「クリームなしコーヒー」と「ミルクなしコーヒー」からみるジジェクの思想をわかりやすく解説

「クリームなしコーヒー」と「ミルクなしコーヒー」からみるジジェクの思想をわかりやすく解説

「クリームなしコーヒー」と「ミルクなしコーヒー」の違い

ジョージのチャンネル

 まずは簡単な質問からはいろう。「クリームなしコーヒー」と「ミルクなしコーヒー」は同じものか、否か。深読みをせずに頭に浮かんだものをパッと答えてみてほしい。次の段落に進むのは、まず答えを決めてからだ。

 もし、あなたがどちらも同じブラックコーヒーだと考えたのであるならば、この記事を最後まで読むことは非常に有意義なものになると思う。ジジェク的なものの見方からすると「クリームなしコーヒー」と「ミルクなしコーヒー」は別ものだからだ。そしてその違いを意識することは、ジジェクの思想の核心でもある。このことを「なし」という「否定性」に注目しながらみていくことにしよう。読み終える頃には「クリームなしコーヒー」と「ミルクなしコーヒー」が別ものに見えるはずだ。

 「クリームなしコーヒー」と「ミルクなしコーヒー」の違いを考える前に、我々が生きるこの世界の現状を確認しておこう。今日、グローバル資本主義が世界を覆い、その弊害が無視できないほど拡大しているように思われる。そのような現状において、左翼はグローバル資本主義に抵抗はしているものの、有効なオルタナティブを示せていない。さらにいえば、そのように抵抗をしている人たちは「資本主義の漸進的な崩壊を明確に指ししめす多くの動向を奇妙にも認識できずにいる」(247)のである。

 「資本主義の漸進的な崩壊を明確に指ししめす」人々は、ポスト資本主義をめざす進歩的な資本家(イーロン・マスクやマーク・ザッカーバーグなど)のことである。資本主義は「抵抗」と「自己崩壊」によって解体しつつある。「抵抗」は左翼が担い、「自己崩壊」に注目するのが進歩的な資本家である。だが、この両者が交わることない。左翼は「抵抗」に邁進するだけで、ポスト資本主義への移行という主題自体を放棄しているかのようであり、つまりは酷く為体にみえているのだ。

ジジェクにとって重要なのは「否定性」

 ジジェクの思想において「否定性」をとても重要な位置を占めている。例えばポスト構造主義において脱構築はどこまでもなされてしまうが、ジジェクによればシステムには脱構築をすることのできない穴(欠如)がある。システムの穴(欠如)とは、難しくいうと<現実界>や「不可能なもの」と呼ばれる世界(=システム)の外部であり、表象できない主体のことである。このシステムの「欠如」があって初めてシステムに意味が生まれるのである(この欠如を実体化したものが精神分析がいうところの「対象a」である)。

 このことは映画をイメージすると分かりやすい。映画(システム)において意味が与えられるのは、カメラの存在があるからだ。しかし対象を撮るカメラ自体を撮ることはできない。まさにカメラは「表象できない主体」であり、システムにおける穴であり、意味を生成するために根源的に必要な「欠如」なのである。さらにいえば、カメラの視点は映画における「欠如」の実体化でもあるので、「対象a」ということができる。(ちなみに、意味を創出するために否定が必要になることから「否定神学」と批判されることもある。)

 少し難しい話になってしまったが、重要なことは、ジジェクは「否定性」に意味をみているということだ。否定する対象が変われば、システム自体が変化することになり、対象が意味することも変容するだろう。この観点からすると、「クリームなし」と「ミルクなし」が意味を作る重要な「否定性」であることがわかる。「クリームなしコーヒー」は「ミルクなしコーヒー」と同じではない。コーヒーなのである。

 もう一つ例を挙げてみよう。あらゆる階級やあらゆる差別を一時的に忘れて、祭りで騒ぐ人たちがいたとする。ここに集まる人たちは同じ人か、否か。祭りが不安や心配を平等に忘れさせれてくれるとはいえ、明日の昼飯代を稼がなくては生きていけない日雇い労働者がお金の心配を忘れることと、不正にもらった賄賂が暴露されそうになったことを揉み消した大企業の幹部がその時に感じた焦りを忘れることは、似ても似つかぬものである。一方は搾取される貧困者、もう一方は搾取する高所得者なのだ。この違いはいつだって意識に留めておかなくてはならない。

 左翼と資本主義の話に戻ろう。これを「クリームなしコーヒー」に「ミルクなしコーヒー」に当てはめてみると、「コーヒー」は資本主義で、「クリームなし」が労働者階級の搾取、「ミルクなし」が資本主義の自己崩壊になる。「クリームなしコーヒー」が左翼からみた資本主義で、「ミルクなしコーヒー」が進歩的資本家からみた資本主義である。したがって左翼の問題と方針はジジェクによって、このようにまとめられる。

そしてこれこそ左翼が学ばなければいけないことである。同じコーヒーを出すにも、ミルクなしのコーヒーが突如クリームなしのコーヒーに変わっているという希望を持つこと。そのとき初めてクリームを求める闘争が始まるのだ。(248)

日常にジジェクを。今日から君もジジェクマスターだ。

 ともあれ、左翼など知ったことではない、といった方が大半であろう。しかし「クリームなしコーヒー」と「ミルクなしコーヒー」の違いを意識することは、どのような場面でも極めて有用である。なんなら今日からでも「ジジェクによればね」と会話で使えるくらいの優れものなのだ。

 このような一場面を想定してみよう。あなたは「やりたいことが見つからないんだよね」という相談を友達から受けたとする。相手の現状を把握し、これからの目標、のしかかる不安、未来予想図を丁寧に聞く。そして「Aを目指してみるのがいいんじゃない」と提案する。しかし、相手は「いや、まあそうなんだけど。」と次第に元気がなくなり気まずい雰囲気が訪れ会話が途絶えてしまう。

 ジジェクの思想を学んだあとであるならば、この会話のどこを直せばよいかは一目瞭然だ。目指すべき将来を提案しても意味がない。なぜならそこには「否定性」が存在しないからだ。だからやりたいことが見つからないというのであるならば、「否定性」に注意を促してあげるべきなのである。「Aを目指す」というのでも、お金がないのか、社会に不満があるのか、遊ぶ余裕がないのかによって、目標の意味合いが異なってくるはずだ。繰り返しになるが、大事なことは「否定性」なのである。

 あるいは、新しく面白い発想に行き詰まってしまったら、「否定性」に目を向けるのも良いだろう。面白い発想を探すのではない、何が欠けているかを探すこと、それが新たな発想につながるのである。

 ジジェクは難解なラカンの思想を映画に応用することで、人々にわかりやすく伝えることに成功した。ジジェクがョークを好んで引用するのは、自身の思想を身近に感じやすくするためでもある。そうであるならば、我々はジジェクがラカンにしたことからその方法を学ぶべきだろう。つまり、日常にジジェクの思想を応用し会話に混ぜこむことで、ジジェクの思想に親しむのである。

 最後に、もし今あなたがあるいはあなたの友人が、将来に不安を覚えたり、何かに思い悩んでいるとしたら、ジジェクがいうように「ミルクなしのコーヒーが突如クリームなしのコーヒーに変わっているという希望を持」つことだ。そして不安(欠如)がミルクからクリームへと変わったとき「初めてクリームを求める闘争が始まるのだ」。

参考文献

ジジェク『あえて左翼を名乗ろう』勝田悠紀訳、青土社、2022:「ミルクなしコーヒー」以外にもセックスロボットからノマド的プロレタリアートまで縦横無尽に語られている。たいへん面白い。2022/7/20発売。

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