概要
「本当の旅」は本谷有希子の短編小説。2018年に講談社から出版された『静かに、ねぇ、静かに』に収録されている。
SNS時代の旅を主題に、ハネケンとづっちんとヤマコのマレーシア旅行が描かれる。
旅をテーマにした小説はほかにカズオ・イシグロ『日の名残り』、スウィフト『ガリヴァー旅行記』、村上春樹『海辺のカフカ』、乗代雄介『旅する練習』などがある。
純文学はほかに、森絵都『カラフル』、今村夏子『星の子』、川上弘美『センセイの鞄』、山田詠美『僕は勉強ができない』、遠藤周作『沈黙』、梨木香歩『西の魔女が死んだ』などがある。
本作は「日本純文学の最新おすすめ有名小説」で紹介している。
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登場人物
ハネケン:40代の男性。づっちんに憧れている。自作農を営むがお金がない。しかしそのようなネガティブなことを考えてしまう自分を反省している。
づっちん:実家暮らしの40近くの男性。オリジナリティーがある。インスタ映えする写真を撮るのが得意。特異な世界観の持ち主。
ヤマコ:40代近くの女性。
あらすじ
羽田空港で待ち合わせて数年ぶりに再開したハネケンとづっちんとヤマコはマレーシアに向かう。40歳に近い彼らは、年齢を感じさせず彼ららしさを保ち続けている。久しぶりに会うのに、その感じがしないのは直前までSNSで連絡を取り合っていたからだ。
彼らはラインで連絡を取り合いながら、搭乗手続きをする。持ち物の7kg制限を超えていたずっちんは、並んでいる人々に陰口を叩かれるけれど、その様子を動画で撮ってSNSで共有すれば不思議と楽しい気分になる。フードコートのおばさんがトロトロしているので、ずっちんは悪態をつく。そして三人の集合写真の背後に映り込むおばさんを、編集で消去して共有するのだった。
マレーシアでは男性とか女性と関係なく、自分らしさを磨きながら旅行を楽しむ。しかし、どの自撮り写真も同じ構図でマレーシアにきた感じがしないことや、そもそもマレーシアが都会であることにハネケンは不満を持つ。お金がないハネケンは旅行を誘ったずっちんを恨むが、そこに自分の弱さをみてすべてを肯定しようと励む。
屋台に三人で向かったあと、ハネケンは撮る映像に独自性をだすために、ずっちんとヤマコの後ろ姿を撮り続ける。そのようにマレーシア旅行の記憶の断片を、保存してはその場で共有する。
ずっちんがおすすめするマッサージ屋に向かうためにタクシーに乗る。しかしタクシー運転手は言葉を解していないどころか、人気のない方へと進んでいく。途中、見知らぬ男性が突然乗り込んでくる。不安に思った三人はラインで状況を確認し合うも、「ヤバイ」と書き込むたびに本当のヤバさが遠のいていく気がする。
廃墟の近くで降ろされた三人は、死が近づいていることを薄々感づきながら、逃げることがでかいない。あろうことか自撮り棒を手に、「クアラルンプゥゥゥル!」と叫んで集合写真をとる。ディスプレイの片隅に、何かが近づいてくるのを気づきながら、フラッシュがたかれるのを待っているのだった。
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解説
SNSを肯定的に描いた作品
新たな時代がやってきた。ソーシャルネットワーキングサービス(Social Networking Service)、通称SNSは、われわれの生活を一変させた。家にいても外にでても、いまやSNSは欠かせない。アメリカ型ファストフードの世界的普及は、どこの国でも「マクドナルド」があるという点で土地の固有性を失わせたが、この傾向はSNSの浸透によって新たな段階に足を踏み入れたといってよい。いま、ここで、この瞬間、相互に簡単に連絡を散り合える時代。プライベート(私)とパブリック(公)の境界がなくなり、どこにいても同じポーズの写真を撮って、加工し、共有する時代。現代はまさにSNS全盛の時代なのだ。
「SNS」は「文学」にとって極めて相性が悪いように思われる。「文学」は、ある種の想像力、すき間、偶然、時間、距離、不可能なものを描いてきたのだが、「SNS」は想像力の欠如、時間と距離の喪失であり、のっぺりととした抑揚のない空間を生み出す。SNSによる「情報共有の時代」においては、記憶や偶然などは意味をなさない。加工されて共有された画像だけが記憶を作るからだ。
そんな相性の悪い「SNS」を本谷有希子は軽快に描く。短編集『静かに、ねえ、静かに』の頭文字は「SNS」だ。SNSに囲まれた人々の生活に、文学的想像力は何を見出すのか。
