新海誠『星を追う子ども』【考察】- モリサキの孤独・愛・寂しさについて

新海誠『星を追う子ども』【考察】- モリサキの孤独・愛・寂しさについて

はじめに

 新海誠は、おそらく、他のアニメーション作家よりもより象徴(メタファー)的な作家だと思う。

 もう少し厳密に言おう。彼は、私からすれば、メタファー的な場面やセリフを使う際に、それを他の作家よりも説明せずに、しかも本人は伝わるであろうと思っているような作家だということである。

 それが随所に見られるのかどうか、ということはここでは説明することができないが、yahoo映画のレビュー(1)でよく分からなった系のコメントが多いのは、そのようなメタファー的才能が一役を担っているように思われる。

 例えば「星を追う子ども」と言う題名自体がすでにそのメタファーだ。この題名に関して作品内では星を追っていないではないかと指摘されて「愕然とした」と新海は語っているが(図らずも私もそう思ってしまうというチンケなミスを犯したが)、どうしてそうなったのかというと、新海からすれば「星が何のメタファーなのかというところまで一歩踏み込んで考えていただければ、それが何なのか想像してもらえるだろうと思ってた」からである(参考文献3参照)。さらにいえば「子ども」もメタファーであり、もちろんこの子どもにはアスナやシンを数え入れるわけだが、大人であるモリサキも入る。「“子ども”というのは端的にアスナのことであり、シンのことではあるんですが、何かを追っている人たちのことでもあるんですよね。それこそ“星”のような、手の届かないものを追い続ける人たちのことを“子ども”って定義しているのかもしれない。」(参考文献1参照)。「星」は「手の届かないもの」のメタファーであり、「子ども」はそのような「手の届かないものを追い続けている人」のメタファーだ。モリサキはリサを蘇らせようと必死だが、それはほとんど手の届かないものであり、彼自身もその意味で「子ども」なのだ。

 このように事象をメタファー的(詩的)に使うことは当然観客に作者の意図を伝わりにくくするわけだが、「でもやっぱり、人に何かを伝えるって難しいなと毎回思います」(参考文献3参照)と新海はこの度も思わざるを得ないわけだ。

 またセリフがメタファー的だというのはあまり論理的なことに重きを置いていないということも意味している可能性がある。読み物のバリエーションが増えその媒体が成熟していくなかで細部にこだわる傾向は強まっていっている。特に漫画は顕著にそう思えるのだが、「伏線回収」や「整合性」がその作品の評価に強く反映される(『プレイボール』を読んでいた私としては特にそう思う)。この作品自体は新海の豊富な読書経験から神話のモチーフを色々取り入れており、またそんなディテールまで注意するのかと驚くぐらい変なところに拘っていたりする(エンディングでのシンとアスナが笑い合うシーンとか、クラヴィスとスカーフの交換、シンの衣装の合わせ方の変更など)(2)。しかし「整合性」は違和感を感じるというか、そもそもあまり気にしてないように思える。シュンは「手が届きそうだ」と言った後森の中へ落ちていったわけだが、普通あんな感じで落ちるだろうか(見ている時はさすがにクラヴィスだけ落ちていったのかと思った)。というかシュンはなぜ死期が近かったのだろうか(漫画版では「吐血」のシーンがあるらしい)。あれが病気だとして、それなら「地上の汚れた大気のせいで今はほとんど心を失っている」(シン)とか「地上では長くはいきられないことを覚悟で掟を破って外へ出たんだ」(シン)とかはどう言う意味なのだろうか(「宿業の病」(長老)とは地上への憧れのことではないのかとこれまた私は錯覚してしまった)。イゾクはなぜアスナを連れ去って、殺さずに廃墟の闘技場のようなところに置いておいたのか。イゾクは日光で死んでしまうのだろう?さらにアガルタに来てモリサキはクラヴィスをシンに返してしまうわけだが、生き返らせるのにどうやら必要だったらしいことなど(アガルタに来た時点ではアスナがクラヴィスのかけらを持っていることをモリサキは気づいていない)。これらに関してはほとんど物語の場面場面での整合性は壊れているように思える。

