こんな夢を見た。
人が列になって歩いていく。たくさんの足音の反響。どこか地下の駅にいるらしい。ホームからホームへの地下連絡通路のようだ。低い天井とタイルの壁に囲まれた細長い空間を一斉に同じ方向に人が歩いている。人の流れの行く先に目をやるとエスカレーターがある。皆エスカレーターに乗っていく。上りだけのエスカレーターが一列。等間隔に人が並び、滑らかに上へ運ばれていく。片方に寄り追い越し車線を作ってはいるが誰も駆け上がる人はおらず、手すりに手をかけ前を向き一人ずつ静かに自分の段に収まっている。話したり横を向いたりする人はなく、こちらからは後頭部しか見えない。運ばれていく先は天井に遮られて見えなかった。学生らしい人、スーツの壮年男性、派手な化粧と巻き髪の女性、いろいろな人がいたが、皆一様にその流れに乗っていた。そして天井に遮られた、ここからは見えないその先に消えていった。立ち止まっているのは私だけだった。駅の構造物の一つのように静止している私には見向きもせず、たくさんの人が私を追い越していく。私はなぜか横を向くことはできずにいる。だから追い抜く人の表情はわからなかった。並び列になる後頭部はただただ無関心だった。そしてその無関心が皆エスカレーターに乗っていく。
私もあのエスカレーターに乗るのだと思った。今エスカレーターに乗っている人たちは、見えないどこかへ移動していた。自分もあのように自動的な上方への動きをするのだろう。それはもう決まっていることなのだろう。
自分の手になにかが触れているのを感じた。エスカレーターの手すりだ、と気付くと、既に自分はエスカレーターに乗っていた。自分が見ていた、ただただ運ばれていくあの動きを自分も今、している。さっき眺めていた上へ移動していくたくさんの背中の一つに、自分もなっていた。少し前に立ち止まってエスカレーターに乗る人の背中を見ていた、その場所から見たらこう見えているはずだという、自分の移動していく背中の映像が頭に浮かんだ。自分もあのようになるだろうと思ったものに、やはりなっていた。
私は上り続けていた。エスカレーターの僅かな振動。さっき自分がいた下方の通路を歩く人々の、遠い足音の反響以外は聞こえなかった。ここは駅の連絡通路のようなのに案内表示やアナウンスなどは何もなかった。そもそもここは何駅で、私はどこから来たのだろう。どことどこをつなぐ連絡通路にいるのだろう。後ろを振り返ろうと頭で思っても身体は動かず、目の前に自分と同じ姿勢でエスカレーターに乗る初老の男性のうなじを見ていた。まとまりきらない白髪がシャツの襟元で遠慮がちにうねっている。そのうねりを目でなぞっても、彼がどんな顔で今エスカレーターに乗っているのかはまったくわからなかった。私の後ろでエスカレーターに乗っている人も、私のうなじを見ているのだろうか。エスカレーターによる等間隔の自動的な移動をする人間の一人となった私のうなじは、同じ移動をする真後ろの誰かに見られているのだろうか。
エスカレーターは長かった。私は目の前にあるうなじのやや不健康そうな乾燥を見とりながら、この移動の意味を考えようとした。しかし頭は茫漠として何の言葉にも結び付かなかった。空虚。だからといってここから移動することもできない。等間隔に並んだ空虚の一つとして私は、思い出したように少しだけ振動するエスカレーターに乗って上方に運ばれていった。いつまで続くのか。
そう考えている私の足はいつの間にか素早い歩みをしていた。おやと思うと、手にはエスカレーターの手すりはなく、私は大勢の人々の流れに沿って再び連絡通路を歩いていた。低い天井、白く何もない壁。同じように同じ方向に歩く足音の反響だけがあった。私は意思なくその一つとなっている。これは何なんだろう。頭の中まで無数の足音が響いてうまく考えられないまま、自分の足は前の人を追って規則的な歩行をしている。
しばらく経つと、自分の足が立ち止まっているのを感じた。また自分はエスカレーターに乗っている。壁で狭く区切られた空間にあるエスカレーター。前に乗る人の頭頂部が見える。鳥肌が立った。今、私が立っているのは下りのエスカレーターだ。そして異様に急だ。ほぼ垂直だ。左手に握っているのは手すりだった、それを痛いくらいに握っている、でも何の安堵もない。少し前のめりになっただけですぐに落ちてしまう。そしてその底が見えない。エスカレーターは永遠に続くのではないだろうか。真っ逆さまになるだろうから下は覗けない。でも視野の端で、エスカレーターの先は暗く深かった。頭がさっと冷えて、歯が震えた。他の人は平然としている。恐怖を感じないのだろうか。私ばかりがおかしいのだろうか。
