「生きていかなくちゃ。大丈夫。僕たちはきっと大丈夫だ。」
—家福悠介 in 濱口竜介監督『ドライブ・マイ・カー』(2021)
「こういう時に大丈夫ですか?って聞いちゃダメなんですって。相手はたいてい大丈夫ですって答えるから、こういう時はどうかしましたか?って聞くといいそうです。…どうかしましたか?」
―久能整 in ドラマ『ミステリと言う勿れ』(2022)
1. 「天気」と「景気」
「100円玉3枚握りしめて /今日も結局すき家 悩んだ末いつも並や」
— ヤバイTシャツ屋さん「週10ですき家」(2016)
最近刊行された『新海誠論』の中で、著者の藤田直哉は『天気の子』を観た学生の感想に対する戸惑いを記している。
『天気の子』は貧困層を描いていると新海は言及している。しかしこれを、授業を受けた学生たちに言うと、映画を観たあとであっても、画面の証拠を見せながら具体的に説明しないと納得しない傾向がある。ちゃんと見れば、始めから終わりまで、貧困層の話であることは強調され続けているのだが。
藤田直哉『新海誠論』(作品社、2022年. p.149)
これは一つには、藤田が論じるように、本作の持つ「トリックアートのような性質」(p.151)に起因しており、「『何かを観ようとしない』『見えなくなっている』という観客の文化的無意識を意識化させる構造を持った作品になっている」(同上)ためだと考えられる。しかし、作品外の要因として、若い世代には本作で描かれている「貧困」が「貧困」だと感じられなくなっている、という社会の変化も挙げられるのではないか。
彼らの多くは、ネットカフェの狭い個室を利用したことがあるだろう。夜のマクドナルドで、安いコーヒーを啜って数時間粘ったこともあるかもしれない。電子レンジで温めたからあげくんや焼きそばがテーブルに並べば、その夕食は「ごちそう」だ。もし空腹時に作り立てのビッグマックがそっと差し入れられれば、「東京に来ていちばんおいしい夕食」という帆高の評価に大賛成するにちがいない。世の中には、金さえ払えばもっと高級で美味しいハンバーガーを出す店がある、と誰かが耳元で囁いても、それは余計なお世話だし、彼らとは無縁の世界の話だ。
今日すぐ死にはしないが、余裕を持って生きることもできない。明日は生きているが、先の将来はどうなるかわからない。下がる賃金、不安定になる雇用、崩壊が近いとささやかれる年金制度…。そのような漠然とした不安は、現代社会の常数となっている。『天気の子』の人々が雨の続く天気を受け入れ、最後には半ば水没した東京で「新しい日常」(高台への引っ越し、雨の中の花見…etc.)を送っていくように、現実の人々も不安を「当たり前」として生きている。瀧の祖母の家で死者に向けて煙を上げる時、火を熾すための古新聞には「景気」という文字が読み取れる。作品世界における「天気」の不順は、現実社会における「景気」の低調と同じ役割を担っている。平成から続く不景気の中で、「貧困」ももはや「当たり前」の一つとなっているのかもしれない。
そうした状況でわれわれは、個人の創意工夫で日々を何とか彩り立ち向かうことを余儀なくされている。陽菜の家を訪れた帆高の手土産は、チキンラーメンとポテトチップスという安価なうえにおよそ気の利いていないものであったが、陽菜は類い稀なセンスでそれらを手持ちの材料と組み合わせて目にも鮮やかな料理を作る。彼女は弟の凪と二人暮らしで、金銭的な余裕もないはずだが、部屋には手作りと思われるタペストリーが下がり、カイワレやネギを育てている。「ネギネギ、ネーギー」、しかしネギは薬味、それを入れて味が劇的に向上するのだろうか。それでも断固としてネギを切りスープに入れる陽菜は、不景気を仕方ないと一方では受け入れつつ、一方で不景気のために毎日が一面の灰色に浸されることだけはしまいとする、現代を生きる若者の典型だ。
2. 水と資本の循環
「なにも足さない。なにも引かない。」 —90年代サントリーウイスキー「山崎」のCMコピー
以上のように、『天気の子』の作品世界は現実の日本社会とよく似通っている。バニラの求人トラック、Yahoo!掲示板、悪質な客引きに注意喚起するアナウンス…など、都市生活者にとって今や意識化されない「風景」と化してしまったモチーフが、画面に描かれ表象されることで、観客は快い驚きを受ける。ところがもちろん、映画は現実ではない。さらに、『天気の子』はアニメーションというメディウムで表現されている。実写映画の場合とも一段異なって、アニメ映画では全てが作り手によって「描かれたもの」であり、作品はどんなに現実に似ていても現実そのものではあり得ない。「アニメーションとは、監督とスタッフによって創成された完璧なフィクションの世界である。」(榎本正樹『新海誠の世界』KADOKAWA、2021年。p.259)
