0. はじめに
きっと良い作品なのだろうと思いつつ、観に行って、ちゃんと良い作品だった。
マンガもアニメも未見だけど何故かどうしても惹かれて、東京であまりにもささやかな初雪が降った日に、「家族でゆっくり過ごす年末年始」から吐き出された自分は人少なな池袋の映画館でその映画を観た。
「劇場版 チェンソーマン レゼ篇」(原作:藤本タツキ、監督:𠮷原達矢、2025年)。事前知識が何もない状態で行っているから、デンジとレゼが結束された状態で海に沈んでいくことにも、レゼの最期の言葉が「私も学校に行ったことなかったの」であったことにも、新鮮に感動した。
米津玄師もマキシマムザホルモンも宇多田ヒカルもそりゃ震えるほど良いけど、主題歌/挿入歌/エンディング・テーマとしてもてはやされる音楽以外も、豊かだった。例えばピアノがバックで流れる時は、ペダルを踏む音、それに伴うピアノの軋みが人の呼吸のようでノスタルジーを呼び起こすのを感じた。そういう体験があった。
漫画調だったり、原色のペンキを飛び散らせたようだったり、特に戦闘シーンの飽きさせない画は視覚的な喜びだった。
象徴も緻密に織り込まれていて、それは例えば頻出する円についてはクコ「米津玄師「IRIS OUT」のメタファー 『チェンソーマン レゼ篇』に“円”が頻出するのはなぜか」(リアルサウンド)⑴などで解説されている。また映画が始まって早いうちに出てくる日章旗からも、レゼが「この国では」「日本では」という言葉を使いながら「少年としてのありふれた日常とは何か」「デンジはそこからどれだけ離れているのか」を説こうとすることからも、この映画は国家の問題を抜きには考えられないことを示していて、そんなテーマにぶち当たるとは思わずに観に行ったから、意外な重さに自分は劇場で驚いていた。
あらゆるところに意味と意図があり、作品に関わった人達の魂がほとばしっている。そのような作品だから、圧倒されるのだろう。
「すごいものを観たなあ」の気持ちを残しておきたいと思った。マンガもアニメも知らないままだし、いろいろな考察も調べていない状態で感想を書いているからガチ勢に怒られそうだが、これも寒い冬の夜の夢うつつの呟きとして見逃してほしい。だって労働が私の言葉を押し流してしまう前に書かないと、それは永遠にどこかへ行ってしまうから。そんな個人的なメモである。
前置きが長くなったが、自分がメモをしておきたいのはこの映画の「見る」ことの扱いの面白さである。この作品でデンジの前に現れる二人の女性マキマとレゼは、見るという行為で対比されている。マキマは徹底的に見る人であり、レゼは見て問いを発し、動く人だ。そして映画内で映画を観る場面があることで、見る行為についての私たちへの問いも生まれているのではないか。それもまた、ただ「面白かった!」で終わらない作品としての重さになっているように感じる。そんな見通しを立てたところで、まずはマキマについて考えてみよう。
1. 見るマキマ
マキマは見る。見ている。それは、小動物が必ず画の中にいるオープニングムービーからもわかるらしい⑵。マキマ視点による履歴書のカットがあったり、マキマに呼ばれたデンジのマキマの席から見た姿でオープニングムービーが終わっているのも、それを示しているだろう。
マキマは見ている。アキに天使の悪魔との付き合い方を助言する場面でも、見ている。マキマはアキと一緒に、天使の悪魔とパワーが部屋の中で何やら話しているのを、屋外から見ている。そして「仲良くならなくてもいいから利用すればいいんだ」と言う。
レゼの最期も、マキマは見ている。マキマはデンジの待つカフェに向かうレゼを細い路地で待ち伏せし、ネズミの比喩を述べる。マキマはレゼを殺そうと待っていたわけだが、実際に手を下すのは天使の悪魔だ。天使の悪魔の放った槍に心臓を貫かれ、レゼは喫茶店の窓越しのデンジの後ろ姿を見ながら死んでいく。その様子をマキマは見ている。
そのマキマの性質は、彼女が映画を観る場面があることでよりあぶりだされているのではないか。彼女は休日にデンジを誘って一日中映画を観まくり、合間合間に「面白くなかったね」「音楽はよかった」などと感想をカフェで言う。
