『神の子どもたちはみな踊る』考察|ヨシヤは踊る|あらすじ解説|感想|村上春樹

『神の子どもたちはみな踊る』考察|ヨシヤは踊る|あらすじ解説|感想|村上春樹

概要

 『神の子どもたちはみな踊る』は、村上春樹の短編小説。2000年に刊行された『神の子どもたちはみな踊る』(新潮社)に収録されている。収録されている6編のうち3作品は、1999年に「地震のあとで」と題して『新潮』に掲載された。2008年に監督ロバート・ログヴァルによってアメリカで映画化された。

 1995年1月におきた阪神・淡路大震災と、同年3月の地下鉄サリン事件に関連した内容になっている。

 村上春樹は短編「かえるくん、東京を救う」や、長編『風の歌を聴け』『海辺のカフカ』『1Q84』などがある。

 SF小説はアーシュラ・クローバー・ル=グウィンの短編「オメラスから歩み去る人々」や、ポーの『黒猫』と『ウィリアム・ウィルソン』がある。

 日本の小説はほかに安部公房『砂の女』、山田詠美『僕は勉強ができない』、芥川龍之介『羅生門』、遠藤周作『沈黙』、田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』、小川洋子『博士の愛した数式』『ことり』、乗代雄介『旅する練習』、本谷有希子『本当の旅』、村田沙耶香『コンビニ人間』などがある。

 また「日本純文学の最新おすすめ有名小説」で、おすすめの小説を紹介している。

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登場人物

善也:25歳、男性。宗教にのめりこむ母をもつ。父親が誰であるかは知らない。

母親:善也の母。避妊をしても子どもができてしまい、相手との関係が壊れた時に田端に救われる。以後、宗教にのめり込む。18歳で善也を出産。

父親:善也の父。誰からはわかっていないが、母親の証言によれば、当時付き合っていた医者の可能性が高い。当時の年齢は30歳。幼少期に犬に噛まれて、右の耳たぶがない。

田端:ある宗教の「導き役」。善也の母をある宗教に誘う。若くして癌で亡くなる。

あらすじ

 善也は25歳の青年で、神谷町の出版社で働いていた。彼は阿佐ヶ谷の賃貸マンションで、18歳年齢の離れた母親と暮らしていた。母親は関西で起きた地震のために、大阪にある教団施設に泊まり込みに行っていた。

 ある日、最悪の二日酔いから目を覚ましたあと、午後になって出社した。その帰宅の途中に、右耳の耳たぶが欠けた男性をみつけて後を追いかける。その特徴が、母親から聞かされた父親のそれと一致していたからだ。母親は18歳の頃に医者と付き合い、完璧な避妊をしていながら子供授かった。

 相手は他の相手との性交渉を疑い、母親はその態度に憤って別れることになる。その医者の右耳の耳たぶは欠けていたという。その後、母親はある宗教団体で「導き役」をしている田端さんに助けられ、善也を出産し、以後宗教にのめり込む。

 善也は踊りかたが蛙に似ていることから「かえるくん」と恋人に呼ばれていた。善也は父親らしき人物を追いかけているうちに、開けた野球場に辿り着く。ところが、追いかけていた父親は何処かに行ってしまい見つけることがでかいない。

 彼は野球場で一人で踊り始める。誰かに見られている感覚があるのだが構わない。神の子どもたちはみな踊るのだ。

 母を宗教に勧誘した田端さんは癌で亡くなった。亡くなる間際、田端さんは善也に、心が善也の母親の肉体を求め止めることができなかったことを告げる。善也は関西に向かった母親、別れた恋人、そして田淵さんのことを思い出す。善也はピッチャーマウンドで、神様、と口にするのだった。

解説

阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件の影響

 「神の子どもたちはみな踊る」は「地震のあとで」と題したシリーズの一つとして、1999年に雑誌『新潮』に掲載された。「地震」とは1995年1月に起こった阪神・淡路大震災のことであり、本作と同名の短編集には何らかの形で地震と関連した小説が収録されている。本作では、主人公善也の母親が阪神・淡路大震災の被災地にボランティアで向かうという形で、地震が間接的に描かれている。

 1995年は日本社会において、エポックメイキングな年といえる。阪神・淡路大震災のほかにもう一つ歴史的な大事件が日本で起きたからだ。それが同年3月に起きた地下鉄サリン事件である。村上春樹は地下鉄サリン事件に応答して、被害者や関係者にインタビューを行い、ノンフィクション『アンダーグラウンド』(1997年)に結実させた。村上はこのころを境に小説家としての態度を「デタッチメントからコミットメントへ」へと変更し、現実社会での出来事も小説の中で描くようになる。そしてその延長線上にあるのが、『神の子どもたちはみな踊る』という短編集である。日本社会を揺るがす二つの大事件、地下鉄サリン事件と阪神・淡路大震災か生まれた作品が、『アンダーグラウンド』と「神の子どもたちはみな踊る」なのだ。