泣きじゃくっていた。ぼろぼろと涙が落ちる。息を吸うのが苦しい。頭が痛い。叫べない声が漏れ愚かしい音を立て、子供のように止めどない。なぜ私はこんなところにいるのだろう。何をしているのだろう。私は何なんだろう。
ぼやけた視界の下部に黒っぽいものが見えた。それはそこに天井から固定されている巨大な板のようで、たちまちエスカレーターで下に移動していく私の目の前にせり立った。思わずのけぞる、バランスを崩して手すりを強く握った。目と鼻の先。電光掲示板のようだ。文字が光っているが目を凝らしても見えない。時刻と行先が書かれているようだが、何もわからなかった。ただただ威圧的に理解できないものとしてそれは迫っている。私はおののいた。しかし私がエスカレーターで下方に移動していくのにつれ、その威圧の板は視界の上方に流れていき見えなくなった。
わかるものは何もなかった。他の誰も彼も壁も手すりも空間も全て平然としている。動揺しているのは私だけだ。もう私は構わず泣き叫んでいた。エスカレーターに直立し両手で手すりを掴みながら大声でわめいていた。でもどれだけ私が声を出そうと振り返る人はいない。皆前を向き落ち着いてエスカレーターに乗っている。自動的な下方への移動は着実で永遠に均質的で止まらない。恐怖と混乱の私は無関心の中に放り出されたままどこかへ運ばれていく。こんなに私は震えているのに助けてくれる人はいない。私はそもそも存在しているのか?
どれくらい泣いていただろう。また私は自分の足が歩行をしていることに気付いた。これまでよりも少し天井が高く、しかしやはり連絡通路と思われる空間を私は歩いていた。垂直のエスカレーターからはいつの間にか降りて、また前の人を追いかけながら歩いている。反響する足音の重なりが私を急き立てる。やはり表示などはなくてここがどこかはわからない。歩きながらふと私は、自分の前を連なり歩く人々の背中に、見覚えのあるものを見つけた。
「先生」
思いがけず声が出て、私はその背中に向かって走っていた。
「先生、先生」
声が自然と大きくなりながら、3、4人を追い抜かし、その背中に追いついた。
「おお、君か。どうしていたかね。元気だったかい」
振返ったその人は小学校の時の担任の先生だった。小学校卒業以来会っていなかったから、もう20年ぶりくらいだ。優しい先生だった。私をよく誉めてくれた人だった。先生は立ち止まって私を正面から見た。私が小学校の時にもうお爺さんだった先生は、その時と変わらず深く皺を作りながら笑い、私に何度もうなずいている。私も笑っていた。久々に人の顔を見た気がした。一気に力が抜けて呼吸が楽になり、手先があたたかくなってくる。相変わらず急ぎ行く人達の列を歪ませながら、立ち止まって私と先生は見つめ合っていた。今、ここだけは親しく、やすらぐ空間だった。
「さあ、行こうか」
ふと先生は視線を前に戻すと私に背を向けて歩き出した。ひとたび列に戻って歩きだすと、その背中は他の背中と同じように無表情だった。「先生」と唇は動いたが、声にならなかった。ほろほろと幾筋かの涙が頬を伝ったのを感じた。でもそれだけだった。もうだめかも、とか、今、自分は白く空っぽな存在になったのだ、とか、頭の隅で思った気がする。あとはよくわからない。また歩き出し、エスカレーターに乗っている。そしてまた歩き、エスカレーターに乗るのだろう。上に行ったり、下に行ったりするのだろう。それを何も悲しくなく、怖くなく、行えるだろう。それはとても楽だろう。
そんな夢だった。目覚めはよくなかった。そわそわと不安になった。ぼんやりと布団で10分ほどを過ごした。でも意を決して起き上がり仕事に行く身支度を始めた。
ふと自分の手元を見ると手すりがある。足元には静かな振動があり、見ると私はエスカレーターに乗っている。目の前には誰かの後頭部がある。これは夢なのだろうか。まださっきの夢から覚めていないのだろうか。もうよくわからない。何だかとても疲れていて、どうでもいい。
夢は十、語ろうと思っていた。でも第一夜から抜ける力を私は持たなかった。夢は重ならなかった。物語を紡がなかった。だからもうこの話はここでお終いにしよう。これもまた夢かもしれないのだから。
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