わざわざマキマとデンジの映画鑑賞に終始する休日を物語の中に入れたのは、この作品の中でデンジに相対する二人の女性としてのマキマとレゼの性質を対比するためではないだろうか。レゼについては次で詳しく述べるが、先んじて言うならばマキマ=見る人、レゼ=動く人である。
そしてマキマ=見る人の象徴として映画鑑賞が使われているのは、この作品が映画作品になっていることからして、私たち自身に向けたまた別の意味を持ってくる。それを念頭に置きつつ、まずはレゼ=動く人であることを確かめていこう。
2. 動くレゼ
レゼは動く人だ。この作品ではレゼの目のアップがたくさん出てくるから、彼女もまたいろいろなものを見ているのだけど、そして彼女は行動に移す人なのだ。
レゼはデンジに「私が全部教えてあげる」と言う。レゼはデンジにいろいろな体験をさせようとするのだ。例えば自分のバイトする喫茶店でデンジにコーヒーを飲ませる。その苦さにデンジは驚く。つまりコーヒーをレゼがデンジに教えてくれたのだ。そのコーヒーはマキマもよく飲んでいる飲み物であった。デンジはレゼに出会う前、マキマと一緒に映画鑑賞をした合間にカフェに行っていたはずだが、マキマはコーヒーを片手に映画に関する自分の感想を投げるものの、コーヒーをデンジに教えることはなかったのだろう。だから初めてレゼがデンジにコーヒーを体験させたのだ。
他にも、夜の学校に侵入し学校というものを体験させたり、泳ぎを教えたり、お祭りに連れて行ったりする。
だからマキマが見る、見続ける人であるなら、レゼは見てそして動く人だと言える。そのようにレゼを動かすものは何だろうか。それは自分の体験であろう。デンジが少年であるのに学校にも行かず悪魔と戦わされていることの「おかしさ」を問う時、「日本では」「日本人では」とレゼは言う。「日本ではデンジ君の年齢なら学校行って勉強するのが普通じゃないのか」「朝昼晩食べることができて布団で寝れることは日本人として当たり前のことであって、それのために公安にいるのはおかしい」作品の冒頭に印象的な日章旗のはためきも相まって、国家が物語に絡んでいることが意識させられる。レゼは自分の出身地であるソ連であればデンジのような境遇に陥ることこそあれ、ここは日本であるのだからそんなことはあるべきではないのだと信じている。レゼの死後、岸部はレゼをソ連の「国家のモルモット」だったと言っていたが、デンジもまた自分と同じように自由を奪われ国家のために奉仕していること、そしてそれが日本という国で起きていることへの、レゼの怒りが彼女を動かすのだ。
レゼはデンジの境遇を知った。見た。そしてそれはおかしいのではないかと問い、彼の手を取って走り出す。それはデンジ夜の学校やお祭りに連れ出すだけでなく、一緒に田舎へ逃げようという提案にもなる。レゼは見るだけでなく、行動する人だ。
レゼは最期を迎える時、マキマに対峙する中で天使の悪魔に上方から右手を切り落とされている。その右手が首のピンを抜くことで、レゼはボムに変身し街を破壊し多くの人を殺してきた。だから第一には、右手を切り落とされた意味は、ボムへの変身を阻止されたということである。でもその右手はまた、デンジの手を取った右手で、いろいろなところへデンジを連れてきた右手でもあったのだ。心臓を貫かれ、おぼろげな意識の中で、レゼは喫茶店で待つデンジをあと数メートルの距離から見ているだけの存在になる。右手が切り落とされることは、デンジを変えようと様々なところに連れ出すこと、つまり彼女の行動する人である性質そのものへの否定であるようにも思える。「あなたは何もできない、見ていることしかできないのだ」レゼの右手を切り落とすことで、マキマは死にゆくレゼにそのような意味を被せているのかもしれない。
3. 映画を観る私達
マキマは見る人であった。レゼは動く人であった。ではあなたは? そんな問いかけをされているように、鑑賞後、感じていた。どうしてだろうか。
