収集したチョウを全て捨ててしまうのである。

成長できないことや大人になっても葛藤を残していることはいけないことなのか

 この話は最後、ぼくがチョウを捨てたところで終わっていて、後の解釈は読者に委ねられている。だからこそ道徳的に成長していないことを反面教師とみる見方も成立してきた。しかし、もっと単純に少し悲しい話として受け取ってもよいのではないだろうか。

 ヘルマン・ヘッセという原点に戻ってみたい。そもそも、ヘルマン・ヘッセは単に道徳的な行為を肯定的に描き、非道徳的な行為を否定的に描く作家ではない。彼の代表作である『車輪の下』は、それなりに秀才肌の青年が大人の無理解の中で、その圧力につぶされてしまう物語だ。その「車輪の下」にいるのは主人公の青年のことで、彼が比喩的に轢かれて駄目になって自殺してしまう過程をなんとも哀愁ただよう感じで描いている。しかもこの小説はヘッセ自身の苦難が原体験となって書かれた小説なのだ。彼も自らの欲望(詩人・小説家になること)と現実(父の後を継ぐこと)との狭間で苦悩したのである。

 『少年の日の思い出』で描かれているのも、欲望(ぼくのチョウ収集)と現実(世界のおきてとしてのエーミール)の間の対立だ。最終的に欲望は現実に屈することになる。もちろんそれは大人になることと同義であり、仕方のないことである。しかし『車輪の下』では、その間で引き裂かれて自殺してしまう。そんな話を書いているヘッセが『少年の日の思い出』で世界のおきてに従っていく過程を理想的に描くはずがない。

 ぼくは「少年の日の思い出」を「けがしてしまった」思い出として語る。けがしてしまった理由にはもちろん盗みという不道徳なことをしてしまったからというのがある。またぼくがどんなにチョウのことを雑に扱っているのかをまざまざとみせつけられ、ショックだったというのもある。確かに美しい思い出ではない。しかし美しくないのはなぜだろうか。そしてそのことをずるずると引きずって成長できないことはいけないことだろうか。

 この世界に「許し」は必要ではないだろうか。新海誠は『星を追う子ども』で、森崎のように喪失を抱えてそれに引きずられながら生きていく人たちを、なおも肯定的に描き出そうとしている。彼らはそれでも精一杯生きていくのだと。

 ぼくも少年時代の思い出を精算しきれていない。いまだにチョウを見るとそれが態度に現れてしまう。しかし、そのような「過去」を抱えている人が現実にたくさんいることは確かだ。この小説のポイントは最後むなしい感じで終わっていることなのだ。ひねくれた読み方をする必要はない。大人になることはある意味で虚しい。そして、子ども的なものを捨て去ることはなかなかできない。それならむしろ、その虚しさの中で、それを否定せずに生きていくことも必要なのではないだろうか。

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参考文献

『教科書名短篇ーー少年時代』中公文庫、2016年。

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