殺し屋系Youtuberのモーニングルーティーン(をからかう映画) 🔫‪🤣〜『ザ・キラー』の違和感〜

殺し屋系Youtuberのモーニングルーティーン(をからかう映画) 🔫‪🤣〜『ザ・キラー』の違和感〜

・プロローグ〜なにを見てもフィンチャーを思い出す〜

ハリウッドの鬼才デヴィッド・フィンチャー監督の最新作『ザ・キラー』がおもしろいのかどうか僕にはよくわからない。まさかつまらないと言う人はいないだろうと思うが、おもしろくないと言う人がいてもおかしくないような気もする。
フィンチャーの映画を見る時にいつも感じる「デヴィッド・フィンチャーの映画を見ている!」という喜びの感覚も不思議と薄い。
時を替えところを替え様々な車種の車に乗り込み冷静沈着に追跡を続ける主人公の横顔を捉えるバストショットに『ゴーン・ガール』のハンドルをぎゅっと握り締めヒステリックに泣き叫びつつひたすらに逃走する女の反転した姿を、明暗のコントラストを分かつ室内のライティングの明の下に被害者の末後の表情を映し出し今まさに人間存在に振りかからんとしている暴力の唐突さ理不尽さを強調する一方、殺し屋の顔には薄闇のヴェールを被せ、まるで死神か災厄そのものといった風情の非人間的な不気味さを際立たせる弁護士殺しの演出に『セブン』『ゾディアック』のキラーたちにわれわれが味わってきた恐怖を、また『ソーシャル・ネットワーク』『ベンジャミン・バトンの数奇な生涯』中で余人の理解の及ばぬモンスターとして表象され次第に周囲から孤立していく主人公たちの孤独を、キラーやターゲットたちの豪壮な住まいや高級ホテルの冷たく張り詰めた表情、近代建築の他人行儀で威圧的な美の佇まいに『ドラゴン・タトゥーの女』のラストシークエンスを忘れがたいものにしていた犯人の空虚な内面を明かす無機質な邸宅の内装を、そしてなにより飛行機の座席に腰かけている主人公のショットとアナウンスを予告するポーン!という間の抜けたアラート音の繰り返しに、記憶の連続性が損なわれはじめ次第に現実と妄想が混濁していくさなかまさにこのポーン!によって目覚め、いつの間にか機内のシートに収まっている自己の肉体を発見する『ファイトクラブ』の主人公の不安なアイデンティティ、シーン反復に連れてわれわれと移動の感覚を共有するこのホワイトカラーの青年が蓄積していくうんざりするような疲労と倒錯した自己認識を可能にする暴力(我痛む、ゆえに我有り·····)のしらじらしくざらついた感触を、それぞれたしかに受け取り、映画中の至るところでフィンチャーのフィルモグラフィーを喚起させられ続けるにも関わらず、だ。

・否定形のリアリティ〜フィンチャー映画の快楽〜

暴力と孤独。不安と逸脱のコーラス。過ぎた野心に差し向けられる代償。
現代的な(特にアメリカ型の)都市空間に囲繞されてある者のからだに澱のように降り積もった孤独がやがて暴力の激発をひそかに準備し、暴力が結果するヒト・モノ・コトの具体的な損傷の痕跡が別の者に潜在的な不安の感覚を呼び起こし、不安の漠たるただよいは退屈な日常からの逸脱と変身の願望を誘い出しはするものの、いざ新たな局面に向けて差し出された冒険的な一歩に対し、いまだ足踏み状態の集団が要求するのは懲罰としての性格を後ろ手に隠し持った別種の孤独であり、その孤独が当初のそれと混じり合い見分けがつかなくなった時点においてまた·····
平生は安全な場所に留め置かれている存在不安の微量の集積は、フィンチャーの映画において、些細なボタンの掛け違いによってもはや無視できぬ巨大さにまで膨れ上がり、爆発する。
その爆発の余波は単に行為者の周囲に現れ出る物理的な被害の範囲を超え、映像作品としてスクリーンに固着されわれわれの視覚の共有物へと高められることによって、都市に生きる者のリアリティが、その周囲ぐるりを取り巻く生活環境それ自体の中に埋め込まれた孤独や恐怖の因子に抗うべく、愛や希望といったポジティブなエネルギーによってというよりむしろ、都市空間を横切る絶えざる移動の経験によって獲得され日々着実に積み上げられていく疲労、社会集団からの逸脱の夢を手軽に成就する装置としての暴力(Twitterのバズツイートや居酒屋で飛び交う悪口の応酬から、残虐な無差別殺人まで。あるいは自己表現や創作という営みについてすら、昨今ではある種の暴力性が云々される)といった、ネガティブなエネルギーが行為者のからだに刻み付ける痕跡の疑いようのない煩わしさによって、いわば否定形の形で構成されている、という逆説的な真理を暴露していく。
フィンチャーの映画が真に恐ろしいのはまさにこの点だ。
彼の映像世界の目撃者となるとき、われわれは、極大化された暴力の行使者たるキラー、その理不尽な被害の享受者となるターゲット、また両者の中間に位置するさまざまな欲望と鬱屈を持て余した無数の人々と無関係なままではいられなくなる。なぜなら、彼らを生み育ててきた都市環境をわれわれは少なからずバックグラウンドとして共有しているはずだからだ。
こうした身震いするような想像的同一化の経験は、あくまでエンターテイメントの枠組みにおいて、虚構の作品を楽しむ過程において果たされるのだから、観客に対して誠に礼を失することがない。映画を、フィクション作品を見ることの快楽のひとつがここにあると言っていいだろう。

・『ザ・キラー』の違和感

生活の形態が高度に合理化された現代社会においては、個人のポジティブなエネルギーの発露はなにかしら大きな構造の中に取り込まれ霧散するかしらずしらずのうちに集団的な利用搾取の対象となるほかなく、それゆえわれわれはネガティブなエネルギーの忌々しいほど着実な蓄積にのみ逆説的に人間らしい生の実感(リアリティ)を見出している、という乾いた省察をあくまでエンターテイメントの枠組みの中で展開する点にひとまずフィンチャーという作家の個性が発見されるとして、そうした特徴は本作の中にも表れ出ている。
『ザ・キラー』のプロットは大雑把に言って、七つの章立てで区切られた七つの都市(『セブン』以来久方ぶりのタッグを組んだ脚本家アンドリュー・ケヴィン・ウォーカーに配慮した数字だろうか)のあいだを主人公が横切っていく移動の運動によって継起し、その運動の軌跡が“The〇〇”というように極度に抽象化・記号化された者たちの生活を強引に結びつけ、殺人という極大化された暴力の光の下に照らし出すことによって、ほんの束の間人間生命の固有の輝きが浮かび上がってくるという倒錯した構造を備えている。
この時キラーは匿名者たちに名前を授ける神にも等しい位置にまで高められフィクショナルな聖性を得るわけだが、しかしその肉体は移動を重ねるごとにあくまで現実的に傷つき、疲れ、倦怠していく。
また、貸しガレージに大量の偽造パスポートや車のナンバープレートをコレクションしており、それぞれ異なる街の空港やレンタカーショップで毎回別々の名を呼ばれる(「〇〇様」と呼びかけるスタッフの機械的な笑みと不審気な表情が素早いカット繋ぎで律儀に映し出される)キラーの不安定なアイデンティティは『ファイトクラブ』の主人公のそれと同質のものでもあろう。
もはや繰り返すまでもなくフィンチャー的な主題がここに表出していることは明らかだ。
しかし、である。
要素分解して眺めてみるにどこからどう見てもバッチリフィンチャー印が押された作品であるにも関わらず、それでいて本作の中にはなにかしら奇妙な、未知の感覚が息づいてはいないだろうか?
冒頭で「おもしろいのかどうか僕にはよくわからない」「フィンチャーみが薄い」などと穏やかならざることを書いたのは、実はこの点にかかっている。
というのも、特にファーストシークエンスにおいて映画が依拠しているであろうおもしろさの水準が、これまでのフィンチャーのどの作品とも、また僕が見てきた少なくないはずの数の映画のいずれとも、異なる場に位置付けられているように感じられたためだ。
「う〜ん、どうなんだろう?仮にこれがおもしろいのだとして、このおもしろさが参照しているおもしろさの水準はどうやら僕には馴染みがないもののようだ···」
筆者が味わったのはこうした奇妙な戸惑い、フィクション作品に対する全面的な移入をぎりぎりのところで押し止めるよそよそしさの感覚だった。それをある種の贋作感、作家本人によるパスティーシュが試みられる地点に生じるからかいの感覚と言い換えてみてもいいかもしれない。
おそらくは、程度の差こそあれ、似たような違和感を看取したのは筆者一人ではないのではないだろうか?
そこで以下では、具体的な分析を進めるなかでこうした違和感の構成要素を解きほぐし、他ならぬ「このおもしろさが依拠しているおもしろさの水準」を明らかにすることを目標としたい。

