重心と疾走 『君たちはどう生きるか』随想

重心と疾走 『君たちはどう生きるか』随想

「元来、重力の法則というのは、地球上の物体についての法則だろう。ところが、落ちる物体をぐんぐん地面から離していって、月のあたりまでもっていったとすると、その物体と地球との関係は、もう地上のものじゃあない。もうそれは天界のことになってしまう。つまり、天体と天体との関係に等しくなるわけさ。」

― 吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(1937) 第3章

1. 宮﨑駿と重心

 サイレンの音で目覚めた主人公・眞人(まひと)は、二階に駆け上がり、駆け下りる。上りは階段に手をついて四足歩行の動物のように、下りは大股で一段ずつ踏んで。母のいる病院から火の手が上がっているのを目視した眞人は、父の制止の言葉も聞かず、しかし律儀に着替えは済ませて、街へ飛び出していく。火から逃げまどう人々とぶつかりながら、母の元を目指す。宮﨑駿のアニメーション映画を観てきた人であれば、アバンタイトルに配置されたこれらの走るシーンを目にして、過去作の見事な場面を想起することができるだろう。前者は、『となりのトトロ』(1988)のメイが新居の2階にえっちらおっちら上り、まっくろくろすけを「パチン!」と両手で捕まえるやドシンドシンとすごい速さで下りてくる場面。後者は、『風立ちぬ』(2013)冒頭で起きる関東大震災の群衆シーン。最新作『君たちはどう生きるか』(2023)の開始数分もしないうちにスクリーンに映し出される眞人の疾走には、いわば宮﨑駿のキャリア全てが凝縮している。そして眞人の見せる疾走のすべてが、「階段」や「人混み」という行く手を阻む障害物に対し、自分の重心を移動させることで乗り越えて次に行くという形で描かれているのは、決して偶然ではない。重心の移動こそが、宮﨑駿が生み出してきたアニメーションの快楽の中心を占めるものだからである。

『となりのトトロ』冒頭、これも宮﨑駿の重心への持続する関心がよくわかるシーン

 『となりのトトロ』が圧倒的に優れていたのは、雨の中で傘をさしながらメイを背中におぶっているサツキが、眠ってしまったメイを(一度でなく)二度担ぎ上げる動作が、完璧なリアリティーを生み出したからではなかったか。ネコバスは大人たちの目には見えないからとか最後にチェシャ猫のように消えてしまうからとかの設定で魅惑的なのではなく、サツキが座った時に彼女の体重を受け止めてふんわりと沈む、あの本当に生き物の一部としか思えない「ソファ」の脈打ちこそが魅惑の源泉ではないだろうか。『風立ちぬ』の飛行シーンが素晴らしいことは、少年時代の二郎がカプローニの飛行機に乗せてもらい、カプローニと二郎の二人が風の抵抗を受けながら翼の上を端まで歩く、冒頭の夢のシーンで決定づけられてはいなかったか。『風立ちぬ』が、堀辰雄と堀越二郎との人生を明示的に参照していながらも宮﨑駿の自己を投影した映画だとも観客に受け取られるのは何よりも、死を前にしている菜穂子になお「5匁くらい軽くなりそうだ」「30本で、150匁だ」と語りかけるなど、零戦の重量にこだわり続ける二郎の異形性が宮﨑本人の重心への執着とオーバーラップするからではないか。

