『星を追う子ども』考察|孤独・愛・おだやかさについて|あらすじ解説|感想|新海誠

『星を追う子ども』考察|孤独・愛・おだやかさについて|あらすじ解説|感想|新海誠

概要

 『星を追う子ども』は、2011年5月7日に公開された新海誠監督のファンタジーアニメ映画。キャッチコピーは「新海誠が贈る本格ジョブナイル・アニメーション!」「それは、”さよなら”を言うための旅」。前作は『秒速5センチメートル』、次作は『言の葉の庭』。

 新海はほかに長編『雲のむこう、約束の場所』『君の名は。』『天気の子』、短編『ほしのこえ』『彼女と彼女の猫』などがある。

 アニメ映画はほかに『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』『怪盗グルーの月泥棒』『千と千尋の神隠し』『ミュウツーの逆襲』『幻のポケモン ルギア爆誕』などがおすすめである。

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登場人物

アスナ(明日菜):主人公。山間で母と二人暮らし。父を亡くしており、山に登っては鉱石ラジオから聞こえる不思議な歌を聴いている。

シュン:シンの兄。アガルタ世界の住人である。病に犯されながら地上を見てみたいと地上に出てきたときにアスナに出会う。しかしその後地上で亡くなってしまう。

シン:シュンの弟。瓜二つ。シュンが地上に持ち出したクラヴィスを回収するために地上にやってくる。

モリサキ(森崎):アスナの通う学校に赴任してきた臨時の国語教師。妻リサを亡くしており、リサを生き返らせるためにアスナと一緒にアガルタ世界へと侵入する。

あらすじ・ネタバレ

 主人公のアスナは山に秘密基地を作り、父の形見であるクラヴィスという石をつかった鉱石ラジオを聞いている。ある日、みたこともない怪獣に襲われるが、そこに現れたシュンに助けられる。翌日シュンと会い、また会う約束をするが、シュンは次の日遺体として発見される。

 死に実感が湧かないアスナは、新任の国語教師モリサキが授業で話していた「死後の世界」に興味を抱く。さらにモリサキからシュンの故郷であるアガルタ世界のことも知らされる。

 帰り道、アスナは秘密基地の近くでシュンに瓜二つのシンに出会う。シンは兄が残したクラヴィスを取り返しにきたのだという。シンはクラヴィスを回収するときに秘密組織「アルカンジェリ」に狙われるが、その一員であったモリサキの裏切りにより、三人でアガルタ世界にいくことになる。シンは村へと戻るが、モリサキとアスナは一緒にアガルタ世界を旅することになる(モリサキは妻リサを復活させるため)。

 旅の途中、アスナは夷族(イゾク)に連れ去られる。彼らは地上人を嫌い、地上人の血の混じった少女マナと一緒に殺そうとするが、シンが助けにくる。何とか逃げ延びることができたが、シンは夷族の攻撃により深傷を負ってしまう。

 モリサキと合流したアスナ達は、マナの故郷であるアモロートの村にたどり着き、マナを救ってくれたお礼に一晩だけ泊めてもらえることになる。そこでマナの祖父から、死者をも復活させることができるという、世界の果てである「フィニス・テラ」の場所を教えてもらう。

 アスナとモリサキはフフィニス・テラにたどり着く。その崖の下に死者を復活させる生死の門があるのだが、アスナは躊躇して崖を降りることができず一人引き返すことになる。アスナは過去を反芻するうちに、アガルタに来たのは寂しかったからだということがわかる。夜またもや夷族がアスナを襲う。そこにシンが再びやってきて、アスナを助けだす。アスナとシンはフィニス・テラの崖の下に行くことを決心し、モリサキの後を追う。