・タイトルシークエンスと結末淡白すぎ問題

開巻劈頭、タイトルシークエンス(映画のタイトルや出演者の名前等がクレジットされる短いクリップ。多くは本編の直前に置かれ、例えばアニメーションを使った演出が行われるなど、本編の内容と関わりを持ちつつそれとは異なる独自の存在性を持つ。ちなみにシークエンスとは「連なり」「まとまり」のことであり、複数のシーンによって構成された意味のあるひとつのまとまりを指す)のあまりのシンプルさ、短さに意表を突かれる。
レザーグローブに覆われた何者かの手指がライフルの手入れをしたり毒薬と思しい液体を注射器に吸引したり水を張ったバスタブにドライヤーを投げ入れショートさせたりする数秒ずつの短いショットの断片が代わる代わる現れては消え、画面に重ねられたタイポグラフィーが映画のタイトルや主要キャストの名前をわれわれに告げ知らせるやさっさと立ち去っていく。なんとその間約60秒、たったの1分!殺人にまつわる抽象的な情景が披露される演出にちなんで言うわけでもないが、まるで死の間際の走馬灯を見ているようなあっけなさなのだ。
スタイリッシュな作風のミュージック・ビデオ監督から出発し、その後長編映画デビュー、『ファイト・クラブ』における洞窟めいた人体内部を仮想カメラがうねうねと探索していき口腔から外に飛び出すや一気に視界が開け何者かに拳銃を突き付けられている男のまぬけ面のクロースアップへと逢着、映画本編のファーストショットにスムーズに接続される凝りに凝ったタイトルシークエンス(制作はケヴィン・トッド・ハーグ)によって名を高らしめ、本編から独立した作品として(いわば映画内に組み込まれたミュージック・ビデオとして)タイトルシークエンスを捉える流行を生んだあのフィンチャーにしてこの淡白さ!
同じようなことを二度繰り返すが、異常なまでの作品制作へのこだわりからこれまでお蔵入りした企画は数しれず、一見してさして重要とも思われぬ些細なシーンに何十回とリテイクを要求しては俳優をうんざりさせることで悪名高い、キューブリック以来の完璧主義者という不名誉な称号をほしいままにしているあのフィンチャーにしてこの淡白さなのだ!
これはおかしい。明らかに今までとは違う。
なるほど初期の華麗な映像技法を駆使したこれみよがしな作風から堂々たる風格を備えた古典主義的なものへと、フィンチャーの作風が変化してきたことはつとに指摘されているところではあるが、ここまでのシンプルさはやはり異例だろう。
同様に、結末の妙にあっさりした幕引きにも唖然とさせられる。いつものフィンチャーなら、暴力の終結→平穏の訪れ→でもそんなに簡単にはいかないよね〜暴力再発の予感はそこはかとなく残され·····などという90分前後の尺でまとめられたインディーズ映画のような微温的な匂わせハッピーエンドで物語を終わらせることなど有り得ない。なにかを匂わせる暇があったらそれそのものの姿を映し出し、もうええっちゅうねんというほど入念に展開を畳み掛けるのがこの作家の持ち味なのだから。
もっとも、本作はマッツ(アレックス・ノラン)&リュック・ジャカモンによるフランスの同名グラフィック・ノベルシリーズを原作としているため、もしかしたらこうした例外的な特徴は原作の内容にしたがった結果なのかもしれないが、その気さえあれば改変はいくらも可能なわけだから、それだけでは充分な説明になるまい。
いずれにせよはっきり言えるのはフィンチャーがなんらかの明確な意図を持ってこの淡白さを選びとったということであり、僕としてはそれを新たな局面へとジャンプするための挑戦の意思表示として受け取りたい。
というのも本作、若い!
まるでフィンチャータッチを自家薬籠中のものとした新人作家の鮮烈なデビューに立ち会っているような、あるいは作家本人による贋作の精巧な出来を見せつけられているような、初々しいニセモノ感が漂っているのだ!
既に映画史に残る傑作をいくつも撮り上げ、ハリウッドに確固たる地位を築いている大御所の尽きせぬ野心、若々しい挑戦の意欲にまずは拍手を送りたい。

・ファーストシークエンス長すぎ問題

異様に短くそっけないタイトルシークエンスに続いてわれわれが目にするのは、反対に、約20分間に渡って展開される異様に長ったらしくしつこいファーストシークエンスだ。
いったいこのアンバランスをどのように受け止めればいいのか?
シーンの流れを概観してみよう。
冒頭、コンクリート打ちっぱなしの無機質な部屋。三方を壁で覆われ、残る一方の壁面には四つの窓が嵌め込まれている。右には四連のすべりだし窓がひとつ、左には同種の三連窓が二つ、そして中央には一際大きい単独窓が。
このうち中央の窓、横長い長方形型の巨大なスクリーンだけが開け放たれており、まばゆく強烈な光を透過するとともに、正面に位置する円形の塔を備えた宏壮な建物の姿を映し出している。
この光景に対峙し、巨大なスクリーンと向かい合うように、椅子に腰掛け、窓外の景色をじっと観察している様子の一人の男。傍らに小型の電気ストーブが置かれ、男がグレーのハイネックセーターの上に同色のステンカラーコートを引っかけていることから、季節は冬、薄暗い部屋の中にほとんどなんらの物音も届いてこないため、明け方未明の時刻であると知れる。
断絶。不意にカットが切り替わる。
ジリリリリッ!というけたたましい電車の発進音に揺り起こされキラーが目覚めると、今度は鳥の囀りに加え自動車の走行音や人々のざわめきががぽつりぽつりと聞こえてくる。どうやらうつらうつらしているうちに寝落ちしてしまっていたようだ。しらじらと明けかかるパリの街は今や早朝の時刻に接している。
冬の朝、極端に物が少なく寒々しい部屋の印象はぽつりと置かれた椅子に一人座している男の孤独を強調している。
また、中央の窓に向かい合って座っている男の後ろ姿を画面中心に据え、そこからほぼ均等な位置に左右の窓を配するシンメトリーな構図も相まって、このショットはレオナルド・ダ・ヴィンチの名画『最後の晩餐』の室内の情景を彷彿とさせる。どことなく静謐で聖なる気配が感じられるのはそのためかもしれない。
···と、画面外から男のものらしきモノローグが聞こえてくる。
まるで新入りに事務作業の段取りを説明しているような落ち着いた口調で、この男、ザ・キラー(マイケル・ファスベンダー)が語るのは殺しの哲学だ。
“仕事”の前には準備運動を行いなるべくからだを柔軟にしておくべし。イヤホンからお気に入りの音楽を流し外界の喧騒をシャットアウトして集中力を高めるべし。狙撃の際には脈拍を60以下の数値に安定させて慎重に機会を伺うべし。自身が準ずるところのルールが事細かに説明され、それぞれの独白に応じた具体的なからだのアクションを導いていく。
ヨガマットを敷いてゆっくり深呼吸しながらストレッチを行ったり、ipodでザ・スミスの音楽を流してテンションを上げたり、歯磨きを終えた後シンクにアルコールを撒いて痕跡を消し去ったり。さらには場違いにも思える統計学上の数字や確率を巡る豆知識が披露され、「俺の(殺しの)打率は10割」であることが自慢げに明かされる。
要するにわれわれがここで見せられているのは、Youtube等でよく目にする類のコンテンツ、いわば‘’殺し屋のモーニングルーティーン(狙った獲物は逃がさない!百発百中!)”動画なのだ!
そんな殺し屋系Youtuber、キラーがなにより大切にしているのが“Stick to your plan”=「計画通りやれ」という文言から始まるルーティーンルール。