 これには映画という時間的制約上端折ったという問題もある。宮台との対談で彼はこの映画の「早いテンポ」はどうしてなのかと質問しているが(曰く「これはプロデューサーに「尺を詰めろ」とかって言われて(笑)、本当は2時間半の作品が2時間弱になってるのかな?」と思ったという)、この作品ではその「テンポの速さ」を意図的に作ったという(参考文献4参照)。またわざと場面として挿入にしなかったこともある。曰く、都合上アスナはクラヴィスを持っていたのだからアスナの父はアガルタ人だということになるのだが、それだと「血筋ゆえに、彼女がお姫様となってしまう」(参考文献3参照)ので、あえてそのような場面を入れなかったのだという。(ということはアガルタ人も地上で長生きできるわけで、地上の空気にあまり耐えられないとかそういうわことはなさそうだ。しかしでは「地上の汚れた大気」って一体何だったのだろうか・・・)。大事なのは事実よりも理念なわけである。

 こういうのをいろいろ総合して考えてみた結果、新海はあまりメタファー的な事象の使い方を結構するのだが(これはどの作家でもそうだとおもうのだが)それで伝わるでしょ?みたいな感じであまり説明しないうえに、細部のこだわり(風景など)も強いために、整合性にあまりこだわっていないような作家だと思ったわけである(あるいはこだわっているがこちらは理解できないか)。つまり詩的な論理があって、それは私的でもあるわけでなかなか人に伝わらないのだが、新海さんの頭の中では、多分素朴に、伝わるでしょ?みたいな感じになっている。しかしながら詩的な整合性は論理的な整合性とは異なるわけで、そこで観客の一定層は違和感を感じるのだが、そこらへんにそこまでこだわっていない。むしろ細部へのこだわりが先行している。景色がやたらきれいなのもそういうことにつながると思う。そしてメタファーへのこだわりも先行している。違和感の一つはそこからくると思う。

喪失の物語

 しかしこの話の大枠は非常に簡単だ。新海自身がいうようにそれは「喪失」がテーマだ(参考文献2参照)。そもそも予告に全てが現れている。「喪失をまだそれと分からぬ少女」アスナ、「喪失を決して受け入れぬ大人」モリサキ、「居場所を求める異国の少年」シンが旅する。そしてシュン曰く、この旅は「さよならを知るための旅」である。非常に簡明だ。

 まず主人公にアスナがいて彼女が「喪失」を経験する。そしてよく自分でも分からないがその喪失感の意味を求めてアガルタ世界を旅をする。それで最終的に彼女が気づいた結論は「寂しかったから」である。最後にシュンくんに「さよなら」といって別れを告げ、現実世界に戻ってきて、アスナは「喪失」を乗り越えて生きていく。

 他の二人も喪失を経験している。シンは親と兄がいないし、モリサキは恋人(リサ)がいない。皆喪失を抱えて旅をしていく(「皆、賢明に、救いを求めて旅に出たのだ。誰に止めることができよう」(アモロートの老人の言葉))。それぞれがそれぞれの喪失と向き合いながら(シンにはアガルタの世界観(大いなる運命を受け入れよ的な何か)に対する抵抗というモチーフもある)。

「物語」としてのモリサキ

 さてモリサキであるが、これは実はとても重要な人物である。「眠れないクマのプーのお布団」「あまりにも届いているのに届かない(はずの)関係ーー『君の名は。』について」によれば、モリサキは「直進する物語」の構成要因である。アスナはそれに対してそれに対抗するものとしての「非物語」的な存在であり、「「物語」と「非物語」の緊張感」こそが新海作品の特徴だといえる。これは全作品に見られる対称軸だ。この作品では新海は別の対象軸も与えている。つまり囚われながら生き続ける人という軸である。新海曰く、モリサキみたいな生き方を否定したくない。だからこそ、地上に帰っていかず、盲目のまま旅を続けるのだ。これは否定的な表現なのではなく新海なりの肯定表現なのである(参考文献1参照)。

 これは彼なりの「ただ世間的にウケるけでの作品で終わりたくない」という意識の現れなのだが、そのようなハッピエンド/バットエンドの枠組みでは収まりきらない終わり方をする本作品を「眠れないくまのプーのお布団」の主は最高傑作と位置付けている(『君の名は』は単なるハッピーエンド/バットエンドの枠組みに収束させてしまっている)。