作品序盤、ビルの入口に座っていた帆高が、風俗の客引きに足をかけられ空き缶入れをひっくり返すシーンがある。ここで捨てられている缶は、BOSS、ペプシコーラ、C.C.レモンと、すべてサントリーの製品である!それだけではない。他の自動販売機に並ぶ飲料、須賀が飲むプレミアムモルツやMaker’s Markのバーボン、等もすべてサントリー製品だ(正確には、歓迎会での夏美はなぜかサントリー「ほろよい」ではなく「ゆめここち」という架空のチューハイを飲んでいるが)。『天気の子』の最大手スポンサーがサントリーであることからの配慮だが、散らばる空き缶の一つ一つという、一回では視認不可能な領域にまで描きこみを徹底していることに、作り手の完全主義を感じる。また、現実世界の企業が架空のはずの作品世界に隠然たる統制力をもたらしていることは、『天気の子』が現代資本主義の生み落とした商品であることをも示している。(オモコロ「『天気の子』完全ネタバレ感想ラジオ」[2022/11/28最終アクセス、同日現在フリー視聴可能]中の諸氏の発言[32:30ごろ~]、および大門キエフ氏のnote「サントリー映画『天気の子』を君は見たか」[2022/11/28最終アクセス]に教えられた。)
さらに注意深く見ると、帆高が陽菜に差し出す水、フリーマーケットの運営が飲んでいる水、夏美の就職活動で面接官の机に並べられている水、体育で運動の合間に中学生が飲んでいる水、これらもすべて「サントリー天然水」であることがわかる。まるで『天気の子』の世界には、ミネラルウォーターはサントリーの天然水しか存在しないかのようなのだ!(これも前掲大門氏のnoteに教えられた。次の画像もそこから再引用させて頂きました。記して感謝致します。)
となれば、本作の「雨」の描写の意味も変わってくる。降り続く雨は大多数の人々にとって嫌な存在だが、サントリーにとっては、それなしではミネラルウォーターも(水にこだわった他の製品も)生みだせない、資本の源泉となる存在だ(2016年頃からサントリーが「水と生きる」を企業理念としてCMにも明記していたことも思い起こされる)。雨は、占い師のオババや神官など、作中の多くの人々によって複数のスピリチュアルな意味づけを施される。しかし、水は雨として降り、山から湧き出し、蒸発して雲となり(雲が湖一つ分の水を含んだ存在であることは、わざわざセリフで説明される)、また雨となる、と循環することで、一切のスピリチュアリティとは無縁な場所で、良質の水なしでは商品を作れないサントリーの資本に変わっている。ちなみに、サントリーが2017年に策定した「水理念」の第一条は「水循環を知る」である。
雨から利潤を売る(現実の)企業サントリーの活動は、雨を晴れにすることで報酬を得る、(作中の)「お天気ビジネス」と対をなし、互いの写像となっている。つまり、帆高たちの「ビジネス」は、どれだけファンタスティックな装いを凝らされようと、作品内の社会を動かすれっきとした「ビジネス」なのだ。凪も小学校で、理科では水の循環を、社会科ではお金の循環を習ったかもしれないが、『天気の子』では、水と資本が循環することによって作中の社会が形作られている。家出少年だった帆高は、フェリーで須賀に一杯980円のビールを奢る羽目になったり、ネットカフェマンボーで20分280円のシャワーを浴びたりで、どんどん所持金を減らしていく。須賀の家に身を寄せ月給3000円という「超ブラック」(by夏美)な給料で働き、一方では陽菜と組んで一回3400円~(価格は5000円から3000円の間を変動した結果、ホームページにこの価格が記されている)のお天気ビジネスを始める。興味深いのは、帆高が最初に持っている金やそこから支出した金は一切画面に映されることがなくセリフと小銭の音だけで説明されるのに対して、お天気ビジネスの報酬は律儀に一万円札や千円札が描かれていることだ。これは、帆高と陽菜が資本主義社会のルールの中で対価として得たという面を強調するためだと考えられる(須賀からの「月給」は、厳密には労働の対価とは呼べないためか描かれない。描かれるのは、「退職金」として渡される帽子に付随する五枚の一万円札のみだ)。かつて『魔女の宅急便』を分析する際、英文学者の三浦玲一は「宅急便の優れた配送人になることがヒロインの自己実現になるというモラルであるという意味において、この物語における『小包の配送』は[…]クリエイティブな『宅急便』でなければならない」と指摘した(『村上春樹とポストモダン・ジャパン』彩流社、2014年.p.88-89)が、キキが「魔女」を「飛ぶ能力を持つ者=配送人」に還元して報酬を得ていたように、陽菜は自らのアイデンティティーを「雨を晴れにする能力」に限定して解釈することで、社会で受け入れられる「クリエイティブな労働」を行うのだ。
