和田光司『Butter-Fly』歌詞解説|無限大な夢のあとでもきっと飛べるさ|バタフライ意味考察

和田光司『Butter-Fly』歌詞解説|無限大な夢のあとでもきっと飛べるさ|バタフライ意味考察

1999年、デジタルワールドの冒険へ

 子供たちは夢を見る。相棒と、友達と、ともにこの無限大な世界へ冒険に出るのだ。

 その物語は、携帯電話の普及と科学技術の発展が著しい20世紀の末、地球規模の気候変動が世界を覆った1999年に始まる。気候変動は夏の東京に季節外れの大雪を降らせ、上空に幻想的なオーロラを発生させた。ちょうどその時、サマーキャンプで東京の山奥に来ていた小学生の八神太一たちは、不運にも大雪に見舞われオーロラに遭遇し、突然開かれたデジタルワールド(仮想現実)に飲み込まれてしまう。驚いたのも束の間、太一たちはデジタルワールドに住む謎の生命体デジモンを発見する。太一たちはそれぞれにデジモンとタッグを組み、誰も見たことのない広大な世界で未知なる冒険を歩み始める。

 日曜の午前中に放送された『デジモンアドベンチャー』は、起きたばかりの眠そうな子供たちを魅了しテレビの向こう側の世界、太一たちのデジタルワールドへと連れ出してくれた。太一たちがデジタルワールドを冒険するように、現実の子供たちもデジモンアドベンチャーというファンタジーを純粋に冒険していたのだ。そして我々は現実世界には存在しないはずのデジモンを、太一たちと同様に、まるで相棒のような親しみをもって眺めていた。

 『デジモンアドベンチャー』の世界はテレビの向こうのフィクションでありながら、あたかも現実の世界の出来事のように視聴者に受容された。現実の世界で『デジモンアドベンチャー』を見ていた子供たちはその足で友達と、デジモンカードでバトルしフィギアを駆使して戦った。それだけではない。ポケベルの中で本当にデジモンを育てていたのだ。テレビで放送されている短い時間だけではなく、日常生活にまでデジモンが浸透していたのには理由がある。『デジモンアドベンチャー』の世界観が現実の世界と一致していたのだ。『デジモンアドベンチャー』の始まりの地球規模の気候変動は、現実世界でも問題にされ始めていた現象であり、デジタルな文明の発達は子供も大人も生活実感としてあった。現実で起こる文明の急激な進化を共有しながら、世界現実で起きないだろうが起きてもおかしくはないギリギリの出来事が挿入されることで、『デジモンアドベンチャー』は現実の延長線上で消費されたのである(ちなみに気候変動は現在さらにアクチュアルな問題になっている。それらの問題を扱った著作の書評は『ゼロからの『資本論』』書評と、『力と交換様式』書評から)。

無限大な夢のあと、現実世界できっと飛ぶ

 アニメのOPは知っている人も多いだろう。和田光司の『Butter-Fly』だ。ロックな曲調でサビで盛り上げるこの曲は、現実からアニメの中の冒険への橋渡しの役割を十分に果たし、子供たちに広く親しまれデジモン主題歌の代名詞的な存在にまでなった。ところが、『Butter-Fly』の歌詞は、熱中して聞き入った多くの子供たちを、不思議なことに不安な気持ちにさせた。問題の歌詞はサビにある。

無限大な夢のあとの 何もない世の中じゃあ
そうさ愛おしい 想いも負けそうになるけど

「無限大な夢のの」?それは一体どういうことだろうか。これから放送されるのは、ワクワクするような夢の冒険アドベンチャーは「無限大な夢」であって、その「あと」では決してないはずだ。そして期待しているのは、何でも世の中であって「何も世の中」では絶対にないはずだ!

 ドキドキすることのない殺伐とした冒険を、日曜日の日差しのさす暖かい朝に、希望に満ちた子供たちが欲しているはずがない。当然だが、この不安は良い意味で裏切られる。テレビから流れてくるのはデジタルワールドを冒険する太一たちで、「無限大な夢」を生きるキラキラとした姿だ。これで一安心して彼らの/と冒険を楽しめる。しかし、一体「無限大な夢のあと」とは何だったのだろうか?