『風立ちぬ』 夢の場面でも人や物は重心を持っている
『風の谷のナウシカ』 自らの重みに崩れ落ちていく巨神兵
『紅の豚』

 もちろんその2作品にとどまりはしない。『風の谷のナウシカ』(1984)の液状化して崩れ落ちる巨神兵! 『天空の城ラピュタ』(1986)の崩落する階段を駆け上がるパズーと「ゴミのように」落ちていく兵士達! 『魔女の宅急便』(1989)のお届け物が重すぎてしなりながらも飛ぶホウキ!(キキは作中何度も荷物の重さを測る) 『紅の豚』(1992)の重いパンチを顔面に受けて海中に倒れるポルコの肉体! 『もののけ姫』(1997)の足でタタラを踏み込む女たちとアシタカ! 『千と千尋の神隠し』(2001)の湯屋のあらゆる調度品を両足で踏み散らしながら千尋を追うカオナシ! 『ハウルの動く城』(2004)の魔力が弱まって崩れ落ちながらも二足で歩き続ける城! そして、ソウスケが乗り込むとその重みで喫水線まで沈み込む、『崖の上のポニョ』(2008)のポンポン蒸気船! これらの「重さ」を手描きのアニメーションで表象する能力は、犬の絵一つ満足に描けない私が語るのがおこがましくなるほど優れている。宮﨑アニメを褒める際に人はすぐ飛行シーンに言及してしまうが、飛行シーンは重力が働き人や物に固有の重心が定まっている(と観客が信じることのできる)世界だからこそ、それから逃れる興奮を生む。ルパンが自分に重さなどないかのように屋根から屋根へと飛び移る『ルパン三世 カリオストロの城』(1979)を最後に、おそらく宮﨑は、ファンタジックな世界観をキープしながらも重心への向き合い方を変更した。象徴的な例が、『ハウルの動く城』にある「階段競争」だ。荒地の魔女は、王宮内に立ち入る時に魔法を禁じられ、輿をかつがせていた形代たちも重心を失って無に帰ってしまう。荒地の魔女は、肥満した身体を自らの力で持ち上げ、王宮の階段を一段一段登っていかねばならない。ファンタジーの世界の中でも、ソフィーにも荒地の魔女にも平等に、重力の法則が働いていることが表象されている。

このことによって、アニメーションの中で人や物は「現実以上にリアルな」存在感を放ち、彼の作品の動きは現実が生み出す以上の視覚的快楽で世界中を魅了することになった。

『もののけ姫』 たたらを踏む
『崖の上のポニョ』 この船の傾き!

 アニメーションは人物の性格を身ぶりで描く。『君たちはどう生きるか』の眞人に与えられた身ぶりは、序盤、初対面の人に無言で素早く頭を下げることである。眞人はその動作一つ、重心の下方移動一つで、母・ヒサコを亡くし新しい母と接さねばならない心の屈折を表現する。しかも新しい母はヒサコの妹・夏子という複雑な状況。夏子は、自らの体重を召使が引く人力車に委ねて登場する。彼女が人力車から降りる瞬間のきしみや地面からの反発は、ここぞとばかり周到に表現される。彼女の重みには、「重いぞ」と手渡されるアタッシュケースが象徴する、再婚相手に母の妹を選びおった父がもたらす精神的な重さと、また人力車の上で眞人の手をとり膨らみを触らせて確かめさせさえする、お腹の中にいる赤ん坊の物理的な重さとが加わっている。夏子が乗ると、眞人が乗った人力車は重みでそちら側にかしぐ。眞人と夏子との間の不安定な関係が主題の一つとなるだろうことは、この止まった人力車の揺れで既に予告されている。

 母を救えなかった罪悪感を抱く少年が、1年が過ぎてもまだ母の死を乗り越えられず(母は幻想に現れて「マヒト、助けて」と救いを求めてくる)、対照的に母を置いて進んで行く周囲に対し異和の念を持つのは当然だろう。父はよりによって母の妹を新しい妻に迎え、早々と子までももうけている。父は何を考えているのか?あれが自分にとっての新しい母なのか?いや、断じて母ではない!それでいて、夏子は実の母に生き写しで母よりも若く、自分に腹を触らせたり父の帰りを接吻で出迎えたりするため、思春期の男子として魅惑を感じてしまう部分もあるに違いない(父と夏子の接吻を二階から盗み見る眞人は、再び「四つ足」で歩き部屋に戻るが、これは彼の性欲に動かされる「獣」の要素を暗示しているとも解釈できる)。眞人は夏子に魅惑を感じながらも感じてはいけない、母と認めなければいけないのに認められない、といういくつものジレンマの真っただ中にある。彼が後に、「下」の世界で出会うキリコやヒミに夏子との関係を問われるたび、(「母」や「継母」でなく)「お父さんが好きな人」だと説明し続けるのは、彼の鬱屈をストレートに示している。