さまよえるモリサキ

 しかし僕が興味を引いたのはモリサキの意味不明さである。モリサキにはなんというか、表現の限界というか、謎めいた、どっちつかずの、そして理解不能だが、どういうわけか私を引きつけるような性質をもっている。

 モリサキは、一言でいってしまうと、複雑な人間なのだ。というか謎なのだ。

 モリサキは物語としては導き手として象徴化されたものとしてまず必要だ。アスカの導き手となるために彼はリサを物語の進行上追い求めなければならない。だから彼はアガルタについてケツァルトルの横を通るときに

存外役に立つかも知れんな。

ーーモリサキの言葉

 と思うわけだ。彼の目的はアスナと一緒に旅をすることではなく、リサの復活だからである。

 にもかかわらず(これもなんかプロットの新海的な崩壊な気がするのだが)、アスナをほとんど、というか一度も利用しない(召使っぽく使役しているようにもみえるが利用している感じではない)。それどころか、これも不思議なのだが、アスナを生徒としてつまり励ますべき人間として扱うと同時に、一人前の対等な人間としても扱うのである(「アスナがここにいるのはアスナの意志だ」)(しかし、どうしてクラヴィスをアスナに持たしておくのだろうか。これもまた新海的な崩壊に見える。少なくとも論理的には分からない。旅の友ということとか)。さらにもはや娘に感じる愛情のようなものさえある可能性もある。「お父さんみたい」とアスナに言われ、

馬鹿なこと言うな。

ーーモリサキの言葉

 と切り返すわけだし、明確に娘のように感じていることを示すシーンもまったくないわけで、そのように感じていたどうなのかは分からないが、利用できるだけ利用しようと思っていたわけでもあるまい。実際フィニス・テラについて断崖絶壁を降りられないアスナをなぜがモリサキは鼓舞する。そして

アスナ、私は君に生きてほしいと思っている。勝手かも知れないが、できれば、それを覚えておいてくれ。

ーーモリサキの言葉

 「存外役に立つかも知れんな」と不敵な笑みを浮かべて呟いた人間が思いつける言葉ではないと思うのだが、モリサキはどういうわけか素朴で、純粋である。

 フィニス・テラの底にたどり着いて、シャクナビマーナに語る場面では、

10年間ひと時たりとも忘れたことはない。かつて君の死を乗り越えようと努力もした。だが、ダメなんだ、君のいない世界に意味を見出すことはできない。

ーーモリサキの言葉

というわけだが、彼は実は努力していたことがここで明らかとなる。要するに狂気的なのではなく、なんか忘れられないので復活させようとそういう感じなのである。それで「魂を入れる肉の器」が必要となったときに

アスナ、君に、この場に現れて欲しくはなかった。

ーーモリサキの言葉

 と涙を流しながら言う。情に厚い。厚すぎる。ここに何か胡散臭さを私は感じない。本当に来て欲しくなかったのだと思う。つまりモリサキは苦しかったのだと思う。あの涙に私は胡散臭さを感じない。

 そしてアスナを肉の器とすることでリサが復活する。彼としてはそれで一件落着というか、目的は達成されたはずで、本当にそれでうれしいということで終わりでもいいし、それがあの断崖絶壁を降りていったモリサキと降りられなかったアスナの明確な差だったはずである。

 しかしである。シンがクラヴィスを壊そうとしているところに(壊すとアスナは生き返る)、ナイフを取りだして脅迫しにいったかと思いきやである、

もうやめてくれ、リサには罪はない。

ーーモリサキの言葉

やめてくれ?・・・これは・・・嘆願というものである。命令ではなく嘆願である。もちろんこんなのに拘束力はないわけで「生きている方が大事だ!」と叫ばれ、アスナが復活する。死ぬ気もないだろうが「殺してくれ」とシンにお願いしてみるわけだが、「喪失を抱えてなお生きろと声が聞こえた、お前にも声がきこてたはずだ」と結構無慈悲な言葉をシンから返されうずくまる。

 なぜ強硬策にモリサキは打って出なかっただろうか。あれではシンに判断を委ねているとほとんど同じことである。

 もちろん、リサ復活では物語的に無理がある。これは物語の限界だ。がしかし、たとえば一瞬の隙をついてシンがクラヴィスを壊そうとする。それに対して「やめろーーーー」と叫ぶ。ありきたりで、最も納得のいくプロットだと思う。しかしそうじゃない。もうやめてくれ?

