宮沢賢治『やまなし』解説|クラムボンとは何か|あらすじ考察・伝えたいこと感想

宮沢賢治『やまなし』解説|クラムボンとは何か|あらすじ考察・伝えたいこと感想

概要

 「やまなし」は、1923年に発表された宮沢賢治の短編童話。生前に発表した数少ない童話の一つ。国語の教科書に採用されている。

 谷川の底の蟹の兄弟が見る生き物たちの世界を描いたもので、晩春の5月の日中と初冬の12月の月夜の2部で構成されている。5月にはカワセミによる魚の殺生が行われ、12月には蟹の兄弟も成長し、ヤマナシの実りが訪れる。

 宮沢賢治はほかに「注文の多い料理店」がある。教科書に採用された小説はほかに、中島敦「山月記」、魯迅『故郷』、梶井基次郎「檸檬」、宮沢賢治「注文の多い料理店」などがある。

 本作は「日本純文学の最新おすすめ有名小説」で紹介している。

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登場人物・

二疋の蟹:お兄さんの蟹

お父さんの蟹

かわせみ

クラムボン

やまなし

名言

小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈げんとうです。

クラムボンはわらったよ。

クラムボンは死んだよ。

あらすじ・ネタバレ・内容

 小さな谷川の底を写した2枚の青い幻燈があった。

 5月のある日、蟹の兄弟が水の底で話をしていた。「クラムボンは笑ったよ」「クラムボンは死んだよ。」と会話をしていると、泡が斜め上へと登っていく。それをみて蟹たちも泡を吐く。

 蟹たちの頭上を1匹の魚が通っていく。そこに鉄砲玉のようなものが飛び込んできて、魚を攫っていった。恐怖で震えている蟹の兄弟にお父さん蟹は、それはかわせみという鳥で蟹にはかまわないから安心しろと告げるが、兄弟蟹から恐怖がなくなることは無かった。

 泡と一緒に樺の花びらが流れていき、花びらの影が砂をすべっていく。

 12月のある日の夜、蟹の兄弟は吐いた泡の大きさを競っていた。それに気づいたお父さん蟹は、もう寝なさいと言うが、弟蟹は自分の泡の方が大きいと言い張って譲らない。

 その時、川に何かが落ちてくる。兄弟蟹はかわせみだと言うが、お父さん蟹はやまなしだと教える。流れていくやまなしを追っていくと木に引っかかって止まる。お父さん蟹は、やまなしは数日すると落ちてきてお酒になると教える。

 それまで待つために、家に帰っていく蟹の親子。波はいよいよ青白い炎をあげている。幻燈はここでおしまいする。

解説・感想

クラムボンの正体はわからない

 妙に頭に残る「クラムボン」という響き。この謎の固有名は初等教育における国語の難解さの代名詞でもある。「クラムボンは笑ったよ」「クラムボンは死んだよ」というフレーズを記憶しているすべての人が「クラムボン」の正体を知らないのだ。

 本書は蟹の視点からみた水中の生活を幻想的に描く宮沢賢治の短編小説である。5月と12月の蟹の生活が二部構成で描かれ、それを前後から「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈げんとうです。」と「私の幻燈はこれでおしまいであります。」の二文が囲う。まずこの構造を把握することが大事である。蟹の視点で描かれる水の中の生活、投影された風景、幻燈を眺めながら語る人物。この三つの異なる層が物語に深みをもたらしている。

 さて、物語の中心にある蟹の生活はどのようなものか。こちらでは5月と12月の二つの季節が描かれる。この妙な合間に意味があるのかないのか、それに判断を下すことはできないが、この奇妙さが本書の独特な雰囲気に少なからず影響を与えていることは間違いない。死を予感させる5月と生に満ちた12月、その間は弱い対称をなしてゆるやかに繋がっている。

こわい所と死の世界

 子蟹に世の厳しさと美しさを教え諭す親蟹からは、絶対的な安心感が漂う。外からの恐怖や兄弟蟹の口喧嘩にも安心して対処できるのは親蟹のおかげである。

『ふうん。しかし、そいつは鳥だよ。かわせみと云うんだ。大丈夫だいじょうぶだ、安心しろ。おれたちはかまわないんだから。』

親蟹はこれまでの経験から、あるいは、親蟹の親蟹の教えから、鳥がかわせみであると言う。そしてかわせみの狙いはあくまで魚であって、蟹である我々は襲われないと教える。どっしり構えた親と怯える子供のこの会話は、時間的奥行きを感じさせる場面である。

『魚かい。魚はこわい所へ行った』
『こわいよ、お父さん。』

親蟹の言う「こわい所」とは、言うまでもなく死の世界である。つい先程まで「そこら中の黄金きんの光をまるっきりくちゃくちゃにし」ていた魚は、すでに死んでしまった。『こわいよ、お父さん。』と繰り返すのは、「こわい所」の意味を直感的に理解しているからだ。『クラムボンは死んだよ。』と何気なく発していた時とは異なる現実の死の重みが、幼い蟹たちにのしかかる。それを包み込むように「光の網はゆらゆら、のびたりちぢんだり、花びらの影はしずかに砂をすべり」、第一の幻燈は幻想的な風景へと再び戻っていくのである。

考察

やまなしとかわせみ

 題名でもある「やまなし」が登場するのは12月。「トブン」という音と共に落ちてきたのは、かわせみではなくやまなしであった。経験から「かわせみだ」と声を上げる子蟹が可愛らしい。「こわいよ、お父さん」と恐れていた子蟹は、7ヶ月を経て確かに成長しているのだ。

 「かわせみだ」の声ではしった緊張と真逆の効果を表すのが「やまなし」である。

『待て待て、もう二日ばかり待つとね、こいつは下へしずんで来る、それからひとりでにおいしいお酒ができるから、さあ、もう帰ってよう、おいで』

「いい匂い」を放つやまなしは二日かけて熟すと「下へしずんで来」て「おいしいお酒」になる。魚もかわせみも蟹たちに直接の影響を与えなかったことを踏まえれば、外界からもたらされる初めての恵みであることに気づく。川底に住む蟹たちの生活が縦方向の広がりを持つことは、そのまま子蟹たちの成長とも繋がっている。蟹はそもそも横方向にしか動けない動物である。蟹にとって垂直方向の広がりは、生活の外部に位置しているのだ。

 12月に川底に沈んでくるやまなしは、5月に川底から上昇する泡と対をなしている。外部からの侵入へと、外部への放出。どちらも横にしか歩けない蟹の生活の外側を示してくれる。その外にあるものとは何か。それが蟹を写した幻燈であり、人間の生活である。そしてこの内と外の関係は常に鏡写である。言い換えれば、川底の蟹の生活の外部にかわせみややまなし、そして人間の生活があるのと同様に、人間の生活の外側に川底に住む蟹の生活があるのだ。幻燈に映し出し想像することでしか認知できない蟹の生活は、だから幻想的に描かれているのである。

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