“Stick to your(the) plan.
計画通りやれ。
Anticipate, don’t improvise.
予測しろ、即興はよせ。
Trust no one.
誰も信用するな。
Never yield an advantage.
決して相手を優位に立たせるな。
Fight only the battle you’re paid to fight.
対価に見合う戦いにだけ挑め。
Forbid empathy.
感情移入は禁物だ。
Empathy is weakness.
同情は弱さを生む。
Weakness is vulnerability.
弱さは隙に繋がる。
Each and every step of the way,
ask yourself,
“What’s in it for me?”
計画のすべての行程において己に問いかけろ、「これがおまえにどんな利益をもたらす?」と。
This is what it takes.
What you must commit yourself to.
やるべきことを確実にこなせ。
If you want to succeed.
Simple.
成功を望むなら、答はシンプルだ。”

どうやら仕事に臨む際この文句を幾度も頭の中で反芻し、自らに言い聞かせることによってミスを防止しているものらしい(たぶん、Youtube動画のサムネにも使っているはずだ)。
はたしていくぶんの回り道を経た後、ついに正面建物のホテルの窓にターゲットが姿を現す。準備万端、1mmの計算の狂いもない。あとは慎重に狙いをつけ引き鉄を引けば、ほーらいつも通りシンプルに···
ミス!
なんとミスである。
放たれた銃弾はターゲットの白髪混じりの肥満気味の初老男性ではなく、その傍らでセクシーポーズをキメていたSMの女王様のからだを見事に貫通!
予期せぬ失敗を見て取ったキラーは慌てて荷物をまとめ、バイクの鍵の解錠に手間取りつつ、どうにか警察を巻き逃走する···

・張り込みシーン注意散漫問題

以上が本作のファーストシークエンスなのだが、長い!なにしろ長い。
なるほど殺し屋系Youtuberのモーニングルーティーンには新奇な味わいが感じられ日常の細部を綴る描写には映画的な旨味が発見されるものの、それにしても少々長過ぎやしないだろうか?
おまけに自称ホームランバッターが盛大な空振りを披露するものだから、「いやそんだけかっこつけといてミスるんかい!」と思わず爆笑しながら引いてしまった次第。
が、こんだけ引っ張っといてミスるには理由があり、ファーストシークエンスの冗長さがある程度意図されたものであることは、観客の期待を裏切るハズしのポイントがいくつか用意されているところからも明らかだろう。
序盤、キラーがイヤホンで聴いている(そしてわれわれの耳にも聞こえている)The Smithsの『Well, I Wonder』の音量が高まった瞬間、おそらく多くの者が「おおっと、なにか起こるぞ···!」と期待に胸を高鳴らせたのではないだろうか?が、肩透かし。なんとただ無意味にモリッシーの声が響き渡るだけなのである(笑)
どうやらターゲットの到着が遅れているらしい。
あきらめて街に出たキラーは組織からの連絡を受けたスマートフォンを足で踏みつけて破壊し、側溝に蹴り込むや平然とモノローグを続け、「俺がドイツ人観光客の格好をしているのはフランス人がもっとも忌み嫌う存在である(だから目立たない)ため」だとか「マクドナルドのハンバーガーはタンパク質補給にうってつけ」だとかどうでもいい上にかなり疑わしいトリビアを披露しつつ、ターゲットが宿泊予定のホテルの警備体制をチェックしに公園に向かう。と、一応は書いてみたものの、当人の行動がそのような合理的判断に基づくものなのかは甚だ心許なく、なんともルーズな張り込みシーンが展開されるに及んで、われわれの当惑はいっそう深いものとならざるを得ない。
ホテル正面に位置する公園のベンチに腰掛け、ドアマンの禿頭の男が常連客らしき老女を迎え入れる姿を観察するキラー。が、ドイツ人観光客のコスプレに身を包みパンズを取り分けたハンバーガーのパテとベーコン部分のみをパクつき、サングラス姿で周囲を窺っている中年男の姿はどう見ても不審者のそれだし、彼の視点を代替するカメラの動きはホテル前から公園を行き交う無関係な人々、そしてまたドアマンへと、あちらこちらを子供のごとき好奇心でもってさまよい、どうにも落ち着きがない。
部屋に戻ると、今度は狙撃用のスコープを使ってなおも観察観察ぅ!オープンカフェのテラス席にたむろしている客やウェイター、またまたドアマンへ、まるでシューティングゲームのように気まぐれに照準を定めていく。
だからその人らは無関係だろってのに(笑)
つーか、そんなに何度もついでのようにドアマンをガン見してしまって大丈夫なのか?仕事前のイメージトレーニングである点は理解できるにしても、ずいぶんと子供っぽく散漫なやり方ではないか。キラーが誰からも一度も視線を投げ返されないことが不思議でならない。
いったい、われわれの主人公は遊んでいるのだろうか?
一瞬、逸脱と中断の美学に彩られたコーエン兄弟の映画を見ているかのような錯覚に陥る。だが、あちらさんの主人公の典型たるぼんくら男と違い、われわれの主人公は成功率100%を誇る殺しのプロであるはずではなかったか?なにより本作はコーエン兄弟一流のオフビート・コメディではなく、あの‘’ハリウッドの完璧主義者”デヴィッド・フィンチャーの最新作であるはずなのだ!
挙句の果てが問題の誤射。
さんざん待たされた末にターゲット到着。長い長いモノローグが終わりに差し掛かるや、‘’Stick to your plan‘’から始まるルーティーンルールが唱えられはじめ、The Smiths の“How soon is now?”が再び爆音に高められ···一度目のハズしを経てどう考えても今度は成功する流れだ。
ところがわれわれの期待はまたしても裏切られてしまうのである!

