『アメイジング・スパイダーマン』シリーズが不評だった本当の理由

『アメイジング・スパイダーマン』シリーズが不評だった本当の理由

仮説1 親探しの凡庸さ

 映画版『スパイダーマン』の第2シリーズ『アメイジング・スパイダーマン』は、文字通り驚愕アメイジングの大失敗に終わり(映画評価サイトRotten Tomatoesで「腐っている」との評価を受けたスパイダーマン映画は本作だけだそうだ)、予定されていた第3作は製作されないままに打ち切りとなった。

 低評価を下している論評をみてみると、おおむね物語の作り方の部分、冗長さや要素の詰め込みすぎといった欠点を指摘されている。個人的にプロットの錯綜は特に気にならなかったのだが、プロットに難ありということ自体は同意見で、具体的にはそれは親子関係の配置に関わる。

 この世に生を受けた者ならば誰もが肝に命じるべき万人必修の真理「大いなる力には大いなる責任がともなう」(With great power comes great responsibility)は第1シーズンでスパイダーマン(ピーター・パーカー)がことあるごとに思いうかべる言葉だが、この智慧を授けたのは彼の叔父である。ピーターの両親は遠い昔に幼い息子を残して姿を消しており、彼は叔父と叔母に育てられてきた。ピーターはそのことをことさら思い悩む様子もなく、叔父のありがたい教えを胸に日々街の警備にあたるのである。

 これと対照的なのが彼の親友ハリーだ。父を深く愛しながら父に評価されないことを悲しむハリーは、父がスパイダーマンに殺されて以後、復讐を果たすべく蜘蛛のヒーローをつけねらう。第1シーズン第3話には明確に『ハムレット』を思わせるシーンが散りばめられているのだが(「わたしを忘れなるな」(Remember me!)など)、この父子のドロドロした復讐プロットはハリーに一任されており、ピーターはあくまで叔父の教えと共に生きるちょっと気弱で天真爛漫なヒーローである。ここには心が晴れるような明るさがあり、だからこそ観客は素直にピーターを応援できるという仕掛けになっている。(ちなみに叔父というのは伝統的に、主人公を共同体からつれだして外の世界を見せてあげるという機能を担いがちな存在だとおもう。どこかアメリカ的という感じもあるかもしれない。)

 ところが! あろうことか、『アメイジング』のピーターは親の失踪の真実が知りたくなってしまうのである。なぜ両親は自分を捨てたのか。科学者であった父親は何を研究していたのか。悪に手を染めていたというのは本当なのか……。それだけではない。ふたたびあろうことか、ピーターは恋人グウェンの父親(第1話で死亡)の言葉(娘に近づくな)まで真に受けて悩みに沈んでしまうのである。いわば第1シーズンのハリーの悩みをここではピーターが引き受けている——しかも自分の両親のことでただでさえ頭がいっぱいなのに、グウェンの両親のことまで抱え込んでしまうのである。

 そして、このすべてが信じられない
(アメイジング)
ほどに凡庸なのだ。親子関係の葛藤、起源探し、親の呪い……。この世に生を受けた者ならば誰もが知る悩みだろう。第1シーズンの「叔父」的なさわやかさはどこを探しても見当たらない。

仮説2 その本当の理由――復讐のゆくえ

 しかし、本作の不評の理由は本当にそれだけだろうか。わたしはこの作品に向けられた観客の気まずそうな不満顔に、もうすこし複雑な事情があるのではないかと思うのである。

 さきほどはこの作品の凡庸さを強調してしまったが、実は本作には、我が目と耳を疑うような驚愕アメイジング!の展開がある(しつこくてごめんなさい! ルビ機能が追加されたと聞いて嬉しくて……!)。恋人の(しかしピーターとの関係がうまくいかず新たな生活を始めたいと願う)グウェンが、イギリスのオクスフォード大学への留学を希望しているというのである。イギリス……?

 スパイダーマンはアメリカン・ヒーローであり、ニューヨーク・シティの治安を守る正義の味方である。第1シーズン第1話からこのかた、彼はニューヨークの安心安全だけを守ってきたのだ。

 このことを欺瞞だと責められる筋合いはない。同じスーパーヒーローものの『バットマン』でも、本邦の『新世紀エヴァンゲリオン』でも、とにかく囲われたある狭い場所に舞台を設定してそこを世界のすべてとみなし話を展開するということは慣習上よくある。それに何よりスパイダーマンにとっては蜘蛛の糸が武器のすべてなのである。合衆国がいくら広いといっても広大な山や砂漠や湖では彼は戦えない。これでもかと乱立する高層ビルが不可欠なのだ。スーパーヒーローといえど適材適所というものはある。

 しかしグウェンが「オクスフォード大学」のひと言を口にした瞬間から、観客の心にさざなみが立ち始める。そうか、世界はニューヨークだけじゃないのか……。そりゃそうだ。ちょっと西へ行けばペンシルヴェニア州、太平洋岸まで行けば時差3時間、合衆国は横長なのである。しかし、世界はアメリカだけじゃないのか……。そりゃそうだ。世界には196の国が………