それはマキマ的見る行為の提示の一つに、映画があったからだろう。そもそも、指摘があるようにこの作品ではオープニングムービーで「動く馬」のオマージュがなされていて、映画というものを意識するように仕向けられている⑶。その中でマキマの映画鑑賞の様を考えるなら、映画への向き合い方、見て、そしてどうするのかを問われているように思ってしまった。
マキマは映画を観て、「面白くなかった」「この1本でもとがとれた」など感想を言う。それは作品として自分とは隔離されたスクリーン上のものとして、見ている。戦時下における愛についてのソ連映画を観ても⑷、それによって直接マキマの行動が変化するという描写はない。
私達はどうだろうか。「少年が学校に行けないなんておかしい」「日本では衣食住が保障されるのは当たり前のことだ」と思い、行動するレゼをスクリーンで見て、作品の鑑賞後我々は「泣けた!」「よかった!」と感想を言って日常に戻っていくばかりである。
でも引っ掛かるくらいにレゼが「日本では」「日本人として」と言い、物語冒頭で日章旗のアップを見せていることは、このフィクションは少しずらした形でなら現実になるのだということを示しているのではないだろうか。
台風の悪魔が街を壊し、ボムが爆弾を落とす映像を私達は観るが、現実に台風の被害はあるし、戦争になったらあんなふうに爆弾は落とされるのだろう。また、デンジのような境遇の子も現実にいるのだ。
マキマとレゼ。その対比を思うなら、私達も何か動く人になるべきなのかもしれない。ただ、作品をその直後の感動や興奮で消費するのではなく。
動くことは多分、小さなことでいいのだ。例えばデンジのように。デンジはマキマと一緒に映画を観て、感想を言い合っていた。だからデンジはマキマと同じ様な見る行為の仕方をしていたのだが、彼自身は翌日、自分の行動を変化させていた。彼はわずかな募金をした。それは多分マキマに「デンジ君には心がある」と言われて浮かれたからも多いにあっただろうが、その募金でもらった花を周囲に引かれながら喰い腹に収めたことで、すぐ後に電話ボックスで出会ったレゼの前で吐き戻し、レゼの涙を止めた。そんな思いやりを見せたデンジであったから、レゼは彼のために行動する人になったのだろう。大いなる思いによってではない、募金というわずかな行動が、レゼを動かすことにつながったのだ。
こんな些細なことで、と思うようなことが、まわりまわって誰かを変化させているのかもしれない。だから、見る、見ているだけでなく、何か少しでも行動することが大切なのではないだろうか。
この作品は絶対にこんな説教臭い結論のためにあるわけではない。ハチャメチャに面白いエンタメで、豊かだ。でも映画を観る場面を思うと、上記のようなことも私の頭の中に浮かんでしまったのだった。
4. おわりに
この記事では私の備忘録として、マキマとレゼの対比や、映画を観るシーンなどから思いついたことを書き連ねてみた。労働を重ね、言葉にならない思いがリアルな胃痛やら嘔吐やら頭痛になるよりは、書くという行為で発散できている方がマシだろうの気持ちで、勢いだけで書いている。
自分のために書いたものだけれど、この作品の消費ではない触れられ方にどこかで何か寄与するなら嬉しい。書くこともまた行動であると信じて。
注
- 米津玄師「IRIS OUT」のメタファー 『チェンソーマン レゼ篇』に“円”が頻出するのはなぜか|Real Sound|リアルサウンド 映画部
- 意味がわかるとゾッとする“監視”の演出|Real Sound|リアルサウンド 映画部
- 2025年夏映画|Notes on KnowRun’s Form
- https://www.three-minutes-philosophy.com/balled/「劇場版『チェンソーマン レゼ篇』に出てきた映画の正体は?まさかのソ連映画!」(映画で学ぼう/bitotabi)などでデンジとマキマが観た映画が『誓いの休暇』(監督:グリゴーリ・チュフライ1959年公開)であることが指摘されている。
※写真は写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOKからID:2841618(作者:beauty-box)