・言葉の語りと映像の語りの矛盾/自己像と実像の乖離

いったいどういうことだろう?
成功率100%の殺し屋の微妙にピントのズレた行動の数々はなんだ、ファーストシークエンスの不自然なまでの長さ、わけても張り込みシーンのほとんど失笑ものの散漫さはなんなのだろう?
二つの意図が込められている、というのが筆者の見立てだ。
ひとつは、主人公キラーの自己像と実像の乖離を観客に向けて暴露する目的。
映画においてなにがしかの情報を観客に伝達するために使用される表現=“語り”を、言葉の語り、映像の語りの二種類に分けて考えていこう。
そもそも本作における“語り”は、キラーの移動の運動とその主観に寄り添う形で契機していき、圧倒的な分量を誇るモノローグ(一人称視点による言葉の語り)を軸として展開していくため、われわれが知り得る情報の範囲は基本的に彼が見聞きするもの、語るところのものと一致することになる。
キラーが知り得ない情報をわれわれが事前に知っていることはありえないし(ミステリーやサスペンスジャンルの映画においてはしばしば観客だけに前もって伝えられる映像的な手掛かりが登場するものなのだが)、キラーが「ぼくちんの成功率は100%!」と豪語すればわれわれとしては「すごい!この人は殺しのエキスパートなんだ!」と素直に信じ込むほかはない。つまり、本作では主人公と観客との間に通常のそれよりいくぶん強力な想像的同一化が発生する仕掛けが施されているわけだ。
とはいえ、語りの構造としてはたしかにその通りだと言えそうなのだが、現に映し出される映像がモノローグの内容を次々と裏切っていく点には注意が必要だ。三人称視点(神の視点)のカメラによって主人公を内側に含み持つより広範な視界をわれわれに提供し、そのありのままの姿を伝える映像の語りが、一人称視点の言葉の語りの特権性を逐一相対化していくのである。
どういうことか?
モノローグから判断する限り、おそらくキラーが信じ込んでおり、またわれわれに信じ込ませたがっている自己像は「冷静沈着で非情な殺しのプロ」といったものだろう。
だが、われわれが映像において現に目撃することになる彼の実像は、残念ながらそうしたイメージとはかけ離れたものだ。
ここまでの記述にも明らかなとおり、キラーの仕事ぶりからは子供っぽく気まぐれな性状が透けて見え、素人目に見てもツッコミたくなる詰めの甘い点が多い。
決定的なのが、「いかなる証拠も残さないこと」というモノローグをクールにキメた直後、スマホを足で踏み砕いて破壊する場面。もっともらしく自信満々なセリフとは裏腹の、信じられないほど杜撰な証拠隠滅の実態!キラーの行動にしばしば現れ出る自己認識と実態の相違は、銃やナンバープレートなど犯行に使用した物品をそのへんのごみ箱にボカン!と投げ捨てる乱雑な身振りのなかに引き継がれ、以後何度も強調されていくことになる。
以上をありのままに受け止めた上で、ファーストシークエンスの失敗を考え合わせるなら、おそらくは多くの者が次のような評価をわれわれの主人公に下すのではないだろうか?
「杜撰な計画と子供っぽい性格が仇となって、案の定仕事をしくじるまぬけ男」と(笑)
要するに、キラーの自己像と実像との間には当人にも意識されていない重大な乖離が見受けられるのだ。「冷静沈着で非情な殺しのプロ」という自己イメージは、実際にはそうなりたいと願っている理想の姿に過ぎないらしい。
ほとんど全編を覆い尽くすキラーのモノローグにはあらかじめ瑕疵が含まれており、それが自己認識と実態との相違を観客に伝えるガイドラインとして機能しているわけだ。
もうおわかりだろう。
ファーストシークエンスの長さはキラーのモノローグに内在している欺瞞性をじわじわと暴き立てるため、張り込みシーンの冗長さは言葉の語りと映像の語りとの著しい内容の相違を通して、われわれの主人公の真実の姿を観客に暴露するために必要とされたものだったのである。

・実はメンヘラかまってちゃん!?〜キラーの実像〜

では、キラーの実像とはどのようなものなのだろう?
犯行に及ぶ際決まってモノローグされるルーティーンルールでは、基本的に“Stick to your plan”というように“You”という人称が使われている。つまりキラーは観客に向かって理想的な自己像を演出する以上に、なによりも“You”=自分自身に向かってその内容を言い聞かせているわけだ。とすれば、あの膨大な言葉数は絶えず自分を説得し続けるためにこそ必要とされていることになり、それによって覆い隠されねばならない実像は「冷静沈着で非情な殺しのプロ」という自己像とは正反対の性質を持っている点を指摘できそうだ。
即ち、「繊細で傷つきやすいアマチュア」。
このように考えてみると、納得のいく点が多々見られる。
例えば、弁護士ホッジスの秘書スーザン殺害の際、あろうことかキラーは彼女の頼みをなんらの留保も付けることなく素直に聞き入れてしまう。「不審死では息子に生命保険が下りないから事故に見せかけて殺してほしい」という願いにしたがって、自宅の階段から突き落とす方法を選択するのだ。これは明らかに「感情移入は禁物だ。同情は弱さを生む」というルールに反する態度だろう。ターゲットにたやすく感情移入してしまう殺し屋としてあるまじきナイーヴで心優しい性格が窺える。
同様の性格は、後に見る通り、恋人を襲撃した犯人の一人である殺し屋ザ・エキスパートと対峙する場面において、相手の人間的魅力と巧みな話術にほだされつい自分も口を開き共感的な反応を示すなど、明確な弱点として浮かび上がってことになる。
そもそも、キラーのフェイバリットミュージックがThe Smithsである点も大いに示唆的だ。80年代のロックシーンで一世を風靡したバンド・スミスは、ヴォーカルのモリッシーが描く暗く陰鬱な歌詞世界とギターのジョニー・マー作曲の明るくからっとしたメロディーとのギャップが受け、主に文化系男子たちから熱狂的な支持を得たバンドだ。間違ってもタフガイが好むような音楽ではない(笑)
例えば、キラーが最初にイヤホンで聴いている曲『Well, I wonder』の歌詞はこんな感じ。

Well, I wonder
“Do you hear me when you sleep?”
「君が眠ってる間も僕の声が聞こえてるのかな?」って考えると
I hoarsely cry (Why?)
声がかすれるほど泣いてしまう(なぜ?)
Well, I wonder
Do you see me when we pass?
すれ違った時に君は僕に気づいてくれるかなって考えると
I half-die (Why?)
死にそうな気持ちになる(なぜ?)
Please, keep me in mind
どうか僕のことを覚えていて
Please, keep me in mind
どうか忘れないでいて
Gasping, but somehow still alive
もがきながら、それでもなんとか生きている
This is the fierce last stand of all I am
持てる力のすべてを振り絞って、どうにかこうにか生きている
Gasping, dying, but somehow still alive
悶え苦しみ、死にそうになりながら、生きている
This is the final stand of all I am
やっとのことで堪えているんだよ

なんという情けない歌詞だろう!(笑)
「死にそうになる」原因が自分でもわからない「なぜ?」のリフレインに注目しておきたい。
続いて、誤射シーンで「集中を高める」ために聴いている(あのTattooにもカバーされた!)バンドの代表曲『How soon is now?』の歌詞。

I am the son and the heir
Of a shyness that is criminally vulgar
僕は犯罪的なぐらい卑屈な照れ屋さんの息子で、その継承者
I am the son and heir
Of nothing in particular
特に取り柄のない息子で、その特徴を受け継いだ人間だ
You shut your mouth, how can you say
黙れよ、いったいなんだって
I go about things the wrong way?
僕のやり方が間違ってるだなんて言えるんだ?
I am human and I need to be loved
僕だって人間なんだ、人から愛されたいんだよ
Just like everybody else does
他のみんなと同じように

とんでもないメンヘラかまってちゃんだ(笑)
まさにキラーの計画に狂いが生じるタイミングにふさわしい“I go about things the wrong way?”(ぼくちん、間違った方に行ってる?)が続くミスショットを予告しているようで興味深い。
いずれも2nd Album『Meat is murder(肉食は殺人!)』に収録されているとびきり情けなく卑屈なこれら2曲がお気に入りだというのだから、もはや言うまでもなくわれわれの主人公の本性は明らかだろう。
キラーのモノローグ、とりわけそのルーティーンルールは、繊細で傷つきやすい実像から目を逸らし、殺し屋としての自己像を強く言い聞かせるために語り起こされていたわけだ。

