「リベラル自認の10~30代、「自民に投票」3割 中道は1割届かず」というタイトルの記事を見かけた。
(https://www.asahi.com/articles/ASV264K1WV26ULLI004M.html)
その記事を読んでみると、
政治的立場をどう自認しているかを「左(0)」から「右(10)」までの11段階で答えてもらったところ、左寄りの0~4を選んだ人は14%、中間の5を選んだ人は33%、右寄りの6~10は31%、「わからない」が22%
政治的立場を中間と自認する人は「右にも左にも傾かない」ことを掲げた中道に投票した人は少ない。
とある。
この二つの文章の間には、論理の飛躍がある。「アンケートで中間の5を選んだ人」というのは、「政治的立場を中間と自認する人」と本当に同じなのだろうか。
政治の話をする時に、勝手に右か左かという軸の上で測っているのは誰か。彼らは「右ではない、左でもない」と答えただけなのだ。
酸性でもアルカリ性でもない中性、というのとは訳が違う。つまり、A型の因子もB型の因子も無いO型である。彼らに政治的立場がある訳ではない。ノンポリである。
こう考えると、先ほどのアンケートも意味合いが変わる。わからない、と中間を選んだ人の割合を合わせると、55%になる。
車でも、化粧品でも何でも良いが、自分がこだわりのある物であれば、どんなに魅力的な広告が流れてきたって「いやいや、ちょっと待てよ」と吟味するに違いない。でも、全てを自分で選び取るのは難しいししんどい。ネット上での広告戦略の是非や倫理はともかくとして、作戦がうまく噛み合ったのは頷ける話である。
…いやいや、政治だよ?「自分で選び取るのは難しいししんどい」なんて言ってる場合じゃないでしょう。それに彼らは「分からない」と答えた訳ではないのだから。
本当に迷惑だ。自民党に入れた人だけが、自民党が引き起こす悪いことを引き受けてくれればいいのに。
大体ここまでがワンセットで言われることだろう。
さて、投票が推し活化しているのは、悪いこととして話題にされているが、なぜ悪いのだろうか。投票に来ない人が多数派を占めている現代では、少なくとも推し活に喩えて政治参加のハードルを下げること自体は悪くないのではないだろうか。問題は、そこからいつまでも当事者としてステップアップしてこない、というところだろう。
推し活は意見交換の必要が無い。あなたの推しはあなたの推しとして尊重される。その代わりあなたは私の推しを尊重しなくてはならない。多様性の尊重は若い人ほど浸透しており、他人の意見を否定することは最大の悪である。
でもそれは本来なら、何でもありということではない。間違っていることは間違っているとされなければならない。なのに多様性の尊重という言葉で、発言の責任から逃げようとする。
これは世代のせいではない。若い人を作るのは常にその先人が作って来た社会なのだから。
今の世の中、この20年くらいを見た時に、自分で責任を取ろうと思えるような世の中だろうか。労働以上の付加価値をきちんと評価できてきた社会だっただろうか。そして、どれだけ頑張っても最後は自助。コロナ禍で絶望した人も多かったはずだ。
それはネオリベラリズムを推進した右派のせい?本当に?
“本当に迷惑だ。自民党に入れた人だけが、自民党が引き起こす悪いことを引き受けてくれればいいのに。“
ではこの発言は?
推し活に関連して更に言えば、高市首相の振る舞いは、ホモソーシャル性の高いであろう政治の世界で、女性が残るにはどういう姿勢が求められたのかが透けて見えている。
彼女はアイドルとして勝ち残ってきた勝者であり、「アイドルである自分」に何ら抵抗は無い。
誰が、とか、どの年代が、とかいう話ではないだろう。日本社会が踏み躙り、先送りにしてきた問題のツケが今来ている。
雪だるま式に膨れ上がった重みだけで、惰性で回り続けるこの社会の、動きを変える力が今の日本に有るのだろうか。