「本当の旅」は、久々に出会ったハネケンとづっちんとヤマコの三人による、SNSをお供にしたマレーシア旅行の物語である。SNS時代の「本当の旅」とは何か。普通の小説家なら「SNS」が如何にダメなのかを巧みに描くところだが、本谷は「SNS」を肯定的に描く。というより、「SNS」全盛の時代を代表するような、肯定的な人物を描く。武田砂鉄による解説の題名は「肯定!肯定!肯定!」だ。一に肯定、二に肯定。一瞬ハネケンにあらわれる醜い感情は、自分の弱さだと断罪されて、肯定に反転する。その肯定の磁場はあまりに強いため、背後に蠢く死の匂いにすら気づかない。いや、気づいていながら、肯定の感情によって直視しないようにする。戦争があっても、震災があっても、悲惨な現実をSNSに書き込み、それによって残酷さから目を背ける行為は、われわれの日常だ。SNS時代の感性を、旅を通してここまで面白く描いた小説は、他に見当たらない。
考察
冒頭から文章の巧みさが光る
約束のKカウンターで、づっちんとヤマコが揃って立っている。
僕を待っている。
その光景。何気ない、光景。
見た瞬間、もう今回の旅の目的はほぼ達成されたかな、と思う。
午後九時半の羽田空港国際線出発ロビーに、二人が本当に来てくれているということ。
僕ら三人が集結できていること。
それよりも大事なことなんてないという思いに胸が詰まりそうになりながら、僕は急ぐ。人混みを急ぐ。でも、足を止める。あえて止める。そういうことがもっと大事なんじゃないかなと、ふいに思えたのだ。(9)
「本当の旅」は、約束のKカウンターで二人が立っているところを、遠くからハネケンが眺めている場面から始まる。印象的なシーンだ。ハネケンの言い方に倣えば、「冒頭の部分を見た瞬間、もう今回の読書の目的はほぼ達成されたかな、と思う」と言いたくなる。ここでハネケンの「ほぼ達成された」と言うセリフを、残りは現地での楽しみととってはならない。SNS時代の「旅の目的」とは、写真や動画を撮影し、加工し共有し、それをリアルタイムで見ることなのである。
「それよりも大事なことなんてないという思いに胸が詰まりそうになりながら」は、一文としては長くボッタりとしていて、文章の物理的な長さからも「思いに胸が詰ま」っていることが窺える。「僕は急ぐ。人混みを急ぐ。」と短く句点で区切られていて、読者も読むペースが上がっている。しかし「でも、」によってペースを落とされつつ、「あえて」が挿入される。旅は急ぎすぎてはいけないし、欲してたものが目の前にあっても慌ててはいけない。一度止まって、この時間を味わう。そういうことが「大事なんじゃないか」と思えてくる。なるほど、確かにそうで、もしかしたら読書にもあてはまることかもしれない。「読書」だって一種の「旅」だ。同じペースで読んではいけない。立ち止まり、考え、ペースを落とし、そうした時間を味わうべきなのだ。
だが、この冒頭には大事な部分が欠けている。周囲にいるはずの人や、その場の様子の描写が一切描かれていないのだ。一体これはどうしてなのだろうか。
自撮り時代と風景の喪失
ハネケンは二人と言葉を交わす前に、取り出したスマホのシャッターを押し、その写真をラインに送信する。二人は同時にスマホをいじり、今度はずっちんがスマホをこちらに向けて写真を撮ってラインで共有する。この時になってようやく、ハネケンは人物を見る。ただしその人物とはハネケンである。
グループラインに届いた写真の中で僕が笑っていた。週末にオンラインストアで取り寄せたグラフィックTシャツノ赤が映えていて、ほっとする。短パン、サンダル、麦わら帽子という軽装も肩の力が抜けて、いい感じで僕らしい。屈託なく笑っている僕らしい僕。下手したら三十代前半に見える僕。これが今、づっちんが見ている世界なんだ。づっちんの視線を、ラインを通じて僕らは今、共有してるんだ(10)
ラインを通じてづっちんの眼差しを「共有」することで、ハネケンは自分の姿を確認する。そして「屈託」のない笑顔と軽装の出来栄えに「ほっと」する。しかし何故「ほっと」したのだろうか。
先に結論から述べておこう。この小説は、SNS全盛の時代を肯定的に描いた小説であると同時に、インカメラによる自撮りが撮影のデフォルトになった時代と、それによって変化した新たな感性を描いている。その新たな感性は、小説においてどのような変化をもたらしたか。「内面」と「風景」の消滅である。
先のシーンを自撮りがデフォルトという立場から捉えてみると、「ほっと」した理由は明らかだ。ハネケンにとって写真とは自撮りであり、ポーズをとり加工できる自画像であった。服装に対する彼らの評価は問題にならない。自撮りはSNSで共有されて未来で見返した時に、「本当」見られるからだ。SNS時代にあって「見られる」ということは、未来にあるのであって、だからこそシャッターが捉える一瞬のポーズの出来栄えのために命がけになる。つまりハネケンはづっちんを介してもなお、自撮りが成功したことに「ほっと」したのである。
参考文献
本谷有希子「本当の旅」(『静かに、ねえ、静かに』講談社、2020年)