・語りのトリック〜『ファイトクラブ』、『ゴーンガール』との比較〜

余談ながら、“主人公(語り手)の自己像と実像の乖離”という主題は、フィンチャーの過去作の中にも例を辿ることができる。
『ファイトクラブ』では、保険会社のリコール部門に勤務する青年、現代に典型的な知的労働者のうちに蓄積された孤独と疲労、そしてそれらの反語として立ち現れる逸脱への欲求が主人公の内面世界を真っ二つに引き裂いていく。自己像と実像との乖離が際限なく押し進められていった結果、人格が分裂し、自身をジャックと称する語り手の青年(エドワード・ノートン)と、正反対の資質を備えた危険な男タイラー・ダーデン(ブラッド・ピット)という異なる二人の人物をスクリーン中に顕現させてしまうに至るのだ。うだつの上がらない陰キャサラリーマン・ジャックが主人公の実像もしくはその投影なら、ハンサムでセクシーな肉体派アナーキスト・タイラーは彼の不可能な憧れが生んだ自己像=理想化された虚像であることは言うまでもない。
また、『ゴーン・ガール』の主人公であるエイミー、『完璧なエイミー(Amazing Amy)』というシリーズで成功を収めている絵本作家エイミー・エリオット(ロザムンド・パイク)は、絵本に描かれた理想の自己像と、怠惰で暴力的な夫ニック(ベン・アフレック)との結婚生活に倦怠する現実のエイミー=実像との間の著しい相違に苦しめられている。
サスペンスはまさにこの乖離を原動力として駆動し、不本意な現状を容認できないエイミーは“完璧なエイミー”への想像的同一化を果たすべく驚きの行動に打って出る。憎き夫に妻殺しの罪を着せるためにさまざまな工作を図った上で行方をくらまし、まっさらな人生を歩むことを企むのだ。
両作とも本作と主題の一部を共有している点をまずは指摘できそうだが、問題は主人公のうちに見出される自己像と実像の乖離が観客に示される手法の相違であり、この点はモノローグの位置付けに深く関わっている。
三作いずれも主人公によるモノローグが挿入される点は共通と言えるが、実は『ファイトクラブ』では言葉の語りと映像の語りとの間に乖離が生じていない。
ジャックが「この時タイラーは···」という(実在しない人物についての)語りをわれわれに向けて起こせば、画面の中に現にタイラーの姿が現れる。ジャックの言葉にはしばしば飛躍や切断の痕が見られはするものの(例の飛行機のポーン!が記憶の“編集点”の存在を明かすように)、それは彼の記憶の連続性が損なわれていく過程に対応しており、言葉と映像との間にさしたる懸隔は見られない。後に様々な作品の中で模倣されることになる例の“どんでん返しトリック”は、いわば言葉と映像の両面に渡って観客に共通の嘘をつく(「タイラー・ダーデンは実在している!」)ことによって成立しているに過ぎないのだ。もっとも、病院内のシーンでジャックの姿がほんの一瞬タイラーに変化するサブリミナルショットが挿入され、映像の語りに亀裂が走る点は若干の注目に値するが、あくまで初期フィンチャーらしいお遊びの域を出るものではない。語りの形式に限って見た場合、『ファイトクラブ』は巷間言われているほど実験的な映画でも複雑な映画でもないということになろうか。
同様に『ゴーンガール』にも広い意味でのどんでん返しが仕掛けられているが、語りの構造はより巧妙なものに変化している。
エイミーによるモノローグは、失踪を受けて警察が押収した証拠品“エイミーの日記”の記述に沿って語り起こされていくのだが、ここでは語り手自身が物語作家である点がポイントで、“エイミーの日記”には事実とは異なる内容や夫に濡れ衣を着せるためのミスリードが多数含まれている。
とはいえ、客観的な視点からエイミー失踪の謎が提示される前半部では、その謎に翻弄される警察と捜査の進展を見守る観客は日記の内容を素朴に信じ込む以外に手立てがない。それが後半部で物語の視点がエイミーの主観へと切り替わり、失踪前後の実際の行動が明らかにされるや、それまでわれわれが信じ込んでいた事実が見事にひっくり返る仕掛けだ。
注意すべきは、ここにおいてもやはり言葉による語りと映像による語りとの間に乖離は生じていないということだろう。前半では言葉と映像の双方が観客に同じ種類の嘘をついており(エイミーのモノローグは積極的かつ故意に、映像は実際に起こったことを映さないという消極的なやり方で)、後半ではいずれもがわれわれに共通の真実を告げている。いわば前半と後半とで真実の立ち位置がすり替わったに過ぎず、それぞれの中で語りの不一致は発生していないわけだ。
以上から、『ファイトクラブ』『ゴーンガール』の二作においては主人公の自己像と実像の乖離というテーマを表現するに当たって、言葉の語りと映像の語りの構造的差異が活用されるまでには至っておらず、『ザ・キラー』の実験はフィンチャーにとって新規な試みである点を指摘できそうだ。
とすれば、本作の違和感を生んでいる「他ならぬこのおもしろさが依拠しているおもしろさの水準」は、語り口の構造的差異・戦略的なちぐはぐさの中にひとつの場を求めることができるだろう。
それにしても、『ファイトクラブ』の語り手ジャックを文学理論で言うところの“信用できない語り手”(例えば記憶に欠落があるために瑕疵のない完全な語りを起こすことができず、結果として読者=観客に嘘をついてしまう語り手)、『ゴーンガール』の語り手エイミーを“自意識的な語り手”(例えばポストモダン文学において「わたしはこの物語をいかようにも語り得る」とわざわざ読者=観客に向けて宣言するなど、意図的に物語内容を操作する語り手)であるとすれば、本作の語り手キラーをわれわれはどのような種類のものとして位置付ければいいのだろう?
少なくとも故意に観客に嘘をついているわけではない点からすれば、信用できない語り手の一変種としての無意識的な語り手、厨二病的な語り手とでもいったところか(笑)
見逃してならないのは、語り手の発語の不完全性を暴露しその信用性を毀損する編集点が実は本作においても形作られていることだ。
『ファイトクラブ』でジャックを揺り起こし不安な自己を発見させるポーン!という飛行機のアナウンス音は、『ザ・キラー』において、ジリリリリッ!という電車の発進音となって、たった一度ではあるが、すべてのモノローグが生起する“以前に”登場する。椅子に座ったまま寝落ちしていたキラーをハッと目覚めさせるこのアラーム音は、明け方未明から早朝へと瞬く間に時間がジャンプしていたことを知らせるとともに、主人公の主観に寄り添う形で契機していく語りが不完全であるかもしれぬこと、直後長々と語り起こされていくことになるモノローグに瑕疵が含まれている可能性を前もってアラート(警告)しているのである。

