大澤真幸の概念ー第三者の審級
大澤真幸の議論でお馴染みの「第三者の審級」という概念は、大澤の議論だけに留まらず汎用性があり応用が効きやすい。ここで簡単に紹介しておこう。
端的にいえば、「第三者の審級」とは、超越的なまなざしの担い手のことである。一見すると難しいように思われるかもしれないが、噛み砕いて読めば意外と簡単だ。
例えば、子供同士の喧嘩の場面を想定してみると分かりやすい。子供たちは互いに自分が正しいと思って喧嘩をしているのだが、どちらが正しいのかを二人の間だけで判断することはできない。「このボールは僕のだ!」「いや、それは僕のだ!」と互いに主張して譲らないとき、決着がつくことはありえない。なぜなら、主観的にはどちらも「正し」く、客観的な「正しい」という判断は子供たちの外部に存在する尺度によって規定されているからだ。その尺度を子供たちは共有していないとき、口論は決着をつけることができず、意味を失い最終的に互いに暴力を振るうことになるのである。
ところが、ここで大人の仲裁が入ることを考えてみよう。大人は子供たちの話をそれぞれに聞いて、一方を正しいと判断し、もう一方に謝ることを促したとする。このときどちらが正しいかは子供たちが決めるのではなくて、その外部にいる大人が決定している。このような「正しさ」を判断する超越的な第三者が「第三者の審級」である。この場合、子供たちにとって第三者で超越的な存在は、大人ということになる。
価値や善悪は、内部を超越する第三者、言いかえれば判断基準がないと、意味を持つことができない。価値や「正しさ」などの判断をするとき、超越的な外部を必要とするのである。そして外部=第三者=超越的なまなざしによって、価値や善悪の判断が得られるのである。
実はこの「第三者の審級」という概念は、想像以上に広い範囲で使うことができる。キリスト教においての神が「第三者の審級」であるということは言うまでもなく、子供にとっては親が、精神分析家にとってはフロイトのテキストが「第三者の審級」になり得る。つまりあるコミュニティーにおける権威こそが「第三者の審級」ということになる。あまりの汎用性の高さに驚いたのではないか。今度は実例として、現代日本社会における「第三者の審級」について考えてみよう。
現代における第三者の審級
大澤真幸は1995年以降を「不可能性の時代」と呼んだ。「不可能性の時代」とは、一方でバーチャル空間への没入に見られるような「現実からの逃避」が、他方でリストカットに見られるような暴力的な「現実への逃避」が、至る所で顕著に現れている時代のことを指す。この相反する現象は、立ち現れることのない何かの隠蔽によって生じる症状の裏表であり、その何かは認知することができないが故に「不可能なもの」と呼ばれる。
「不可能性の時代」に特徴付けられるような現象はなぜ生じたのか。大澤はかつてのような「第三者の審級」が衰退したことを理由に挙げる。「第三者の審級」の撤退によって判断は自分に委ねられる。このことはラカン・ジジェクの用語を使えば、象徴界の衰退といえる。それによって現代は自由を強制してくる社会なのである。
ところが自由であること=禁止をしてくる「第三者の審級」の不在は、違う形で「第三者の審級」を回帰させる。自由であるが故にどこかに罪意識を感じてしまうとき、自由を命令するような「第三者の審級」を措定してしまうのだ。
つまり、自由が規範化されたとき、第三者の審級が再措定されているのである。
大澤真幸『不可能性の時代』岩波新書、2008年、147頁
回帰された「第三者の審級」とは、仕事を否定しながらラクに楽しく労働をする現代のインフルエンサー、ホリエモンとひろゆきの存在のことだ。つまり現代の日本社会における「第三者の審級」は彼らなのである。
ちなみに、2014年前後の政治団体「SEALDS」を題材に、政治や社会を論じた小峰ひずみ『平成転向論』は現代を知るうえで参考になるかもしれない。
参考文献
関連項目
本記事はこちらで紹介されています:哲学の最重要概念を一挙紹介!
哲学の入門書の紹介はこちら:哲学初心者向けの人気おすすめ著作を紹介!
本格的な人向け哲学書の紹介はこちら:本格的な人向けおすすめ哲学書を紹介!