なんとなく、映画を観るのが億劫である——徒然日記その1

なんとなく、映画を観るのが億劫である——徒然日記その1

書くことは読むことを含むが、読むことは書くことを伴うのだろうか

ここ数ヶ月、ほとんど映画を観ていない。感想の投稿が激減したのはそのためだ。観ていないことにはこれといって何か理由があるわけではないのだが、強いていうなら、気力が湧いてこないということになる。

観るよりも書くほうが労力を使う。映画を見るのさえ億劫なのだから、書くとなれば尚更だ。幼い頃から文章を書くのが苦手であった。中学生の頃には毎日二百文字くらいの日記を書かなくてはならなかったが、大抵「〜〜があった。楽しかった。」と記して提出していたせいで、全く文章力が上がらなかった。頭がいい人はいい文章を書く。たかだか二百文字でもその違いは如実に現れる。その差を未だに引き摺っている気がする。

他の例もある。部活で卒業生に渡す色紙の一言である。「今までありがとうございました。これからも頑張ってください」。私の文章は、これ以上も以下もない。それと比べて友人たちは巧みに文章を組み立てる。過去のエピソードを交えたり、相手とだけ共有している経験を記したり。文章の違いがそれだけに収まるのなら問題はあるまい。だが私の感謝文が、温かみのある豊かな表現の横にあると、どうもそっけなく感じてしまう。文章は人柄をある程度表現すると思っているので、自分の文章から逆に自分の人柄を考えてしまう。冷たいとか貧相とかではない、ユーモアが足りないのだ。

ところが現在に至るまで、文字に対してかなり距離を感じる。どのような文章を書いてもしっくりこないし、特に、接続詞が浮いて見える。単語と単語の組み合わせがぎこちなく感じるし、文と文が繋がっていないように感じる。それもこれも「〜〜があった。楽しかった」、「今までありがとうございました。これからも頑張ってください」と書き続けて、書く練習を怠ってきたせいだ、と思う。

しかし普通の人はどこで書く練習をしてきたのだろうか。(理系の)大学に入ると、レポートは書くがそれは画一的なシステマティックな文章である。となれば高校生?あるいは中学生?

この国には英語の文章を書く練習はあるのに、日本語の文章を書く練習はない。小説やエッセイを読む練習はあるが、巧みな文章を書く場がない。そもそも、この文章がうまいなあとか、綺麗な文章だなと感じない人も多いらしい。だから教えようにも教えられない。一人一人が教わるのではなく、独自に開発するしかないらしい。

書くことは同時に読むことを含む。声に出すにしろ脳内で発するにしろ、書くことは読むこととセットである。それらが切り離されるのは、一心不乱に高速で文章を書くときだけである。ただしその場合、記された文字列が意味をなすことはほとんどないだろう。さらに言えば、現代に生きる多くの人にとって書くとはタイピングを指す。ペンで書くのではなく、キーボードで打っているのだ。「書くこと」と「打つこと」は、動作だけでなく認知の次元でも大きく異なると思う。「わ」が「wa」に分解されているのだから違わないわけがない。

特殊な場合を除いて、書くことは同時に読むことを含むとすれば、読むことは同時に書くことを伴うのだろうか。

答えはノー。読むときに書くことは必要ない。だがそれは何故だろう。

口を使うとか手を使うとかいう違いはあるが、主な原因はスピードの差だと思う。読むことは速くて書くことは遅いので、読むことの速さに書くことが追いつかないのだ。とするならば、次にすることは明白である。文章をゆっくり読むのだ。

抑揚を無くしゆっくりと、そして書くことをイメージしながら読むと、読みながら書くことが可能になる(この読み方は、つい最近、ゆっくり読んでいるときに獲得した感覚的なものである。従って大抵の人は出来ないかもしれないし、私もできない時がある)。ゆっくりと文章を読むことで、作者の描く動作が、正確に言えば、手とペンと紙が浮き上がってくるのだ。もちろんこれは想像上の作者なので、イマジナリー作者と呼ぶ。読むことで得られるのは実作者の心情ではなく、イマジナリー作者の手の動きである。

ゆっくりと読むというと、スローフード系列の何かが思い出されるが根本的に異なる。スローフードは、食べるという動作だけで作る人の営みを同時に感じることはできない。それにおいては生産と消費が全くもって別物だからである。そして食べることは消費であるからこそ、スローフードは消費者運動として魅力があるのだ。

だが読むということは消費ではない。もっと別の営みであり、だからこそゆっくり読むということは、他の行為にはない感覚を与えてくれる。

というような新たな読み方から、濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』について書いてみたい。

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