こんな夢を見た。
エスカレーターに乗っている。ああ、またエスカレーターに乗っている、と思う。一列だけの上りのエスカレーター。今日は周りに誰もいない。エスカレーターのすぐ脇に白い壁があり、その狭く区切られた空間のひたすら長い長いエスカレーターに、私はぽつんと立っている。静かな振動とともに、私は上へと運ばれていく。
このエスカレーターはどこまで続くんだろう。ふと目を上の方にやると、もう一人このエスカレーターに乗っている人がいる。
「先輩…?」
だいぶ遠くにある背中を目掛け、私の足は動き続けるエスカレーターを駆け上がっていた。
「先輩、先輩」
思わず声が出ていた。左手で手摺を掴み自分の身体を引き上げながら、遠く向こうの背中に追いつこうとする。先輩、先輩。その背中はこちらには気づかず、前を向いたまま立ち止まって静かにエスカレーターに乗っていた。早く、早く。しかしその背中とほとんど距離が縮まらないうちに、立ち止まってエスカレーターに乗っていたその人は二、三歩を踏み出し、私から見えなくなってしまった。エスカレーターがそこで終わるらしい。焦って踏み外しそうになりながら段を昇りきると、私は白くて細長い通路に出た。地下鉄の駅の連絡通路のようだが、白い壁と天井ばかりで表示などは何もなかった。
「先輩、先輩」
真っ直ぐ伸びる通路の先にその背中はあった。壁と天井と廊下の白さの中を走り走り呼び、それでも振り返らないその人に私はようやく追い付いた。
「先輩!」
息を切らして前に回り込むと、先輩は立ち止まった。
やあ。久しぶりだね。どうしていたの。まだあの弁当屋で働いているの。先輩は笑顔でそんなことを言った。
「先輩は元気でしたか。今は何をしているんですか」
先輩は今は音響機器の会社に勤めているらしい。先輩、バンドも組んでましたよね。もし就職するなら音楽に関わる仕事がしたいと、弁当屋のバイトをしてた時にも話してましたもんね。じゃあ、今は自分のやりたいことを仕事にできているんですね、めっちゃいいじゃないですか。
先輩は恥ずかしそうに笑っている。私が最近面白いことはありましたかと聞くと、先輩は有名バンドと仕事をしたことを楽しそうに話している。先輩が笑顔なのはどうしようもなく嬉しかった。こんな瞬間があれば生きていける気がする。何だか弁当屋で働いていた頃に戻ったみたいだ。バイトしてた時もよく二人で喋っていた。バイト二人と優しい女将さんだけで回してる弁当屋だったから、客が来ない間は二人で喋り放題して楽しかったんだよな。何だっけ、先輩が通ってた大学の池にいた伝説の巨大魚。三日三晩、サークルの人と一緒に先輩も釣り糸を垂らしてたら風邪引いたとか言ってたな。でも巨大魚の尾びれは見たんだと先輩は強く主張していた気がする。あと先輩は自分のバンドの話もよくしてくれて、そうやって先輩と話すのが楽しみであのバイトに通ってたから、先輩と一緒に帰りたくて、でもいつも一緒に帰ろうとすると気持ち悪く思われるかなとか思って、わざとちょっと遅く出てから先輩を走って追いかけたりして、それで駅までに先輩に追いつけなくて先輩が電車に先に乗っちゃってたら悲しくなって泣いた時もあって、でも今思うと走って追いかけてくる奴も気持ち悪いですよね。先輩、私のことどう思ってたんですか。
「先輩の連絡先聞いておけばよかったなって後悔してたんですよ」
だって女将さんが、先輩には彼女がいるって言ったから。先輩が体調不良でバイトを休んだ時ありましたよね。あの時、「風邪を引いても彼女が面倒見てくれるだろうから先輩は大丈夫よ」って女将さんが言ったんですよ。私を安心させようと女将さんは言ったんだろうけど、私はショックで家に帰ってどれだけ泣いたか。だからそれまで先輩に連絡先を聞こうと思った時はあったけど、その時からもう聞こうと思えなくなっちゃって、先輩がバイト辞める時も聞けなくて、でもやっぱり聞いとけばよかったなとか、先輩に会いたいなって思ってたけど、先輩から私に連絡先を聞くこともなかったってことは、やっぱり先輩には彼女がいたんですか。