 他方で崖の下にたどり着いたモリサキであったが、死者の復活にはクラヴィスの他に生贄が必要だということが分かる。アスナとシンが崖の下に到着すると、モリサキは生贄にアスナを選択する。さらに代償してモリサキは右目を失明する。するとアスナを依代としてリサが復活する。アスナを救うためにクラヴィスを破壊すると、リサは消えアスナに戻る。アスナは夢の中でシュンと出会い、さよならを告げる。生き返ったアスナはモリサキを抱きしめる。フィニス・テラから出て、アスナはアガルタ世界から地上に帰って行き、モリサキとシンはアガルタ世界に残り旅を続けることになる。

解説

喪失にどう向き合うかの物語

 新海監督自身がすでにこの物語がどういうテーマなのかについて言及している。曰く、それは「喪失」がテーマの物語(参考文献2参照)。予告でもそれが現れている。「喪失をまだそれと分からぬ少女」アスナ、「喪失を決して受け入れぬ大人」モリサキ、「居場所を求める異国の少年」シン。それぞれ喪失を抱えたこの三人が旅する中で、喪失に各々向き合っていく。

 まず主人公のアスナであるが、アスナの喪失はアガルタ世界から来たシュン君の突の死である。そこで「喪失」を経験した彼女は、その喪失感の意味を求めてアガルタ世界を旅をする。それで最終的に彼女が気づいた結論は「寂しかったから」である。アスナにとってこの度は「さよならを知るための旅」であり、最後にシュンくんに「さよなら」といって別れを告げる。現実世界に戻ってきた彼女は「喪失」を乗り越えて強く生きていく。

 他の二人も喪失を経験している。モリサキの場合は恋人(リサ)である。モリサキはリサを復活させるためという明確な理由のもとアガルタ世界へと降りたつが、結局リサ復活は失敗する。最後のシーンではアスナのように現実世界へは戻らずアガルタ世界をこれからも旅するようなシーンで終わっていく。シンは親と兄がいないのだが、予告の言葉から考えると、彼の喪失とは「故郷」のことである。だから帰るべき「居場所」がないのである。シンも最後はモリサキと一緒に旅をするようなシーンで終わる。

 『星を追う子ども』は新海作品でワーストと言っていいほど人気がない。「ジブリに似ている」とか「よく話の意味がわからない」などの批判がなされている。「ジブリ」は置いといて、確かに難しい作品だ。というのもこれは喪失をそれぞれ抱えた三人を肯定的に描いた作品だからだ。

 えっと思うかもしれない。とりわけモリサキは過去の喪失を乗り越えられていないような印象を受ける。しかし、アスナのように乗り越えた生き方が生き方の全てではない。喪失を抱えてなお生きるのも一つの生き方であり、それも肯定した作品を作りたいというのが新海監督の意図なのだ。だから喪失の形も三者三様であれば、喪失に対する受け入れ方も三者三様なのである。一方が乗り越えられて他方が乗り越えられていないのだとしたら、乗り越えらていない方はダメなんじゃないかと反射的に捉えてしまう。しかし。どちらも肯定するという表現にトライしたのが『星を追う子ども』だ。しかし文字を入れたりすることはできないので、アニメーションとして伝えるのはかなり難しかったのかもしれない。そこに、この映画の難解さと不評の理由があるとされている。


論考・考察・感想

はじめに

 新海誠は、おそらく、他のアニメーション作家よりもより象徴(メタファー)的な作家だと思う。

 もう少し厳密に言おう。彼は、私からすれば、メタファー的な場面やセリフを使う際に、それを他の作家よりも説明せずに、しかも本人は伝わるであろうと思っているような作家だということである。

 それが随所に見られるのかどうか、ということはここでは説明することができないが、yahoo映画のレビュー(1)で「よく分からなった」というようなコメントが多いのは、そのようなメタファー的才能が一役を担っているように思われる。