夏子の表情 彼女は眞人のことをどう思っているのだろうか

 一方で、夏子はどうだろう。姉が死に、姉の夫を愛するというやましさ。姉の子(=眞人)のことも、可愛がらなくてはならない。少なくとも、「良い母親」を演じきらなくてはならない。ところが、眞人はヒサコの記憶に縛られて自分には心を閉ざし、屋敷での生活にも馴染もうとしない。夏子のいる場面ではないが、戦時の潤沢とはとうてい言えない食材をやりくりして大根飯を出されれば「おいしくない」と不平を言う(ヒミと話す場面で観客にもわかるように、眞人の母は眞人にパンを焼いてあげていたようだ)。自分は妊娠していて、つわりもひどい。眞人が大ケガをして帰ったと聞けば「お姉様に申し訳ない」(夏子のセリフ)し、関係を変えようと「会いたい」と人づてに伝えて部屋に呼んでも眞人はそっけない態度で帰ってしまう…。夏子は屋敷に仕えるお婆さんたちに「お嬢様」とも「奥様」とも呼ばれており、「娘」と「母」の両面を持ち揺れ動いていることが示されている。眞人視点の本作で一番見えづらい部分ではあるのだが、実は夏子もジレンマに苦しんでいたのだ。

 眞人と夏子、現実との調和に苦しむ二人は、ともに「下」の世界に引き寄せられる。まず眞人の元に不気味なアオサギが現れてヒサコが生きていると告げ、魚たちやカエルたちとともに眞人を誘い込もうとする(本作最高のシーン!)。夏子は森の中に消えていき、「下」の世界へと入っていく。これらから、「下」の世界は、登場人物が現実世界でかかえる罪悪感ややましさから逃れるための場所、と一応位置づけられる。だから、産屋に籠る夏子を助けに行った眞人は、夏子に「あなたなんて大嫌い!」と言われるのだ。出産に集中したい夏子の心を、視界に入れただけでもっともかき乱すのが眞人の存在なのだから(という読解と別に、「下」の世界で眞人が出会う夏子は夏子本人ではなく、眞人が夏子に対し抱いているやましさの投影だという解釈も成り立つだろう)。

 「下」の世界は不気味な力に統べられている。しかし、観客はなぜ絵を見てそれを感じることができるのか?魔力の働きが、重心の下方移動として可視化されているからだ。「下」の世界からの使徒アオサギは、重力に逆らって飛翔している時はただの鳥に見えるが、降り立つ瞬間から重力に束縛される。その動きは、塔の窓の上部に止まり頭から落ちて尻を抜くという異様な姿で塔の窓を通ったり、小男の姿から顔を腹に呑み込んでアオサギの姿に戻ったり、重心が下に落ちる運動である(アオサギによるこの二つの運動のアニメーションは、その不気味さで文句なしに本作の白眉である)。そう考えると、小男の姿となったアオサギが重力に抵抗し眞人とヒミを落とさず飛び続ける、という運動を、ラストで皆が現実世界へ帰るための重要な一歩としていることは、作劇上の理に適っている。

 それだけではない。アオサギを倒すために眞人が持つ木の棒は、握ったとたん粉々になり落下してしまう。塔の内部の煉獄のような部屋で、アオサギは眞人とキリコ(この時はお婆さん)に横たわる母を見せるが、母は粘性のある液体のようにゆっくりと下に垂れ、原型を保てない。その煉獄から、眞人とキリコは液状化する床に足を取られ、ゆっくりと、そして次第に速く、落下してゆく(落下シーンではフェデリコ・フェリーニ監督の映画『8 1/2』(1963)冒頭部と酷似した足と海の映る画角のカットが挿入され、以降の展開が眞人の生み出す幻想であることが強く示唆される)。重心を重力の影響から解放できているのはワラワラたちだけで、彼らは浮遊して「上」の世界に行けば生命として生まれるらしい、例外的に祝福された存在だ。彼らを食らい「下」にとどめるペリカンの長は、「下」の世界を呪詛し、傷つき朽ちた身を地面に倒して死んでゆく。

重力に耐えかね、倒れるペリカン
『8 1/2』冒頭

 そして大団円においては、大叔父がバランスを保っていた積木の石塔をインコ大王が軽率に組み替えてしまい、積木の石が倒れることで岩も落下し、現実世界の塔も崩れ去る。そもそも「下」の世界を作り上げたその塔自体、元々は「御一新」(いわゆる明治維新)の頃に「落下」してきた隕石だった(余談だが、この設定は新海誠監督『君の名は。』(2016)を想起させる。途中では『すずめの戸締まり』(2022)みたいな扉まで出てきて驚いた!)。

 隕石の落下によって誕生し、積木の石の落下によって崩壊する世界の物語。眞人が自分を傷つけ血を流すのに使った石のモチーフは、「下」の世界で眞人たちを拒み静電気?を出す石の壁や床に姿を変えるが、最後には「下」の世界から唯一眞人が持ち帰るありふれた「石」へとつながっていく。石もまた、自らの重心を持ち、だからこそ石の落下が今作最大のスペクタクルを引き起こす。では宮﨑駿は、なぜこんなにも重力や重心をアニメーションで描くことに憑かれているのか?彼にとって重心とは何なのか?