 その伏線はアニメの最終回で回収されたと考えられている。デジモンとの冒険を終えた太一たちは現実世界に戻るため、列車に飛び乗りデジモンたちとお別れをする。そのときになってようやく視聴者の不安の種であったOPの歌詞の伏線が解かれる。つまり「無限大な夢のあと」= 「現実世界」だと理解する。そうして我々はやっと、「無限大な夢」はデジタルワールドのことであり、「あと」=現実世界のことであり、「何もない世の中」が今にも始まろうとしていることに愕然としながらも、それでも「頼りない翼でもきっと飛べるさ」という声に鼓舞されて、現実世界で「oh my love」と口ずさみきっとこれからも冒険は続くのだと安堵することで、涙を押し殺しながら見守る太一たちの乗る列車が遠のき消えてしまったあと、無根拠な確信と決断を胸にそっとテレビの電源を切ることができるのだ。

大澤真幸と時代の可能性

 しかし物事はそう簡単ではない。作詞は歌っている和田ではなく、ガッシュベルの主題歌『カサブタ』で有名な千綿偉功で、この曲自体アニメに合わせて作られたものではない。千綿は「無限大な夢」について自らこう解説する。

夢って描くのは無限大じゃないですか。でも、思い描いた後にふっと現実に戻ると、『何だこの世の中は』って思う。『何を信じればいいんだ、何が正解なんだ』って、すごく虚無感に襲われる。『そんな世の中でもきっと飛べるさ』と。前向きな曲ですよね

https://withnews.jp/article/f0180930001qq000000000000000G00110601qq000018059A

これは千綿の実存的な悩みでもありながら、同時に社会的で普遍的な傾向でもある。夢は無限大だ。冒険も無限大だ。しかし、そのあとの現実はどうなってしまうのか。

 社会学者の大澤真幸は『不可能性の時代』のなかで、戦後日本の社会を現実とのかかわりを介して、理想の時代、虚構の時代、不可能性の時代に区分した(批評家の宇野常寛は「不可能性の時代」の代わりに「拡張現実の時代」を提唱した)。理想の時代は1945-1975年、虚構の時代は1975-1995年、不可能性の時代は1995年以降とされる。注目すべきは虚構の時代と不可能性の時代の境界だ。虚構の時代の終焉は1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件と、1997年に発生した酒鬼薔薇聖斗による神戸連続児童殺傷事件に代表され、それは、理想の輝きがもはや一瞬たりとも放たれることのない社会で、虚構に没入し家族のゲームを演じることでなんとか生活してきた、そのわずかな基盤ですら音を立てて崩壊したという現実を露呈させた。そしてまさに虚構の時代の終焉の直後に生まれたのが『Butter-Fly』なのである(地下鉄サリン事件に触発されて製作された小説に村上春樹の「かえるくん、東京を救う」「神の子どもたちはみな踊る」がある)。

 この激動の社会的な変化を加味すれば、「無限大な夢」が虚構の時代を指しているととることができる。虚構ですら崩れてしまった社会に、多くの人が「すごく虚無感に襲われ」ていたはずだ。それはアニメの中の主人公たちですら例外ではない。サマーキャンプに参加していたはずの太一が、友達と遊ぶこともなく、木の上でつまらなそうに一人で過ごしている冒頭のシーンが、その虚無感を象徴している(図1)。状況はデジタルワールドに飛ばされる個性的な友人たちもさして変わらない。もはやこの社会では友達と遊ぶという虚構は全く機能しておらず、子供ですら戯れを拒否している。

図1. デジモンアドベンチャー1話. キャンプ場でつまらなそうな太一

 前節で『Butter-Fly』はデジモンアドベンチャーの最終話に相応しく、「無限大の夢」はデジタルワールドでの冒険のことかもしれないと指摘したが、どうやらそれは間違いのようだ。「無限大の夢」は終わっている。今、この現実、こそが「何もないやるせない世の中」なのだ。

 大澤は1995年以降を不可能性の時代と指摘した。この時代はテロに代表される暴力的で身体的な現実への回帰と、現実から暴力性を排しコーティングされた虚構への没入という、現実への / 現実からの逃走が矛盾しながらも共存する社会である。しかし、不可能性の時代ではない、虚構の時代のあとにくるもう一つの可能性があったはずだ。デジモンアドベンチャーと『Butter-Fly』はその可能性の僅かな光明を放っている。虚構の失墜は「stayしがちなイメージだらけの頼りない翼」という現実を生み出した。そこは飛ぶために存在するはずの翼の意義すら失われた世界だ。その世界で翼の存在をどうにかしようとするならば、翼などはなから存在していなかったと居直るか、存在を確かめるために翼で攻撃を繰り出すか、どちらかしかないように思われる。しかし、それでも「きっと飛べる」のだ。「頼りない翼」でも「飛べ」た社会はまさに、ハリボテの虚構ではない強度のあるファンタジーとしての仮想現実のなかで、非現実でありながら暴力的かつ身体的な、そして共に過ごす日々が一夏で終わってしまっても外の世界で関係がゆるやかに持続するような、冒険の社会なのだ。

 音楽はほかにオフコース「秋の気配」オフコース『言葉にできない』オフコース『YES-YES-YES』スガシカオの『奇跡』くるり『奇跡』ラサール石井『おいでよ亀有』きゃりーぱみゅぱみゅ『きゃりーANAN』Chara『ミルク』米津玄師『地球儀』などを解説している。

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