 例えば「星を追う子ども」と言う題名自体がすでにそのメタファーだ。この題名に関して、作品内では星を追っていないではないかと指摘されて、「愕然とした」と新海は語っているが(図らずも私もそう思ってしまうというちんけなミスを犯したが)、どうしてそうなったのかというと、新海からすれば「星が何のメタファーなのかというところまで一歩踏み込んで考えていただければ、それが何なのか想像してもらえるだろうと思ってた」からである(参考文献3参照)。さらにいえば「子ども」もメタファーであり、もちろんその子どもにはアスナやシンを数え入れるわけだが、大人であるモリサキも入る。「“子ども”というのは端的にアスナのことであり、シンのことではあるんですが、何かを追っている人たちのことでもあるんですよね。それこそ“星”のような、手の届かないものを追い続ける人たちのことを“子ども”って定義しているのかもしれない。」(参考文献1参照)。「星」は「手の届かないもの」のメタファーであり、「子ども」はそのような「手の届かないものを追い続けている人」のメタファーだ。モリサキはリサを蘇らせようと必死だが、それはほとんど手の届かないものであり、彼自身もその意味で「子ども」なのだ。

 このように事象をメタファー的(詩的)に使うことは当然観客に作者の意図を伝わりにくくするわけで、「でもやっぱり、人に何かを伝えるって難しいなと毎回思います」(参考文献3参照)と新海はこの度も思わざるを得ないわけだ。

 またセリフがメタファー的だというのは、あまり論理的なことに重きを置いていないということも意味している。読み物のバリエーションが増えその媒体が成熟していくなかで、細部にこだわる傾向は強まっていっている。特に漫画は顕著にそう思えるのだが、「伏線回収」や「整合性」がその作品の評価に強く反映される(『プレイボール』を読んでいた私としては特にそう思う)。この作品自体は新海の豊富な読書経験から、神話のモチーフを色々取り入れており、また「そんな細部まで・・・」と驚くぐらい細かいことに拘っていたりする(エンディングでのシンとアスナが笑い合うシーンとか、クラヴィスとスカーフの交換、シンの衣装の合わせ方の変更など)(2)。しかし、「整合性」は違和感を感じるというか、そもそもあまり気にしてないように思える。シュンは「手が届きそうだ」と言ったあと森の中へ落ちていったわけだが、普通あんな感じで落ちるだろうか(見ている時はさすがにクラヴィスだけ落ちていったのかと思った)。というかシュンはなぜ死期が近かったのだろうか(漫画版では「吐血」のシーンがあるらしい)。あれが病気だとして、それなら「地上の汚れた大気のせいで今はほとんど心を失っている」(シン)とか「地上では長くはいきられないことを覚悟で掟を破って外へ出たんだ」(シン)とかはどういう意味なのだろうか(「宿業の病」(長老)とは地上への憧れのことではないのかとこれまた私は錯覚してしまった)。イゾクはなぜアスナを連れ去って、殺さずに廃墟の闘技場のようなところに置いておいたのか。イゾクは日光で死んでしまうのだろう?さらにアガルタに来てモリサキはクラヴィスをシンに返してしまうわけだが、生き返らせるのにどうやら必要だったらしい(アガルタに来た時点ではアスナがクラヴィスのかけらを持っていることをモリサキは気づいていない)。これらに関しては、ほとんど物語としての整合性はとれていないように思える。

 これには、映画という時間の制約上端折ったという問題もある。宮台との対談で、彼はこの映画の「早いテンポ」はどうしてなのかと質問しているが(曰く「これはプロデューサーに「尺を詰めろ」とかって言われて(笑)、本当は2時間半の作品が2時間弱になってるのかな?」と思ったという)、この作品ではその「テンポの速さ」を意図的に作ったという(参考文献4参照)。また、わざと場面として挿入にしなかったこともある。曰く、都合上アスナはクラヴィスを持っていたのだからアスナの父はアガルタ人だということになるのだが、それだと「血筋ゆえに、彼女がお姫様となってしまう」(参考文献3参照)ので、あえてそのような場面を入れなかったのだという。(ということはアガルタ人も地上で長生きできるわけで、地上の空気にあまり耐えられないとかそういうわことはなさそうだ。しかしでは「地上の汚れた大気」って一体何だったのだろうか・・・)。