 この問題を考えるため、スタジオジブリのもう一人の巨匠をここで召喚しよう。高畑勲である。

2. 高畑勲と疾走、そして私たちはどう生きるか

 高畑勲は、宮﨑駿のようには、全ての運動に魅せられそれをアニメーションにしていく作家ではなかった。運動として彼はただ、「疾走」を描き続けた。冒頭に挙げた宮﨑駿の疾走とは、全く違う疾走を…。

『アルプスの少女ハイジ』(1974)は、初回に着てきた服を一枚ずつ脱いで山小屋へと疾走していくハイジを描き、最終回には再び疾走するハイジとともに雪のアルプスに幻の春が訪れていく。遺作となった『かぐや姫の物語』(2013)では、都で男たちからの求愛に耐えられなくなったかぐや姫が、衣を脱ぎ散らしながら通りを疾走していくさまが描かれる。『ハイジ』から『かぐや姫』までの39年間、技法は同じ人が監督しているとは到底思えないほど変化したが、高畑が描く運動の本質は恐ろしいほど変わっていない。服を脱ぎ捨てながら疾走すること、これである。

『かぐや姫の物語』

 では、高畑にとって「服」とは何だったのか。他の高畑勲作品とも関連させて考えていこう。『火垂るの墓』(1988)ラストでは、節子の死の後、裸に白い布だけを羽織って駆け回る節子の姿を清太が回想する。この「布」も「服」の一種であるならば、「服」の下には「裸」の身体があるにすぎない(節子の身体はこの後火葬される)。さらに象徴的なのは、『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994)のラストシーンである。会社員として人間社会で暮らす正吉が、前と変わらぬタヌキたちの姿を垣間見る。彼はどうしたか?懐かしさに居ても立ってもいられず、スーツやネクタイを脱ぎ捨て、タヌキの姿に戻って彼らの元へ疾走していく。以上から、高畑作品において、「服」は他者から与えられた自己像を意味し、「服を脱ぎ捨てながら疾走すること」は「かつてのあるべき自分という本質に立ち帰る」運動を表象していると考えられる(正吉の場合ならタヌキとしての自分、かぐや姫の場合なら「タケノコ」と呼ばれていた頃の自分に)。そこには、宮﨑駿なら絶対に描きもらさないだろう、服を脱ぐ時の布やボタンの反発や踏みしめる地面からの抵抗はほとんど描かれていない。理念の中の疾走。しかしだからこそ、正吉やかぐや姫の疾走はあんなにも感動的なのだ。

『おもひでぽろぽろ』 この後、タエ子は立ち上がって走る

 服を脱いでいるわけではないが、『おもひでぽろぽろ』(1991)ラストでタエ子に起きているのも、全く同じ事態だ。帰りの電車に乗ったはずの27歳のタエ子は、(本当は見えていない)小学5年生の時の自分やクラスメイトに促されるように座席を立ち、荷物を抱えて向かいのホームに停まる電車へ走っていく。失いかけた愛を取り戻すために。大雑把に語ると、「今の自分」は社会の中で作り上げられた虚偽の自分、「昔の自分」は本当の自分、という対比が作動している。

 高畑勲が本質に立ち帰る運動として理念の中の疾走を描くことと、無重力状態の演出を多用することとは通底している気がしてならない。『おもひでぽろぽろ』でタエ子が意中の少年と好きな天気が一致し有頂天になって空に駆け上がり横になって浮遊するシーン、『ホーホケキョ となりの山田くん』(1999)ラスト、主題歌「ケ・セラ・セラ」に乗せて山田一家や町の人々が上空を飛び回るシーン。そして『かぐや姫の物語』を観た誰もが戦慄とともに思い出すだろう、釈迦?の来迎と同時に、かぐや姫が見えない後ろ向きの力に引かれていくシーン。高畑勲の想像力には、物が重心を失うイデアの世界がある。『かぐや姫の物語』の比喩で言えば、「鳥 虫 獣 草木 花」のない、「月」の世界が。