そして、帆高・陽菜・凪の三人は得た金を文字通り資本=元手として逃避行を続けるのだが、身分証明ができないという壁に阻まれ、池袋のラブホテルで法外な金額を支出させられる。「一泊28000円ね。28000円払える?」というフロントの女性の言葉は、帆高たちが(明らかにこの場に場違いな)「子ども」であることを見て見ぬふりをした上で、支払いができるかどうかの「客」として見ていることが伝わり、他の冷酷な人々とは別の意味で苛酷である。また、28000円という額はマンボーでのシャワー料金のちょうど100倍であり、出費額の増大を印象付けている。
ラブホテルをラブホテルとして認識しておらず、ホットスナックを食べてカラオケで歌ってと楽しく過ごした帆高は、「もう大丈夫です。[中略]だからこれ以上、僕たちに何も足さず、僕たちから何も引かないでください。」と「神様」に祈る。ところが、これがサントリーウィスキー「山崎」の有名なコピーの「コピー」でしかない(前出、オモコロ『天気の子』完全ネタバレ感想ラジオで指摘されている)ことがアイロニカルに示すように、彼らはすでに資本主義社会に巻き込まれてしまっている。ラブホテルの一室は資本主義から離れたユートピアたり得ず、足し引きの勘定から逃れて「神様」に「ずっとこのままいさせて」もらうことなどできない。陽菜の消失と翌朝の刑事の訪問によって破局はすぐ訪れ、クライマックスを呼び込むが、たとえそのような出来事がなくても、今やシャワーの100倍となった部屋代をいつか支出しきれなくなり、資本主義社会の落伍者となっていくことは明白だろう。彼らは世界の形を永久に変えたかもしれないが、それでも資本主義は延命する。マーク・フィッシャーがフレデリック・ジェイムソンの言葉を借りて何度も言ったように、今や「資本主義の終わりよりも世界の終わりを想像するほうがたやすい」のだから。
3. 「円」の主題
“Round, round, get around, I get around”
— ザ・ビーチ・ボーイズ「アイ・ゲット・アラウンド」(1964)
「結局この話は、ホールデンがニューヨークに出てからは、一種の地獄めぐりみたいな構成になってますよね。」
—村上春樹が柴田元幸の質問に答え『キャッチャー・イン・ザ・ライ』について語った言葉
『陽のあたる場所』(ジョージ・スティーブンス監督、1951)というアメリカ映画がある。貧しい生い立ちのジョージ(モンゴメリー・クリフト)が上流階級のアンジェラ(エリザベス・テイラー)との身分違いの結婚を夢見て、関係のできてしまった恋人のアリス(シェリー・ウィンタース)を溺死させようとする、というストーリーである。原作はアメリカ自然主義を代表する作家シオドア・ドライサーの小説『アメリカの悲劇』(1925)。『天気の子』の帆高が故郷の神津島で日なたを目指し自転車を漕ぐ(「あの光の中に行こう」)回想シーンは、「陽のあたる場所(A place in the sun)」を目指すジョージの志向を思わせる。この二作は、主人公の青年が最終的に犯罪者として裁かれるのに観客が彼に感情移入してしまう点でも共通している。
帆高は「陽のあたる場所」を目指しサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を抱えて上京する。しかし、雨続きの東京は、天気の意味でも象徴的な意味でも、彼にとって「陽のあたる場所」では全くなかった。彼が直面するのは、東京はアメリカの都市ではなく、身分証を持たない家出少年には居場所も仕事も提供しないという「日本の非-劇」である。彼はマンボーの個室から出て仕事を求め彷徨するが、面接でかけられる言葉は「身分証は?」「ないの?」「雇えるわけないだろ」等である。従来の日本映画なら一騒動描きそうなこの職探しパートは、身分を証明できない帆高が表社会はもちろん裏社会からも受け入れられないことのみを示して1分もかけない編集で簡単に終了され、同じネットカフェに戻るしかない。その間、食費で所持金は減っていき、悪い循環が起きている。
陽菜と凪も、母の死によって母の被保護者という身分を喪失してしまい、児童相談所の職員や警察から頻繁に干渉を受けている。帆高たちが逃亡を決意するのは、陽菜の家に警察が「明日、児童相談所の人たちともう一度来る」状況が生まれてしまったからだ。悪い循環を断ち切るためには、脱出するしかない。・・・だが、いったいどこへ?