 この二つの事件、阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件と、「デタッチメントからコミットメントへ」という態度変更の関連を詳しく確認しておこう。社会学者の大澤真幸は、日本を「理想の時代」「虚構の時代」「不可能性の時代」に分類したとき、「虚構の時代」「不可能性の時代」の分割点を1995年にみる(不可能性の時代とは何か*なるほう堂)。阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件によって、日本社会は虚構に埋没する時代から、新たな時代へと移行したというのだ。それは、村上の「デタッチメントからコミットメントへ」という方針転換ともパラレルかもしれない。デタッチメントが作品(虚構)への没入を意味するならば、コミットメントはそれに対する反省からきている。デタッチメントだけでは生きていけないという時代の変化を、小説家である村上春樹は敏感に捉えていたのである。

地震のあとの宗教の問題

 短編集『神の子どもたちはみな踊る』の中でも、本作の特徴をなすのが「宗教」を直接描いていることだ。

 宗教にのめり込むのは善也の母親で、出産に向けて心身ともに不安定な状態であった母親は、宗教の「導き役」である田端に出会い入信する。子に付けられた名前は善也(ヨシヤ)。ヨシヤは「イエス」のヘブライ語訳であり、「『お方』のご意志によって善也はこの世に生まれたの」(94)である。善也は生まれながらにして、母親の子供であると同時に、神の子どもなのだ。

 ここに先述した阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件の奇妙な繋がりが現れている。一方は自然災害で、もう一方は人災なのだから、表面的にはその二つは関係を持ちえない。だが大澤真幸のように、そこに何かしらの社会的な意味をみることは可能だ。そして村上春樹は小説内でそれを行う。地震と宗教の両側面を、一つの作品内で描いているのだ。

 しかし地震も宗教も、善也にとっては間接的な事件に過ぎない。地震の被災者のボランティアに向かうのは母親であり、宗教を信じているのも母親である。この観点からいうと、本作の宗教の描き方は、宗教二世の問題を扱った今村夏子の『星の子』に似ているかもしれない。異なる点は、『星の子』では主人公が宗教にたいして反抗することはないが、『神の子どもたちはみな踊る』は宗教にたいする抵抗が前提になっている。善也は中学生のころに、信仰を捨てた。母は深く悲しんだが、「善也の棄教の決意は揺るがなかった」(p.98)のである。

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考察・感想

母の磁場を逃れ、父探しの物語へ

 善也は、信仰を捨てることはできたが、母親から離れることはできなかった。一人暮らしを始めるチャンスを逃した善也は、25歳にして阿佐ヶ谷の賃貸マンションで母親と同居している。彼女の布教活動にも付いていく善也は、宗教から離れることはできても母という磁場から逃れることはできていない。

 善也にとって震災は、母を遠ざける外的要因となる。母親が信者とともにボランティアとして大阪に向かうことで、善也はようやく母親から遠ざかることができる。彼女の存在や彼女が訪れた関西は、「自分からも、自分の向かいに座って熱心に雑誌を読んでいる男からも、何光年も遠く離れたところにあるように善也には感じられた」(p.96)。

 母の磁場から逃れた時、善也の「父探し」の物語が始まる。父親は右耳の耳たぶが欠けているということを母の証言から知っている善也は、仕事からの帰宅途中にその特徴を有する男性を追いかける。男性は暗い路地を抜けて、開けた野球場についたとき姿を消す。

父探しの果てで 宗教からの解放へ

 彼は「父探し」が失敗におわるとき、「僕はいったいこのことで何を求めていたのだろう?」(p.106)と自問する。「父探し」は母や宗教とは異なる形での、アイデンティティを求めた運動だった。しかし、その先には暗闇しかなかった。父を見つけるどころか、右耳の耳たぶが欠けた男性と喋ることすらままならなかった。ところが、そこで善也はある種の解放を感じる。彼は「僕自身が抱えている暗闇の尻尾のようなもの」を「目にして、追跡し、すがりつき、そして最後にはより深い暗闇の中にはなったのだ」(p.105-106)という。彼は「父探し」を終え、『お方』の呪縛から逃れているのだ。そして、誰もいない、しかし、誰かが見ているように感じる野球場のマウンドのうえで、かつての彼女が「かえるくん」みたいと形容した踊りを披露する。そのとき彼は、『お方』=「神」の存在に折り合いをつけているからこそ、「神の子どもたちはみな踊るのだ」(p.109)と言ってのけるのだ。

 母を想い、恋人との過去を回想した善也は、田端との最後の会話を思い出す。善也の母に肉欲を感じ求めたことを田端は、そのことを善也に謝ろうとする。そのとき善也は田端の手を握り、自分の心の内を伝えようとする。「謝ることなんかありません」「僕らの心は石ではないのです」(p.112)。善也が信仰を捨てるきっかけになったのは、「父なるものの限りない冷ややかさ」であり「暗くて重い、沈黙する石の心だった」(p.98)。その意味で彼は、宗教に非コミュニケーションの暴力性をみたのだった。ここで対置されるのは、踊りであり、「伝え合うこと」(p.112)である。彼は宗教や「父」を否定したのではない。むしろその関係性を乗り越えたようにみえるのである。宗教や「母」や「父」から離れ、その関係性でしか語ることのできなかった状態を乗り越えた善也は、自らの踊りを「神の子どもたちはみな踊るのだ」と言ってのけたように、「神様」(p.112)と口に出すのを憚らない。ここに善也の宗教や母への、これからの向き合いかたが暗示されている。

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参考文献

村上春樹「神の子どもたちはみな踊る」(『神の子どもたちはみな踊る』)、新潮社、2000年

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