『おもひでぽろぽろ』
『平成狸合戦ぽんぽこ』のビックリハウス 無重力状態の例
『ホーホケキョ となりの山田くん』

 ここまで論じてきておわかりのように、「高畑勲はリアリストだ」という耳なじみの良い定式化は全く間違っている。彼はイデアの作家だ。現世は鳥・虫・獣や草木・花のはびこる、思うままにならぬ愚かしく素晴らしい世界。しかしふとした瞬間、主人公たちは虚偽の自分を捨て、あるべき自分へと疾走できる。その瞬間はすぐに過ぎ去ってしまうのだが。…「あるべき自分」がどこかにあると仮定している点で、高畑勲ほどのロマンチストは珍しい

 そして、「宮﨑駿はロマンチストだ」というもう一方の定式化もまた間違いだ。宮﨑はどんな運動にも重心を導入してしまう。だからサツキは小石につまずき、眞人は人にぶつかり、巨神兵は崩れ落ちる。高畑勲の力が水平方向に働いてイデアの疾走を描けば、(『カリオストロの城』以降の)宮﨑駿は垂直方向の不気味な力を行使してそれを現実としか受け取れない運動に変える。

 高畑勲の描く魔力は無重力であり、宮﨑駿の描く魔力は過剰な重力である。『かぐや姫の物語』で高畑勲が温存した「月」=「天上」の世界を、『君たちはどう生きるか』の宮﨑駿は「下」の世界に変形した上で崩壊させた。重心を持つ巨大な岩が宙に浮かんだままの世界など、現実ではないからだ。ここで、宮﨑駿は巨大なリアリストとして立ち現れる

 『君たちはどう生きるか』の大叔父が高畑をモチーフにしているかどうか、それは作家本人に聞かないと(下手すると聞いても?)わからない。だが表層的なことはさておいて、「下」の世界を過剰に重心の下方移動が行われる空間として描き、大叔父をその崩壊を食い止めようとバランスを取る人物と設定した今作で、宮﨑は紛れもなく高畑生涯のテーマに対決を挑んでいる。そして、宮﨑駿がなぜ重力や重心を描くことに取り憑かれているのかがやっと理解できる。宮﨑にとって重心とは、現実が現実である根拠、手触り、質感、種々の感情や悪意、あえて言えば生命そのものなのだ。

 『君たちはどう生きるか』ラスト、眞人は大叔父の誘いを断り、悪意が渦巻き、自らも悪意を持つことを受け入れざるを得ない戦時の現実世界に戻っていく。帰還した眞人・キリコ・夏子を寿ぐように、一回り小さくなったインコ軍団はキャラクター達の顔や服に大量のフンを落下させている。「鳥 虫 獣 草木 花」、『かぐや姫の物語』という作品がアイロニカルに賛美した現実の世界を、『君たちはどう生きるか』も全力で祝福する。「夏子母さん!」/「素敵じゃないか!眞人を産むなんて」/「じゃあな、友達」。違った資質に恵まれた二人の大監督が、長い旅の終わり近くに揃って「現実を生きること」を全力で肯定する映画を作ったのには、二人の作品を観てきた観客として何か感動的なところがある。人生は、生きるに値する。…天上で働く引力と地上に働く重力は、もしかすると最初から同じ力だったのかもしれない。

 眞人が最初に塔へと向かう際、泥に沈み込むほどくっきりと足跡がつく。私たちも、宮﨑駿という存在の重みを嚙みしめ、彼の世界から一つの石を持ち帰ろう。そして、私たちの重心で足跡の残るこの世界を・・・どう生きるか?

『君たちはどう生きるか』 眞人

*YouTubeの映画批評チャンネルBLACKHOLEにおける『君たちはどう生きるか』特集(6) 『君たちはどう生きるか』を、私たちはどう観たのか【完全ネタバレ感想大会】 高橋ヨシキ+柳下毅一郎+てらさわホーク #blackholetv – YouTube(2023.7.16配信)中の諸氏発言、特に人力車のシーンの重心移動をめぐる高橋ヨシキ氏の発言に啓発されてこの文章を書きました。記して感謝致します。動画も超オススメです!

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