「何千万、何百万という無数の」家族のために—プリーストリー『夜の来訪者』

「何千万、何百万という無数の」家族のために—プリーストリー『夜の来訪者』

あらすじ

舞台はある裕福な実業家の家庭。娘の婚約を祝う一家団欒の夜に警部を名乗る男が来訪し、ある貧しく若い女性(エヴァ)が自殺したことを告げる。四人の家族と婚約者の過去が暴かれ、全員が女性の自殺に深く関わっていることが明らかになっていく

登場人物

警部 バーリング家に現れエヴァの自殺を告げる、夜の来訪者。

アーサー・バーリング 裕福な実業家で「抜け目のないビジネスマン」。

シビル・バーリング アーサーの妻。

シーラ・バーリング バーリング夫妻の娘。ナイーブな女として登場するが、次第に社会的な意識に目覚めていく。

エリック・バーリング バーリング夫妻の息子。呑んだくれ。

ジェラルド・クロフト バーリング家の競争相手であるクロフト者の御曹司。シーラの婚約者。

エドナ バーリング家の女中。

顕在化する家族の不調和

 原題は An Inspector Calls 。スリリングな展開とラストのどんでん返しが魅力的な、イギリスの劇作家J. B. プリーストリー(J. B. Priestley, 1894-1984)の代表作。1954年にイギリスで、2015年には香港で映画化、また1982年と2015年にはテレビドラマ版も制作されている。

 表面上のプロットをなす各人の過去が明るみに出される過程だけでもなかなかに緊張感があるのだが、その裏に垣間見える家族の問題によって、作品に一層深みが加わっている。バーリング家には、これまで顕在化していなかったかもしれないが実際にはすでに蓄積していた小さな不幸の影が見える(これは警部がエヴァ・スミスについて「何千万、何百万という無数のエヴァ・スミスや、ジョン・スミスのような男女」(125頁)がいると言っているように、芝居を見る多くの観客の家族にも潜んでいるもののはずだ)。

 例えばアーサーは家長としての自分をいささかの過剰さを伴って主張するが、実は妻のほうが「社会的身分は上」(4頁)であることがさりげなく示されており、彼の態度の裏には家長になりきれないことに対する不満が潜んでいるように思われる。息子のエリックは父を「ひとが困ってるときに頼みに行けるようなタイプの父親じゃない」(121頁)といい、親に隠れて飲酒癖に耽っている人物であり、独身男性に恋愛・結婚を迫る社会的圧力を意識したような台詞も口にしながら、デイジー・レントンとの情事を告白する。

夫婦の関係、親子の関係

 こうした視点から見ると、バーリング夫人が「バーリングの妻だ」と名乗って相談に来た女性を厳しくはねつけたこと(97頁)も微妙な色合いを帯びてくる。シーラは鏡に映る自分の顔を見ていたところを、美しいエヴァに笑われたことに怒るのだが、これと同じようにバーリング夫人も、夫との関係になんらか不満を感じていたところにバーリングの妻を名乗る人物が現れたために苛立った、少なくともバーリングの妻としての日常の不満が彼女の報復を過激にする方向に作用したという可能性はないだろうか。しかしその一方で、いざというときになると「いまにね、お父さんがどうしたらいいか、決めてくださるから。(期待して夫の方を見る)」(136頁)と途端に家長の傘の下に入りたがるあたりは、シーラの親から独立していく態度と対比的に働いて、問題の根の深さを感じさせもする。

 また警部が帰ったあとの家族での会話は、シーラおよびエリックと両親との間にどうしても乗り越えられない溝があることを示している。両者のあいだで交わされる言葉はもはやたがいに外国語であるかのようにあまりにかけ離れており、シーラとアーサーのあいだに意志の疎通が成立することはない。こうなっては、シーラはただリビングから去って一人で考え込むしかないのだ。こうした家族におけるコミュニケーション不全は当然このとき初めて生じたわけではないだろう。むしろ警部が訪問してくる以前からこの家族はすでに壊れていたということが、ここで示唆されていると考えることができる。

 こののように『夜の来訪者』は、たんなる登場人物のスキャンダラスな過去だけでなく、すでに潜んでいた「家族」の問題をも暴くのであり、この意味で、これまでの人生全体が揺るがされる不安を覚え「こわくなってきた」と述懐するシーラの感覚は正しい。最後にバーリング家にかかってくる電話は、女性の自殺が事実であろうとなかろうと、この家族が抑圧してきた問題がいよいよ表面化せざるを得なくなったという事態を示しているのかもしれない。

参考文献

プリーストリー『夜の来訪者』安藤貞雄訳、岩波文庫、2007年。

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