 そんなことを言いだしたらスパイダーマンの世界がぶっ壊れてしまうのである。ニューヨークの外のことは考えない。ピーターとハリーが通うのはニューヨーク・シティの名門コロンビア大学であった。そこから自然にニューヨークのヒーローになるから何となくそれでいいということになっているのであって、ひとたび外の世界を意識してしまったら、犯罪者はニューヨークだけにいるのではない、ニューヨーク市民の安全だけが尊いわけではない、彼らだけが特権的に守られる正当性など微塵もないという当然の疑問が頭をもたげてしまうのである。

 そして、あろうことか、ピーター本人がこの事実に気がついてしまう。英国へと旅立つグウェンに送った “I LOVE YOU” のネオンが輝くブルックリン・ブリッジの柱のてっぺんで、恋人とロマンチックに抱き合いながら、21世紀のヒーローたるスパイダーマンは当然、グウェンに夢を諦めてアメリカに残ってくれなどとは言わない。君について行くよ、ロンドンにも犯罪者はいるだろう、君とイギリスにわたってそこでスパイダーマンをやるよと告げるのである。

(アメイジング・スパイダーマン2)

 大変残念ながらこうなってしまっては、もうグウェンを生かしておくわけにはいかないのである。スパイダーマンはアメリカのヒーローである。ニューヨークのヒーローである。しかしこのことには実のところ何の根拠も正当性もない。誰一人この場所が地球上の一点に過ぎないことを口にしないという条件の上に、きわめて不安定に成り立っていたのが『スパイダーマン』の世界だった。オクスフォード大と言い始めたときから何かがおかしいとは思っていたが、ここにいたってグウェンがこの世界の前提を破壊する敵であることは明確になっている。

 かくしてグウェンはピーターとともに戦いに巻き込まれる。鉄筋の建物の高層での戦闘で、彼女の足場は『スパイダーマン』の世界の前提と同じくらい不安定である。ここで前シーズンにハリーが担っていた復讐のモチーフ、観客がピーターの側につきながらやや遠目に見て余裕をもって楽しんでいた復讐のモチーフは、いまや完全に観客自身のものになっている。われらのスパイダーマンを奪おうとしたグウェンに対する復讐を遂げ、彼を奪還しなければならない。戦闘が進むにつれ、その実現は着実に近づいてくる。

 しかし、観客はここでふたたびグウェンにたいする感情が変化しつつあることに気がつく。迫りくる彼女の死をいまかいまかとドキドキしながら待つうち、いつしか彼女を許してもいいかもしれないという気持ちになり始めているのである。思えばグウェンは何も悪くなかった。そもそも彼女が留学を決意したのだって、自分の知らぬところで父親がピーターに勝手に約束させた取り決めが原因だった。それがなければ二人はうまくいっていたはずだったのに、21世紀のヒーローともあろう者が、あろうことか! 男同士の約束を優先し、おまけに親子関係などという凡庸極まりない悩みをこじらせてすべてをおかしくしてしまったのである。いくらスパイダーマンを失いたくないからといって彼女に責任を負わせたのはやりすぎだった。イギリスにはやれないにしてもグウェンも自分の目標に向かって歩きつづけられる道が、そういう折衷的な解決策が、まだ何かあるはずだ。グウェンにはこれからも、次作でも、生きつづけて欲しい……

(アメイジング・スパイダーマン2)

 そう願った瞬間、グウェンは高所から落ちていく。観客は固唾を飲んで見守る。スパイダーマンが手を伸ばし糸を発射する。地面に近づくグウェンに、糸がぎりぎりで到達する。さくっ、という音がし、地面から数センチ上でグウェンが揺れている。さくっ……?

 それは物が何かにかすったような、乾いた弱い音である。今の音は何を意味していたのか。ぎりぎりで間に合ったということなのか。死をあえて大袈裟に見せないスタイリッシュな表現なのか。そもそもグウェンと地面の接触音ではなく、糸が張った音だったのかもしれない。ぶらぶら揺れるグウェンの生死の判断がつかない観客は、感情のやり場を見失う。

 つづく葬式のシーンでグウェンが死んでいたことを観客は知る。しかしここではもうカタルシスは得られない。わたしたちは一度はグウェンへの復讐を望みながら、その希望を翻してしまった。後ろめたい気持ちを抱えながら、それでもグウェンに生きつづけて欲しいと願ってしまった。せめてグウェンの死が即座に把握できピーターが泣き叫びでもしたら、彼とともに涙を流すことができたかもしれない。けれど「さくっ」のあとの宙ぶらりんの十秒間が、その可能性すら塞いでしまった。どんな顔をしていいか決められないその時間は、カタルシスのやり直しすら許してくれなかった。

 ふつふつと怒りが湧いてくる。弄ばれただけではないか。エンディングも訳の分からない新たな敵との意味不明なバトルである。ニューヨークのヒーロー、スパイダーマンは無事復活した。結局はグウェンへの復讐も果たした。映画は澄ました顔をして次作へのタネを蒔いている。しかしその間のどうにも納めどころの見つからないこの気持ちはどうしたらよいのか……。

 最悪である。低評価である。腐ったトマトである。許せないのである。かくして『アメイジング・スパイダーマン2』は史上最低評価のスパイダーマン映画となった。しかしそうだとすると、この作品は意外にも、観客に居心地の悪さを強いながらスパイダーマンの世界の前提をラディカルに問いなおす、文字通りすばらしいアメイジング映画だということになりはしないだろうか……?

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