 これらのことを総合して考えてみた結果、新海はメタファー的な事象の使い方を結構するのだが(これはどの作家でもそうだとおもうのだが)それで伝わるでしょ?みたいな感じであまり説明しないうえに、細部のこだわり(風景など)も強いために、整合性にあまりこだわっていない、という作家だと思ったわけである(あるいはこだわっているがこちらは理解できないか)。つまり詩的な論理があって、それは私的でもあるわけでなかなか人に伝わらないのだが、新海の頭の中では、多分素朴に、伝わるでしょ?みたいな感じになっている。しかしながら詩的な整合性は論理的な整合性とは異なるわけで、そこで観客の一定層は違和感を感じるのだが、そういったことよりも、むしろ細部へのこだわりが先行している。景色がやたらきれいなのもそういうことにつながると思う。そしてメタファーへのこだわりも先行している。違和感の一つはそこからくるのだと思う。

喪失の物語

 解説でも述べたが、この話の大枠は非常に簡単だ。新海自身も認めるように、この話は「喪失」がテーマだ(参考文献2参照)。そもそも予告に全てが現れている。「喪失をまだそれと分からぬ少女」アスナ、「喪失を決して受け入れぬ大人」モリサキ、「居場所を求める異国の少年」シンが旅する。そしてシュン曰く、この旅は「さよならを知るための旅」である。非常に簡明だ。

 まず主人公にアスナがいて彼女が「喪失」を経験する。そしてよく自分でも分からないがその喪失感の意味を求めてアガルタ世界を旅をする。それで最終的に彼女が気づいた結論は「寂しかったから」である。最後にシュンくんに「さよなら」といって別れを告げ、現実世界に戻ってきて、アスナは「喪失」を乗り越えて生きていく。

 他の二人も喪失を経験している。シンは親と兄がいないし、モリサキは恋人(リサ)がいない。皆喪失を抱えて旅をしていく(「皆、賢明に、救いを求めて旅に出たのだ。誰に止めることができよう」(アモロートの老人の言葉))。それぞれがそれぞれの喪失と向き合いながら(シンにはアガルタの世界観(大いなる運命を受け入れよ的な何か)に対する抵抗というモチーフもある)。

「物語」としてのモリサキ

 さてモリサキであるが、これは実はとても重要な人物である。「眠れないクマのプーのお布団」「あまりにも届いているのに届かない(はずの)関係ーー『君の名は。』について」によれば、モリサキは「直進する物語」の構成要因である。アスナはそれに対してそれに対抗するものとしての「非物語」的な存在であり、「「物語」と「非物語」の緊張感」こそが新海作品の特徴だといえる。これは全作品に見られる対称軸だ。この作品では新海は別の対象軸も与えている。つまり囚われながら生き続ける人という軸である。新海曰く、モリサキみたいな生き方を否定したくない。だからこそ、地上に帰っていかず、盲目のまま旅を続けるのだ。これは否定的な表現なのではなく新海なりの肯定表現なのである(参考文献1参照)。

 これは彼なりの「ただ世間的にウケるけでの作品で終わりたくない」という意識の現れなのだが、そのようなハッピエンド/バットエンドの枠組みでは収まりきらない終わり方をする本作品を「眠れないくまのプーのお布団」の主は最高傑作と位置づけている(『君の名は』は単なるハッピーエンド/バットエンドの枠組みに収束させてしまっている)。

さまよえるモリサキ:モリサキの孤独・愛・おだやかさについて

 しかし、私が興味を引いたのはモリサキの意味不明さである。モリサキにはなんというか、表現の限界というか、謎めいた、どっちつかずの、理解不能だが、どういうわけか私を引きつけるような性質をもっている。