大雨の影響もあり池袋で降りた三人は、宿泊しようとするホテルで度重なる拒否に遭うことになる。「本日満室でして」(それは本当だろうか?)「身分証お持ちじゃないですか?」「君たちさ、家出じゃないよね?」・・・観客にはわかる。皆、法を遵守する勤勉な社員のフリをアリバイにして、逃げているだけだ。何かが起きた時、「なんでよく確認しなかったんだ?なんで拒否しなかったんだ?」と上司/警察/大衆(SNS含む)から言われないため…。構造は職探しパートと同じであり、編集上も両者の循環構造が意識されている。エンタメ映画にありがちな義理人情を誰一人発揮しようとしないこの宿探しパートは、いかにも新海誠監督作品らしい社会認識を示すものである。皆が手を差し伸べない理由はただ一つ、加藤幹郎による卓抜な『秒速5センチメートル』の風景論を援用すれば、「ここが東京だから」である。(「風景の実存」、加藤幹郎『表象と批評 映画・アニメーション・漫画』岩波書店、2010年. に所収)。『秒速5センチメートル』(2007)では、第一話「桜花抄」と第二話「コスモナウト」において、東京を離れた空間では若い恋人たちが親密になるのを応援するかのようだった駅の待合室やコンビニ横のベンチ、駅員やコンビニ店員は、第三話が舞台とする東京では何の説話的機能も与えられることがない。「東京のコンビニも駅舎も商品とサーヴィスは本来のものしかあつかわなくなり、もはや恋人たちが安心して憩えるような場所はどこにもなくなっている」(加藤p.151)。『天気の子』では、『君の名は。』でも「カフェ」をめぐってコミカルに取り上げられた地方/東京という対比すら、神津島でのエピソードがほとんど描かれず機能していないため、より救いがなくなっている。帆高が最初に「東京って怖え」と感じたのは、本質を衝いていた。
水の循環が資本主義と結び付き、資本の循環が社会を成り立たせる『天気の子』の資本主義的作品世界で、帆高・陽菜・凪もまた行き場のない循環を繰り返す。空に渦を巻く水の粒や衛星から日本を見下ろすカットに映る巨大な雨雲が暗示しているように、循環は不吉なイメージをまとっている。伊藤弘了が「恋する彗星—映画『君の名は。』を「線の主題」で読み解く」[2022/11/28最終アクセス]で華麗に論じるように前作『君の名は。』(2016)が「線」の映画だとすれば、『天気の子』は「円」の映画(図形として・日本資本主義の象徴としての両面で)と呼べるだろう。他にも、てるてる坊主・傘を回す行為・指輪・花火・チョーカーなど類似のモチーフはいくつも指摘できる。『君の名は。』が新宿と飯田橋を東西に結び一方で東京を半分に切断する「中央線の映画」であり、『天気の子』が新宿・田端・池袋をめぐる「山手線の映画」であることは、決して偶然ではない。残された問題は、帆高と陽菜が「円」から出ることができるかどうかだ。
4. 悪い循環から脱出するために ~ANIMEにできることはまだあるかい?~
「確かに、この映画の脚本はクソだ。製作の過程でトラブルが起き、人も大勢辞めた。でも、ヌードシーンがある。大丈夫だ。」 — ロジャー・コーマンがスタッフを集めて言ったと伝えられる言葉
「大丈夫だよ、ママ /血が流れてるだけだ」 —ボブ・ディラン「イッツ・オールライト・マ」(1965)
脱出の希望は残されているのか。彼らがいくぶん大人になった姿として、夏美と須賀の姿を考えよう。夏美は度重なる就活で「御社が第一志望です!」と繰り返しても上手くいっていないようであり、循環のただ中にある。資本主義社会では労働者は適性に合った職を「選ぶ自由」を持つが、企業の側もまた、個人の履歴や技能を参照した結果雇わないという「選ぶ自由」を持つからだ。終盤のチェイスシーンで「私、白バイ隊員になろうかしら」「もう雇ってくれませんよー」という会話があるのを、ただの上滑りしたギャグとしてのみ取るべきではないだろう。須賀はもっとわかりやすく、妻の死から立ち直れず、娘にも安定して会わせてもらえないまま、心では信じていない三文記事を次々書き飛ばすことで日々をやり過ごしているようだ。後に帆高に語る「世界なんてさ、どうせもともと、狂ってるんだから」という認識を隠れ蓑に使って…。安井刑事が「あなた今…泣いてますよ」と指摘するシーンは、須賀がこれまでいかに心と表面を乖離させ生活してきたかがわかる。