・観客から参加者へ

話を戻そう。
ファーストシークエンスに関わって予想される二つ目の意図が、メタレヴェルにおける主人公と観客の想像的同一化。
既に何度も確認した通り、キラーの仕事は失敗に終わる。
予定外の出来事の発生によって、主人公は突如として予測と準備さえ怠らなければあらかじめ成功を約束されたシミュレーショ二ズムの世界から追放され、論理や統計データが通用しない理不尽な現実世界のただ中へ放り出されてしまうわけだ。
時を同じくして、ドミニカにあるキラーの隠れ家では大変なことが起こっている。留守を預かっていた恋人が、誤射の代償として組織が差し向けた刺客に襲われ、病院に搬送されていたのだ。パリから帰国したキラーは隠れ家の惨状から事態を察知し、慌てて病院へと駆けつける。ベッドで妹に付き添っていた恋人の兄が言う。
「犯人は男女二人組」
「タクシーのような緑の車で逃げたそうだ」
「妹は最後まであんたについて口を割らなかった」
「あんたのことを秘密にしておかなきゃならないことは知ってる。だが·····」
パニック状態で詰め寄ってくる兄に、冷静になるよう言い聞かせ、キラーはきっぱりとこう宣言する。
「約束する。二度とこんなことは起こさせない」
かくしてキラーは生まれ変わり、恋人を傷つけた犯人や実行を支持した組織の人間を追いつめる復讐者へと変貌していく。与えられた司令に忠実に従う受け身の立場から脱却し、自らの意志で考え動く行動の人となるのだ。
こうした主人公の位置付けの変化のなかに、“観客から参加者へ”というメタフィクショナルな主題を読み込むことはできないだろうか?
思い出してみよう。
映画冒頭、真っ暗な部屋の中に置かれた椅子に腰かけ、しらじらと発光する中央の巨大な窓を一心に眺めているキラーの姿は、映画館の椅子に座りスクリーンに視線を注いでいるわれわれ観客の姿にそっくりだ。
また、‘’フランス人に最も注目されない”ドイツ人観光客のコスプレをして人目を避け、ホテル前の公園のベンチに座ったまま双眼鏡のレンズ越しに街を観察しているキラーは、他者に見られることなくして一方的に外界世界をまなざす一個の純粋な目玉と化している。その証拠に、明らかに不審な動きをしているキラーを見つめ返す者は誰もいない。特にホテルのドアマンなど、正面ベンチからあのように幾度も眺められれば、一度くらい疑わしげな視線を投げ返すのが普通ではないだろうか?だが実際には、大勢の人間が周囲に存在するにも関わらず、キラーと観察対象を結ぶまなざしの直線に他のまなざしが割って入ってくることはない。
さらに言えば、ファーストシークエンス中で展開されるキラーの視界の大部分は、張り込みの際には窓越し、双眼鏡越しに、街を歩く際にはサングラス越し、狙撃の際にはスコープ越しに、といったように、いずれもレンズやガラス=スクリーンを介して間接的に再構成されたものに限られている。
こうした奇妙さは、実のところ、映画観賞という営みの、考えてみれば奇妙な性質とピタリと一致する。
なぜなら、ひとえに言って映画観賞とは、薄暗い部屋の中で/偶然その場に居合わせた他者の中に混じって/椅子に座ったまま/スクリーン越しに/他のまなざしに遮られることなく/自己と映画との間に一直線のまなざしの関係を取り付ける試みであるにほかならないからだ。
要するにファーストシークエンスにおけるキラーの姿は映画一般の観客の姿に擬せられているのである。
こうした観客としてのキラーの立ち位置、間接的なシミュレーションの世界に遊ぶ子供っぽい資質を強調するのが、どこまでも肥大していくモノローグの自意識。
そこにはあたかも自分以外の人間が存在していないかのようであり、あの寒々しく孤独な部屋に留まり続ける限り、彼の言葉を遮ったり異論を唱えてくる者は誰一人として現れない。まさしくあの部屋は映画館なのであり、彼にとっての現実世界は一種の映画的な虚構として、計画通りに行動している限りけっして期待を裏切られることのないシミュレーショ二ズムの世界として構成されているわけだ。
ところが予期せぬ失敗により、キラーは孤独ではあるが居心地のいい映画館から追い出されることになり、虚構世界の観客から実人生のプレイヤーとなる道を運命付けられていくのである。
ひとたびこのように考えてみると、ファーストシークエンスの長さ、あちらこちらに気まぐれなまなざしが投げかけられる張り込みシーンの冗長さが、保護された外界の観察者=観客としてのキラーの立ち位置を充分に印象づけるために必要とされたものだったことがわかるだろう。
われわれはここに“観客から参加者”へという主題、メタレヴェルで観客と主人公の想像的同一化を促す今ひとつの仕掛けを見出すのだ。

・最大のテーマは“なぜ”との対決

ファーストシークエンスの内容を仔細に検討することを通じて、“自己像と実像の乖離”、“観客から参加者への移行”という二つの主題を取り出してきた。
ここまで来れば、成功率100%の殺し屋が充分な予測を立てた上で計画通りに行動した結果として、“なぜか”仕事をし損じることの理由は明らかだろう。
それは第一にキラーが自身の計画の詰めの甘さやナイーヴで他者に共感しやすい性格について無自覚であり、弱々しく不完全な実像を理想化された自己像によって覆い隠し、本当の自分から目を逸らしているため。第二に、受け身の観客として外界に相対し続ける限りそもそも予測不可能な事象に対応しきれないためだ。
したがって、キラーの立ち位置が観客から参加者へと変化していく過程において、彼の無意識下に抑圧された“なぜ”は、後に見る通り、最終的に克服されるべき問題として改めて浮上してくることになる。
結局のところ、二つの主題は、キラーが本当の意味で自己自身になっていくために必要不可欠な成長の過程、「なぜとの対決」という映画全体を貫くテーマを提示し補強するために活用されているのだと言えよう。

・ブルートとのバトル〜予測不能で対価に見合わぬ世界へ〜

モノローグがキラーの肥大した自意識、映画館の暗闇で安逸する観客としての存在性を明らかにするものなら、今や外の世界へ飛び出した彼にあって、その語りの全能性が失われていくのは当然の成りゆきと言えるだろう。
ファーストシークエンス以降、キラーの自己像と実像の乖離は、他者の介入によってルーティーンルールの唱和がたびたび中断されることを通じて、われわれ観客に向けてというよりむしろキラー自身の問題として顕在化していくことになる。
恋人の兄から得た「犯人はタクシーのような緑の車に乗って逃げたそうだ」という情報を振り出しに、キラーは、件のタクシーを運転していた青年レオ、恋人襲撃を指示した上役で法学部生時代の指導教授でもあったらしい弁護士のホッジス、その秘書スーザン、そして犯人へと、都市を跨いで情報を繋ぎ合わせつつ、凶行を重ねていく。
レオによれば、犯人は「野放しにできない怖そうな男」と「綿棒のような女」の二人組。
ルーティーンルールの中断は映画中に都合四度登場するが、このうちもっとも見やすいのが、「野放しにできない怖そうな男」ザ・ブルートとの対決シーン。
シミュレーショニズムの世界から予測不可能な現実世界へと追放された今となっては、得意の統計データを駆使した予測も役には立たない。それまで絶対の自信を持っていた統計学上の数字に、キラーは初めて疑問を抱きはじめるようになる。
ブルート宅前に到着したキラーは、庭で放し飼いにされている番犬のピットブルを眠らせるべく手段を講じる。近所のスーパーマーケットで購入した睡眠薬を生肉に混ぜてブルに与えるのだが、「ネットで検索したデータだとこれぐらいで間に合うはずなんだけど、ほんとに大丈夫かしらん···?」などと不安に陥る姿がかわいらしい。案の定、後から目を覚ましたブルに追いかけられるハメになるのだが(笑)
首尾よく家の中に侵入したキラーは、明かりの落ちた室内を歩きながらルーティーンルールを唱え始めるが、ちょうど「対価に見合う戦いにだけ挑め」まで唱えたところで横から体当たりの襲撃を受け、モノローグは中断される。筋骨隆々で明らかに体格においてキラーに勝るブルートとの戦いが「対価に見合わ」ぬものであることが仄めかされているわけだ。
ここからなし崩し的に格闘シーンへと突入していくのだが、これがちょっと見たことがないぐらいすごい。
アクションの“手”が決まっていないようにしか見えないというか、両者まわりにあるものを手当り次第ひっつかんで投げつけあったりなんだかよくわからないオブジェの先端が尻に突き刺さったことが致命傷を生んだり、フィンチャーの代名詞たるスタイリッシュさとは無縁の無我夢中の我武者羅な攻防が展開されつつ要所要所の細部では互いがそれまで培ってきた殺しのテクニックが披露され、あっけなく勝敗が決する幕切れにはいつものクールな感覚が見出されるものの···という絶妙な塩梅で、「おもしろいのかどうかよくわからな」かった映画はこのあたりから突如として爆発的におもしろくなりはじめ、われわれは急激なモードチェンジに面食らうことになる。
映画が依拠しているおもしろさの水準が、ファーストシークエンスが依拠していたいくぶん乖離的で馴染みのないおもしろさのモードから、われわれにとって馴染み深いおもしろさのモードに則ったハチャメチャなバトルシーンへと急激に跳び移るため、「いや、これはこれでめちゃくちゃおもしろいけど、いきなりすぎん?(笑)」とそのアンバランスさに違和感を覚え、統一的な印象を抱くことができないためにもやもやした気分にさせられるのだ。
とにもかくにも、「対価に見合わ」ぬ戦いに初めて挑戦し、ぼろぼろに傷つきながらも勝利したキラーは、自身のルーティーンルールの欺瞞性に打ち勝つことになる。モノローグの特権性、子供のごとき閉じた全能性を自らの意志で打ち砕くのだ。