「そういえば先輩、弁当屋でバイトしてた時は黒い服しか着てなかったじゃないですか。『音楽をやっていると黒い服ばかり着るようになるんだよ』とか言って。さっきも先輩を追いかけながら『何で先輩は水色のセーターを着ているんだろう?』って思ってたんですよ。水色のセーターでも先輩ってわかったんですけどね。だって後ろから見ても先輩っぽい歩き方してたから。ちょっと猫背で」
「ああ、このセーター? これは妻が選んでくれたものでね。もうすぐ子供も生まれるんだよ。家族のために仕事を頑張らなきゃね」
先輩はセーターをちょっと指でつまみながら言った。薬指にはよくある約束が金属の輪の形になってはめられていた。その契約の指を持つ手で水色のセーターとその下のたるんだ腹肉を撫でながら、先輩は目尻を下げて小皺を作っている。その皺の脇にはややシミがあり、生え際には白髪が見えていた。剃り残した髭にも白いものがちらちら混じっている。先輩はこんな顔だっただろうか、急によくわからなくなった。
ああ。ご結婚されていたんですね。お子さんも生まれるんですね。それはおめでとうございます。
通路の壁の白さの中で、そのセーターはとっても水色だった。ああ、非常に水色だなあ、と思っていると、自分の股の辺りに嫌な感じがして、ハッと見開いた目に飛び込んできたのは自分のベッドの水色のシーツだった。
ドアに頭をぶつけながらトイレに駆け込むと、私から出た血が白い便器の中を赤くしていく。溜息が漏れる。今月は思ったより早く来た。汚れた下着を洗わなければならない。
そう思いつつも夢の途中で目覚めた身体と頭は稼働せず、しばらくぼんやりと便座に座っていた。先輩、ずっと会ってないな。もう会わないんだろうな。連絡先知らないし。あの弁当屋も私がバイトを辞めてしばらくしたら潰れちゃったんだよな。夢の中の先輩は結婚して子供も生まれるとか言ってたけど、現実ではどうなんだろう。もう先輩もいい歳になってるはずだもんな。そんなことをとりとめもなく考えた。
私の経血はだらだらと便器の内部に流れていく。また一つ私は卵子を捨てている。私の内側にある卵。卵、卵、卵、それを毎月捨てていく。命だったかもしれないもの。人間になったかもしれないもの。それを支えたかもしれない血が、便器に流れ、生理用品に吸われ、捨てられていく。それはどういうことなのだろうか。薬指に申し合わせたリングをつけてみたり戸籍上の登録をするために役所に報告しに行くことは、この名付けようのない気持ちへの解決策のようにも思えたし、決してそうではないようにも思えた。結婚しようよとか言ってきた同僚の顔がぼんやり浮かんだ。
わからないことばかりだった。眠かった。もう一度寝たい。今日は日曜日だ。ひたすらエクセルを埋める仕事をしに行かなくてもよい日だ。就職した途端に辞めたいと思ったが惰性で続けている会社に行かなくてもよい日だ。
さあ、寝ようとベッドに戻り布団をめくると、水色のシーツに赤く血がついていた。大きく鮮やかな赤い丸は、べとつく否応ない血だった。
二度寝できないまま下着とシーツを洗いながら、いろいろなことが頭に浮かんでは消えた。石鹸がささくれにしみた。血はなかなか落ちなかった。これを干したらやっぱりもう一度寝よう。また夢を見たかった。何でもいいから楽しい夢がいい。そんな夢を見せてよ。ねえ。誰か。
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