 モリサキは、一言でいってしまうと、矛盾した人間なのだ。

 モリサキは物語としては導き手として、象徴化されたものとしてまず必要だ。アスカの導き手となるために彼はリサを〈物語の進行上〉追い求めなければならない。だから彼はアガルタについてケツァルトルの横を通るときに

存外役に立つかも知れんな。

ーーモリサキの言葉

 と思うわけだ。彼の目的はアスナと一緒に旅をすることではなく、リサの復活だからである。

 にもかかわらず、アスナをほとんど、というか一度も利用しない(召使っぽく使役しているようにもみえるが、利用している感じではない)。それどころか、これも不思議なのだが、アスナを生徒としてつまり励ますべき人間として接すると同時に、一人前の対等な人間としても接するのである(「アスナがここにいるのはアスナの意志だ」)(しかし、どうしてクラヴィスをアスナに持たしておくのだろうか。これもまた新海的な崩壊に見える。少なくとも論理的には分からない。旅の友ということとか)。さらに、もはや娘に感じる愛情のようなものさえある可能性もある。「お父さんみたい」とアスナに言われ、

馬鹿なこと言うな。

ーーモリサキの言葉

 と照れ隠しみたいに切り返すわけだし、明確に娘のように感じていることを示すシーンはほとんどないにせよ、利用できるだけ利用しようという腹黒い心が読み取れるシーンもない。実際、フィニス・テラに到着して、断崖絶壁を降りられないアスナをなぜがモリサキは鼓舞する。そして

アスナ、私は君に生きてほしいと思っている。勝手かも知れないが、できれば、それを覚えておいてくれ。

ーーモリサキの言葉

 「存外役に立つかも知れんな」と不敵な笑みを浮かべて呟いた人間が思いつける言葉ではないと思うのだが、モリサキはどういうわけか素朴で、純粋である。

 フィニス・テラの底にたどり着いて、シャクナビマーナに語る場面では、

10年間ひと時たりとも忘れたことはない。かつて君の死を乗り越えようと努力もした。だが、ダメなんだ、君のいない世界に意味を見出すことはできない。

ーーモリサキの言葉

というわけだが、彼は実は死を乗り越えようと努力していたことがここで明らかとなる。要するに、狂気的なのではなくなんか忘れられないので復活させようとそういう感じなのである。それで「魂を入れる肉の器」が必要となったときに

アスナ、君に、この場に現れて欲しくはなかった。

ーーモリサキの言葉

 と涙を流しながら言う。情に厚い。厚すぎる。ここに何か胡散臭さを私は感じない。本当に来て欲しくなかったのだと思う。つまり、モリサキは苦しかったのだと思う。

 そして、アスナを肉の器とすることでリサが復活する。彼としてはそれで一件落着というか目的は達成されたはずで、それでうれしいということで終わりでもいいし、それがあの断崖絶壁を降りていったモリサキと降りられなかったアスナの明確な差だったはずである。

 しかしである。シンがクラヴィスを壊そうとしているところに(壊すとアスナは生き返る)、ナイフを取りだして脅迫しにいったかと思いきやである、

もうやめてくれ、リサには罪はない。

ーーモリサキの言葉

やめてくれ?・・・これは・・・嘆願というものである。命令ではなく嘆願である。もちろんこの程度に拘束力はないわけで「生きている方が大事だ!」と言われ、アスナが復活する。死ぬ気もないだろうが「殺してくれ」とシンにお願いしてみるわけだが、「喪失を抱えてなお生きろと声が聞こえた、お前にも声がきこえてたはずだ」と結構無慈悲な言葉をシンから返され、うずくまる。

 なぜ強硬策にモリサキは打って出なかっただろうか。あれではシンに判断を委ねているとほとんど同じことである。

 もちろん、リサ復活では物語的に無理がある。これは物語の限界だ。がしかし、たとえば一瞬の隙をついてシンがクラヴィスを壊そうとする。それに対して「やめろーーーー」と叫ぶ。ありきたりで、最も納得のいくプロットだと思う。しかしそうじゃない。もうやめてくれ?