帆高と陽菜も、夏美や須賀のようになっていくのだろうか?陽菜が自らの身体を犠牲にして「クリエイティブな労働」を行い、帆高もそれを是認していた時期が続けば、やがて資本主義社会の中で消耗し、夏美や須賀のようになるだろう。ところが、帆高は陽菜を空から連れ戻し、一度は陽菜自身がアイデンティティーの依り代としていた、皆が待望する「晴れ女」としての彼女を否定する。すなわち、アイデンティティーを金銭に代え、そのことによってアイデンティティーの根拠を社会に置くしかなくなる思考様式そのものを、否定したと言ってよい。そのために、たとえ東京が水没しかかったとしても。
ラストシーンの直前、高校を卒業してもう一度上京した帆高は、自分たちの決断に懐疑的だった。むしろ、直前に須賀にかけられた言葉もあり、決断したのだということそれ自体すら疑わしくなっていた。世界は、自分たちとは関係のないところで回る=循環していくのだから、と。
だがラストシーンでは、唐突に自分たちの決断を肯定し「大丈夫」という言葉を発する。ここに私は、主人公二人を力業を使ってでも悪い循環から脱出させようとする、『天気の子』という作品からの力を感じた。チョーカーは切れ、もう円が戻ることはない。
新海誠作品には「大丈夫」という言葉がこれまでもよく登場してきたが、文字通りの意味ではなく、別れの不安や予兆を含む言葉として機能していたことは注目されるべきである。『ほしのこえ』(2002)のミカコは、何光年も離れていく影響で届くのに膨大な時間がかかる自分たちのメール通信を「20世紀のエアメールみたいなものだよ。うん、だいじょーぶ。」とメールに書き、ノボルに「何が大丈夫なんだ」と言われていた。『秒速5センチメートル』第一話の明里がホームで別れ際に貴樹にかけた言葉は「貴樹くんは、きっと、この先も大丈夫だと思う、絶対!」だったが、明里と貴樹はこの後離れていく。『言の葉の庭』(2013)では、ユキノが四阿で寝ているタカオに「私、まだ大丈夫なのかな」と独り言つシーンがあり、教師でありながら生徒に惹かれる自分を不安に感じ、終盤にはタカオの告白を一度は拒む。『君の名は。』(2016)では、クライマックスで三葉が走りながら「大丈夫、覚えてる!絶対忘れない!」と独白するが、すぐに瀧の名を忘れてしまう…。『天気の子』中盤でも、陽菜が帆高だけを補導される前に家に帰そうとして不安にかられながらも「私たちは大丈夫だから」と強がって言う、これまでの用法とよく似たシーンがある。
しかし、最後の「大丈夫」はこれらとまったく違う。客観的に(観客の視点からは)まったく「大丈夫」でない帆高だが、主観的にはまぎれもなく「大丈夫だ」と思っているのである。彼の言い切る強度が、映画全体を支えている。山手線の線路上を走る彼が、傍観者たちにどれだけ馬鹿にされようと、新宿の廃ビル=陽菜の元へと懸命に走っていたように。
大丈夫な要素はまったくないし、実際何も大丈夫ではない。だがそれでも、帆高と陽菜は円環を断ち切り、今までとは違う人生を歩もうとしている。彼らがこれから何をしても、それとも何もしなくても、映画は彼らのことを祝福している。たとえ晴れ間が戻ったのが彼らだけの幻想で、本当の東京は水没寸前のJ. G. バラード的終末世界だとしても、お互いがいて手を繋いでさえいれば(それがこの作品のラストカットである)、彼らにとってはそこが「陽のあたる場所」となるだろう。
どんなにあり得なくても、荒唐無稽でも、そもそも平面にしか住まない命なきキャラクターであっても、描きさえすれば観客に見られている間は魂(anima)を持つ、それがアニメーションの不思議である。暗い環境にありながら、帆高と陽菜という若い二人が確かに存在し手を繋ぎ生きていこうとしていたという「現実」を、『天気の子』は強く肯定する。新しく海となった東京で、誠なものが生まれる。だから、アニメにできることはまだあるよ。and yes I said yes I will Yes.