 おそらくその後は絶望していることだろう、リサはまたしても冥府へと去っていったのだから。しかも盲目という代償つきである。しかし皆さんは覚えているだろうか。エンディングが流れ、シンとアスナが笑い合っているのを見て、なんと穏やかで菩薩のような笑みを返していることか(目は見えてないだろうが)。あんな穏やかな表情を普通つくれるのだろうか。彼はリサの死を受け入れたと言うことなのだろうか。そもそも生き返らせる気はあったのだろうか。物語的茶番だったのだろうか。

 モリサキはアガルタに残る。多分シンと旅するのだろう(「お前も声が聞こえていたはずだ」は辛辣だったがもしかしたらこれでもアルカンジェリという呼称から「お前」への格上げなのかもしれない)。一体何をするのだろうか。またリサを復活させようとでもするのだろうか。しかしあんな菩薩のような表情をできる人がいまだに囚われているといえるのだろうか。そもそも、何度もいうが、明らかに、そこまで、リサの復活に、こだわっていないのだ。

 とにかくモリサキは謎だ。彼もある意味で非物語的な人物だ。というのも意味が分からないからだ。この意味の分からなさは新海が詩的だと言うことにあると思うし、その詩的さが私と隔たっているからだ。それゆえモリサキはすこし興味を惹かれる人物なのである。

 モリサキの何に引かれるのだろうか。思うにモリサキが一番苦しんでいるように見える点かも知れない。「寂しかった」のはモリサキも同じである。モリサキはリサの死でそれを隠している。リサの復活のためにアガルタに来たのではなく、彼も「寂しかった」からアガルタに来たのだ(実際新海曰く、モリサキはリサが生き返らないことを知っているらしい(参考文献4参照))。

 モリサキは寂しさと愛に溢れている。というか全ての情に溢れている。つまり彼は常にはざまにいるのだ。それなのにそれを隠している。そんな気がする人物でした。

終わりに

 率直な感想を言ってしまうと、一番美しかったのはHello goodbye & Helloでした(息を吸う音にもこだわったらしい)。そこは新海監督の美的センスに感動しました(しかも本当に歌詞がすべてを言い過ぎており、新海監督が危惧した通り、これでまあ全てよしなのではないか、と言う感じになってしまった(参考文献5参照))。

 あと「旅」というモチーフが私は好きっぽいですね。「孤独」とつながるからかも知れません。だから「居場所など、もとよりない」(予告を見られたし)に惹かれますし、最後にモリサキとシンが放浪の旅に出ようとする場面に、何か「良い印象」を感じるのかも知れません。

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(1)https://movies.yahoo.co.jp/movie/338303/review/

(2)「シンの衣装はずっと日本の着物の合わせと逆合わせだったんですね。死人合わせといって、亡くなった人に着させる合わせ方でアガルタの人は服を着ているんですが、エンディングを迎えたシンは普通の合わせ方で着ています。エンディングを迎えて、また再び生き始めたという気持ちを込めたんですが・・・」(参考文献3参照)

参考文献

1.https://cinema.pia.co.jp/interviews/155950/180/(『星を追う子ども』新海誠インタビュー)

2.http://enterjam.com/?p=20165(映画『星を追う子ども』新海誠監督インタビュー)

3.https://www.cwfilms.jp/hoshi-o-kodomo/report_03.php(『星を追う子ども』公式サイト。『星を追う子ども』大ヒット御礼舞台挨拶)

4.https://www.cwfilms.jp/hoshi-o-kodomo/report_06.php(『星を追う子ども』公式サイト。『星を追う子ども』スペシャルナイトvol. 4)

5.https://www.cwfilms.jp/hoshi-o-kodomo/special_comment02.php(『星を追う子ども』公式サイト。新海誠監督インタビューコメント2)

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