・エキスパート様のお導き〜反復回帰する“なぜ”との対峙〜

辛くもブルートとの戦いを制したキラーは、いま一人の下手人である「綿棒のような女」ザ・エキスパート(ティルダ・スウィントン)のもとへ向かう。
筋肉ムキムキのマッチョマンに勝利した直後に綿棒のように非力な女にご登場いただいたところでどうにも話が盛り上がらないように思えるのだが、どっこい、この章は本作最大の山場を形成することになるのだからおもしろい。
エキスパートが夕食を摂るべく立ち寄ったのは、ホテルの一階に間借りしている瀟洒な佇まいのレストラン。看板に「ザ・ウォーターフロント」とある通り、ホテルは大きな川に面しているため、後を追ってきたキラーは必然、(川を挟んだ)向こう側にホテルを臨みつつ/レストランの窓越しに/ターゲットの姿を観察する格好になる。
注意深い観客であれば、このショットが冒頭の誤射シーンの構図と酷似したものである点に気付くはずだ。キラーにとってエキスパートとの対決が手ひどい失敗を経験したトラウマ的状況のシミュラクラとして立ち現れることから、われわれはこの殺しが困難なものになることを予感させられる。ファーストシークエンスの失敗に関わる“なぜ”が、ここで映像の語りによって回帰しさりげなく再提示されるわけだ。なんとも心憎い演出ではないか!
はたしてわれわれの予想通り、エキスパートは巧みな話術によってキラーから人間的な共感を誘い出し、ゆっくりと着実に相手を籠絡していく。
レストランに入るや、エキスパートが座っている正面シートに滑り込み、無表情で押し黙ったまま銃口を向けるキラー。もはやこれまでのような「感情移入」はけっしてすまい、という堅い決意が感じられる。片やエキスパートは瞬時に事情を察し、観念した様子でぽつりぽつりと一人語りを始める。
「わたしは(あなたの恋人に)手を出してない」
「彼(ブルート)のやり方にも反対したわ」
「いつかこんな日が来ると思っていたけど、いざ来てみると不思議なものね」
「こんな話があるの。ある日猟師が森に狩りに入ると···」
二つの点に注意したい。
ひとつは、モノローグの主体がいつの間にかキラーからエキスパートへと移り変わっている点。これにより、中断を挟みつつもかろうじて保たれていた主人公の語りの特権性は、今や決定的に放棄されるに至る。
二つ目が目線の関係。テーブルを挟んで向かい合う両者の目線はほぼ同じ高さで水平に交わっている。一見するとキラーが圧倒的優位に立っているように見えつつも、その実、心理的には二人が対等な立場にあることが暗示されているわけだ。実際、これはキラーとターゲットが対等な立場に置かれる初めてのシーンであり、その違いは、椅子に座した相手を拘束し自身は立ったままターゲットを見下ろしていた弁護士ホッジス殺しのシーンと比べてみれば一目瞭然。「相手を優位に立たせるな」というルールが早くも揺らぎかけているさまが見て取れる。
やばいぞキラー!油断するな!
「···こんな話があるの。ある日猟師が森に狩りに入ると、熊がいた。猟師は発砲するが、仕留め損ね、逆に熊に犯されてしまう。次の日も同様、猟師はまた熊に犯されてしまう。さらにその翌日、再び撃ち損じた猟師に向かって熊が言う。おまえ目的変わってるだろ?(ほんとはセックス目的じゃね?)」
おおよそこのような小咄のオチに、それまで無表情を貫いていたキラーが思わず破顔するや、ここぞとばかりにエキスパートが畳み掛ける。
「なぜここに来たの?
私の目の前に座って安心したかったんでしょう?」
「この間銃を構えた時
“なぜか”·····
外したから」
(一瞬、店内BGMを含むいっさいの環境音が消え、無音の中でキラーの驚愕の表情が映し出される)
ぐはー、チェックメイト!
まずはユーモラスな例え話で油断させつつ「あなたが今からやろうとしていることは、この猟師のように当初の目的から外れた対価に見合わぬ行為なのでは?(わたしを殺しても無意味よ)」とさりげない前フリを作っておいて、まさに絶好のタイミングで核心部の“なぜ”を引き合いに出してくるあたり、実に手馴れている。
「なるほど、この細腕の女がエキスパートと呼ばれている所以は人心掌握術にあるのだな···」と一発でこちらに伝わる話しぶり、食わせ者の殺し屋が「こんな日」に遭遇するのはおそらく初めてのことではなく、これまでに幾度も同様の手口で修羅場を潜り抜けてきただろうことがわかる(ティルダ以外には不可能な!)雄弁な演技に引き込まれる。
ことここに至り、先に映像の語りによって下書きされていた“なぜ”の反復は、言葉の語りによってくっきりと太字で清書されることになる。
エキスパートはキラーに向かって、“なぜ”を適切に処理できないまま、自分の欲望の正体を見極められないまま凶行を重ねることの無意味さを静かに突きつけるのだ。
かくして、とうとうわれわれの主人公は抑圧された“なぜ”の正体、自己像と実像の乖離という最大の敵と対峙することになる。
結果やいかに···?
話を終え、レストランから外に出ていく二人。雪が降りしきるさなか先を行くエキスパートの背後で、おもむろにルーティーンルールを唱え始めるキラー。ところが「誰も信用するな」のくだりに差し掛かったところで、エキスパートが凍った路面に足を滑らせ、転倒。ようやく主導権を回復したばかりのモノローグは中断される。
どうせ死ぬんだから最後ぐらい優しさを見せてよ、とばかりはすっぱな表情で「助け起こしてよ」とキラーに右手を差し出すエキスパート。おおっとこれはやばいかーわれわれの主人公は完全に籠絡されてしまったのかーとヒヤヒヤしていると、キラーさん、頼みをガン無視してドタマに一発!くずれ落ちたエキスパートの反対側の手からナイフが滑り落ち···
やはりこの女、観念したふうを装っていたに過ぎず、内心では殺る気満々だったわけだ。
間一髪、すんでのところで危機を免れたキラーは冷静にモノローグを再開する。
「誰も信用するな」
「決して相手を優位に立たせるな」
重要な場面だ。
ここでは言葉の語りと映像の語りの間にいっさいの乖離が生じていない。一度は相手に譲り渡してしまった優位=語りの主体を自力で奪い返した今、それは以前よりずっと身に馴染んだ説得的なものへと変化している。
こうしてキラーは最大の敵エキスパートに勝利し、自己像と実像との乖離を埋める修正することによって、新たなアイデンティティを確立するに至るのだ。
このように考えてみると、われらが主人公に再度“なぜ”を投げかけ、荒療治によって成長の契機を与えてくれたエキスパートが聖母のごとき存在であるようにも思えてくる(笑)
あるいは、エキスパートがその名が表すとおりの「殺しのプロフェッショナル」=キラーの理想化された自己像として登場してきていることを思えば、ユング心理学で言うところのアニマ(男性の無意識下に眠っている理想的な女性像)との合一化が果たされたのだ、と読むこともできようか。