 おそらくその後は絶望していることだろう、リサはまたしても冥府へと去っていったのだから。しかも盲目という代償つきである。しかし皆さんは覚えているだろうか。エンディングが流れ、シンとアスナが笑い合っているのを見て、なんと穏やかで菩薩のような笑みを返していることか(目は見えていないが)。あんな穏やかな表情を普通つくれるのだろうか。彼はリサの死を受け入れたということなのだろうか。そもそも生き返らせる気はあったのだろうか。茶番だったのだろうか。

 モリサキはアガルタに残る。多分シンと旅するのだろう(「お前も声が聞こえていたはずだ」は辛辣だったがもしかしたらこれでもアルカンジェリという呼称から「お前」への格上げなのかもしれない)。一体何をするのだろうか。またリサを復活させようとでもするのだろうか。しかしあんな菩薩のような表情をできる人がいまだに囚われているといえるのだろうか。そもそも、何度もいうが、明らかに、そこまで、リサの復活に、こだわっていないのだ

 とにかくモリサキは謎だ。彼もある意味で非物語的な人物だ。というのも、意味が分からないからだ。この意味の分からなさは新海が詩的だということにあると思うし、その詩的さが私と隔たっているからだ。それゆえモリサキはすこし興味を惹かれる人物なのである。

 モリサキの何に引かれるのだろうか。思うにモリサキが一番苦しんでいるように見える点かもしれない。「寂しかった」のはモリサキも同じである。モリサキはリサの死でそれを隠している。リサの復活のためにアガルタに来たのではなく、彼も「寂しかった」からアガルタに来たのだ(実際新海曰く、モリサキはリサが生き返らないことを知っているらしい(参考文献4参照))。

 モリサキは寂しさと愛に溢れている。というか全ての情に溢れている。つまり彼は常にはざまにいるのだ。それなのにそれを隠している人間なのである。

終わりに

 率直な感想を言ってしまうと、一番美しかったのは”Hello goodbye & Hello”だった(息を吸う音にもこだわったらしい)。そこは新海監督の美的センスに感動した(しかも本当に歌詞がすべてを言い過ぎており、新海監督が危惧した通り、これでまあ全てよしなのではないか、と言う感じになってしまった(参考文献5参照))。

 あと「旅」というモチーフが私は好きである。「孤独」と繋がっているからかもしれない。だから「居場所など、もとよりない」(予告を見られたし)という言葉は惹かれたし、最後にモリサキとシンが放浪の旅に出ようとする場面も好きである。

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(1)https://movies.yahoo.co.jp/movie/338303/review/

(2)「シンの衣装はずっと日本の着物の合わせと逆合わせだったんですね。死人合わせといって、亡くなった人に着させる合わせ方でアガルタの人は服を着ているんですが、エンディングを迎えたシンは普通の合わせ方で着ています。エンディングを迎えて、また再び生き始めたという気持ちを込めたんですが・・・」(参考文献3参照)

参考文献

1.https://cinema.pia.co.jp/interviews/155950/180/(2023年1月1日現在アクセス不可)(『星を追う子ども』新海誠インタビュー)

2.http://enterjam.com/?p=20165(映画『星を追う子ども』新海誠監督インタビュー)

3.https://www.cwfilms.jp/hoshi-o-kodomo/report_03.php(『星を追う子ども』公式サイト。『星を追う子ども』大ヒット御礼舞台挨拶)

4.https://www.cwfilms.jp/hoshi-o-kodomo/report_06.php(『星を追う子ども』公式サイト。『星を追う子ども』スペシャルナイトvol. 4)

5.https://www.cwfilms.jp/hoshi-o-kodomo/special_comment02.php(『星を追う子ども』公式サイト。新海誠監督インタビューコメント2)

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