・『ザ・キラー』の違和感の正体〜アンバランスなバランス、からかい、他ならぬこのおもしろさが依拠しているおもしろさの水準〜

ここまで長々と書いてきたが、結果として全編が終わってみれば、「めゃくちゃおもしろかった!」という感想にならざるを得ない。
あの頃リアルタイムで『ファイトクラブ』の衝撃を味わった観客はまさにこのような興奮と戸惑いの中に置き去りにされ、その不可解な神秘に耽溺することで、徐々に作品がカルト化されていったのだろうなあ···としみじみ感じ入った次第(驚くべきことに、同作公開当時の興行収入は散々なものだったと聞く)。
最後に本作の違和感の正体=「他ならぬこのおもしろさが依拠しているおもしろさの水準」についてまとめておこう。
結論から言えば、それは「仕組まれたアンバランス」に拠っている。
すべてのバロメーターにおいて、対立する要素が平然と並置され、どっちつかずの中途半端で居心地の悪いバランスを慎重に保っているのだ。
まず第一に、シークエンスごとの時間配分やテンポ感がちぐはぐできもちわるい。
第二に、言葉の語りと映像の語りが乖離しているために、それらを同時に看取するわれわれの観賞体験が引き裂かれていくような奇妙な感覚がきもちわるい。
第三に、本作の主たるトーンが、コメディなのかシリアスなのか、リアリズムなのか反リアリズムなのか、どうにもはっきりしない点がきもちわるい。
聞くところによれば、本作の内容は欧米の観客の多くにとって「コメディ」ないし「ブラックコメディ」として受け取られたようだ。たしかにくすりと笑える演出は随所に見られ、そうした特徴はホッジス殺しのシークエンスにおいて顕著だ。
ゴミ清掃員に扮したキラーが、待機している車中、制服に付属したプラカードのリサイクルマークが剥げていたものか、緑のマジックで塗り直すシーンに始まり、ホッジスの事務所が入っているマンションに侵入すべく黒人のフェデックスの配達員の後にくっついて扉をくぐり抜ける場面もおもしろい。自分のために扉を押さえ中に招き入れてくれた配達員にキラーが言う。「助かったぜ。君は命の恩人だ。(You’re the lifesaver)」。結果的に遠回しな殺人幇助の役目を果たす人間が「ライフセーバー」とは、なんとも皮肉の効いたセリフではないか(笑)
また、ホッジスの死体を詰めたポリバケツを押して人質に取った秘書のスーザンとともに乗り込んだエレベーターで、後から乗ってきた男に「死体でも入ってるのかい?」とキラーがからかいのセリフを投げかけられるシーン。思わずスーザンが噴き出してしまい、キラーに睨みつけられるや瞬時に真顔に戻るテンポの良さがおかしい。
これらのシーンにコメディないしブラックコメディタッチの演出が為されている点はその通りだとしても、全体を見ればシリアスな場面の方が遥かに多く確認されることは疑い得ない。
ここはむしろ、どちらか一方というより、コメディ要素とシリアス要素の分量を絶妙なバランスを保って配置することこそが本作の目的だったと解釈する方が実状に即しているのではないだろうか?
試みに、コメディックな印象を強化しているショット反復、キラーがごみ箱に物を投げ捨てる短いショットの繰り返しをすべて取り除いた後の映画の姿を想像してみてほしい。たったこれだけで、『ザ・キラー』の全編はたちまち引き締まり、超絶クールでシリアスな作品へと生まれ変わることがわかるはずだ。しかしそれではわれわれが既に知っているおもしろさの水準に依拠した「おもしろい映画」以上のものにはなり得ていなかったに違いない。
要するに、フィンチャーが今回目論んだのは「仕組まれたアンバランス」によってわれわれにとって馴染みのないおもしろさの水準に依拠した未知の「おもしろい映画」を撮ることだったのではないか?
このように考えてみると、本作を構成する要素のほとんどが対立するものを衝突させ宙ぶらりんのどっちつかずの印象のなかに観客を留めおくよう、絶妙にコントロールされているように思われてくる。
過去作へのセルフオマージュにしても正面切って指摘することが恥ずかしく思われるような中途半端なバランスに抑えられており、なにを言ってもフィンチャーに鼻で笑われそうな気がする。
「セルフオマージュを鏤めたフィンチャーの集大成的傑作!」
「ふ〜ん(鼻笑)」
「冒頭のシーンではヒッチコックの名作『裏窓』が参照されており···」
「まあねえ···(鼻笑)」
実際にフィンチャーがどういう人物なのかは知らないが、想定問答ではこんな感じ。
やや被害妄想気味の想定であるとはいえ、単なる被害妄想とばかりも言い切れないだろう。
なぜなら、作品自体の中にからかいの調子が内在していることは、ファーストシークエンスにおいてキラーの立ち位置が観客一般のそれと重ね合わされ、言葉の語りと映像の語りの乖離を通じてまぬけな本質が暴露されていくメタフィクショナルな構造から明らかなはずだからだ。
とすると、殺し屋系Youtuberキラーのプランが計画通りに進まないことは、まさに自宅や映画館などで一方的に他者の生活を覗き見て楽しんでいる観客としてのわれわれのあり方に対する風刺なのだろうか?
いったい、フィンチャーはわれわれに受動的な観客であることをやめ、己の人生の積極的な参加者となるよう促しているとでもいうのか?
筆者としてはひとまず、本作ではあらゆる立場を相対化するからかいの調子が通奏低音となっていること、そうした底意地の悪い感覚が、絶妙なバランスを保ったアンバランス=「他ならぬこのおもしろさが依拠しているおもしろさの水準」を形作っている点を指摘するに止めたい。

・エピローグ〜数ある人間の光〜

さて、言葉の語りと映像の語りの不一致を正し、自身の矛盾=アンバランスなバランスを打ち破り、この世界の参加者としての新たなアイデンティティを手に入れたわれらが主人公、ザ・キラーはその後どうなったのだろう?
宿敵エキスパートを倒したキラーは、最後の仕上げとしてファーストシークエンスの殺しを組織に依頼したクライアント・クレイボーンに会いに行く。相手が利用しているジム付きの高級ホテルの一室に侵入し、脅しをかけるのだが、ここでの犯行の一部始終がいつになくスマートであり、なんらの破綻も生じていない点は注目に値する。得意のネット検索も、ブルートの時とは異なりスムーズに機能している。今やバッチリ等身大に収まったキラーの言動には少しの誇張も過信もない。クレイボーンを殺さず生かすことは、そうした自信の表れでもあろう。
「今回はあんたにいつでも簡単に近付けるってことを警告しに来た。俺たちの間に問題は?」
「···問題はない。まったく」
そうして迎えるエピローグ。再びドミニカ。回復した恋人とともにビーチチェアに寝そべりリラックスしている様子のキラー。
冒頭の誤射シーンの直前、「歴史の始まりから常に誰かが多数を搾取してきた。文明には必要不可欠だ。すべてのレンガを繋ぎ合わせる要素。“何としてでも数少ない一人でいること”」と豪語していた男の最後のセリフ、長い長いモノローグの終着点は次の通りだ。

「安心を求めることは負の連鎖を起こす。
運命なんて気休めだ。
自分の未来は予測不能だ。
与えられた短い時間でこれを認められないなら
あんたは数少ない一人なのではなく
“俺のように数ある一人なのかも”」

観客から参加者へ、そして単なる生活者へと。
数少ない選ばれた人間であることを自負していたかつての殺し屋は、今やこの世界が予測不能であることを肯定的に受け入れ、数ある平凡な人間のうちの一人として生きていく道を新たに決意するのだ。

Take me out tonight 
Take me anywhere, I don’t care 
I don’t care, I don’t care 
And in the darkened underpass 
I thought oh God, my chance has come at last
(But then a strange fear gripped me and I just couldn’t ask) 
今夜連れ出してよ
行先なんかどこでもいい
あの暗い地下道にいた時に
「ああ神様、やっとチャンスが巡ってきた!」
そう思ったのに、なぜか急に不安になって、あの時は聞きたいことも聞けなかった
Take me out tonight 
Oh, take me anywhere, I don’t care 
I don’t care, I don’t care 
Driving in your car 
I never never want to go home 
Because I haven’t got one, da
Oh, I haven’t got one 
今夜一緒に出かけよう
どこへだっていい
君と一緒にこの車に乗っていられる限り
家には絶対に帰りたくないし
そもそも帰る家なんてないんだ
Oh, there is a light and it never goes out 
There is a light and it never goes out 
There is a light and it never goes out
ごらん、けっして消えない光が見える 
けっして消えない光
けっして消えない光が···

ーーThe Smiths『There is a light it never goes out』
(エンドクレジットを飾るスミス最高の一曲!)

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