ニヒリズムとは何か|意味をわかりやすく徹底解説|公共・倫理

ニヒリズムとは何か|意味をわかりやすく徹底解説|公共・倫理

意味

 哲学史的にはニーチェで有名になった概念である。ドイツ語だと Nihilismus だと書かれるが、「Nihil」の部分がラテン語だと「無」という意味になる。英語の no や not という言葉を似ていることを思い出すと分かりやすいだろう。つまり否定の意味合いが込められた言葉である。そういうわけで日本語だと虚無主義と訳されることもある。

 広義には字義通り、「「虚無」を主張するような主義主張のこと」である。例えばこの世に神なんて存在しないんだあ、というのも広義にはニヒリズムの一部である。ニーチェのニヒリズム概念はそれをさらに哲学的概念に仕立て上げたものである。系譜学的には、ルサンチマンによってニヒリズムが発生することになる。

著作読解

ニーチェによるニヒリズム

 ニーチェの生きていた時代はもっぱら左翼批判のレッテルとして「ニヒリズム」という言葉が使用されてきたらしい。だが、ニーチェはその「ニヒリズム」という概念を哲学的な概念として仕立て上げる。

 著作を見ていくと、少なくとも次のような意味で使っていることが分かってくる。キリスト教道徳としてのニヒリズムである。つまりキリスト教道徳的な思想がニヒリズムだというのである。教科書的にはこの意味での「ニヒリズム」が最も有名だろう。この意味で最も使用される文献が『道徳の系譜学』である。

 他方で、ニヒリズムの意味合いを汲み取るためによく参考にされる文献が「ヨーロッパのニヒリズム」という遺稿である、これは『道徳の系譜学』より前に書かれたものであるが、これを読むと『道徳の系譜学』とは異なった意味で使用しているのがわかる。ヨーロッパの歴史をニヒリズムという観点から描こうとしてるので、ニヒリズムが大分広義なのだ。

 とはいってもまず大事なのは一つ目の意味だ。『道徳の系譜学』で使われる意味での「ニヒリズム」の意味を汲み取ることができれば、ニーチェにおけるニヒリズム概念を理解したことになるだろう。それでは『道徳の系譜学』からみてみることにしよう。

『道徳の系譜学』におけるニヒリズム

 『道徳の系譜学』ではところどころでニヒリズムという言葉を使用している。すでに序言で登場するのだが、そこまでの流れを簡単に抑えながらどのようにニヒリズムという言葉を使っているか見ていきたい。

 ニーチェはこの書物でまず「道徳的価値観」について言及している。例えば負い目、同情、献身などは道徳的価値観として「善」とされている(これは現代でもそうだろう)。しかしその価値観は果たして絶対的なものなのか、とニーチェは疑う。ニーチェ曰く、ショーペンハウアーはそれら「非利己的価値」を神聖視した。しかしニーチェは、その神聖視という点において、「人類の大きな危険」を見るのである。そういった神聖視はニーチェからすれば、「病気」であり「生に反抗する意志」なのである。そういったことを述べてから次の文章が続く。

あの次第に蔓延しつつ哲学者にすら取り憑いて病気にしてしまう同情道徳を、私は薄気味悪くなったわがヨーロッパ文化の最も薄気味悪い兆候と解し、一つの新しい仏教への、一つのヨーロッパ人仏教?への、ーー?への迂回路と解した・・・同情に対する近代哲学者連中のこうした優遇と過重視は、けだし一種の異変である。

『道徳の系譜』序言、5、14頁

 ここでいわれる哲学者とはショーペンハウアーのことである。そしてショーペンハウアーをすら虜にしてしまった同情道徳(「すら」なのは、ニーチェがショーペンハウアー哲学から影響を受けているからである)はヨーロッパ文化の悪い「兆候」なのである。そしてそういった道筋というのは「ニヒリズム」へと至る通路だというのだ。

 ということは簡単にいうと、同情という価値観はニヒリズムだということだろう。なぜニヒリズムかというとそれは本来の生・人間(この概念はニーチェにとっては根源を示す哲学的概念である)を蔑ろにするからである。それでは、その同情道徳とは何を意味するのだろうか。かなり飛ぶが、次の引用を見てみよう。

われわれを従来の理想から救済するこの未来の人間は、同様にまたわれわれを、そのものから、大なる吐き気から、無への意志から、ニヒリズムから救済するであろう。この正午の、また大いなる決定の時鐘は、意志を再び自由にし、世界にはその目標を、人間にはその希望を返すであろう。この反キリスト者、また反ニヒリスト、この神の、また無の超克者ーー・・・・・

『道徳の系譜』2、24、115頁。

 ここでいわれる「未来の人間」とはツァラトゥストラのことなのだが、彼は「無への意志」「ニヒリズム」から救済してくれるという。「無への意志」は「力への意志」の反義語だ。さてこの未来の人間であるツァラトゥストラはどのような人間なのか。それは「反キリスト者」「反ニヒリスト」だと言われている。逆にニヒリストというのはキリスト者のことである。そういうわけで、先ほどの同情道徳とは何を意味するのかということの回答も見出せることになるだろう。同情道徳とは主にキリスト教道徳のことだえり、その意味でニヒリズムとはキリスト教道徳のことだったのである。

「ヨーロッパのニヒリズム」におけるニヒリズム

 「ヨーロッパのニヒリズム」(遺稿II. 1887年6月10日)は16のパラグラフからなる。著作としては『ニーチェ全集9』(276-284頁)に収録されており、引用もこの著作からすることにする。

 「ヨーロッパのニヒリズム」というのだから、もちろんニヒリズムについて語っている。ただし問題なのは『道徳の系譜学』とは意味が異なっていることである。しかも「理論的ニヒリズム」や「能動的ニヒリズム」などが出てきてそれぞれが多少意味が異なる。おおまかに三つの意味に分類することができるので、一つ目の意味からみていこうと思う。

 第1番ではキリスト教道徳の利点が語られる。例えばニーチェが挙げているのは、人間は偶然的な存在でしかないのに、それと反対に人間に絶対的価値を付与した点である(そんなことはないだろうと考えるのもかなり自然だと思われるが一応そういうことにしておく)。つまりキリスト教道徳は自己保存の手段だったということである。そして

総括して言えば、道徳こそは、実践的および理論的に対する大きなであった。

276頁

 抵抗剤となったのはここで言われる道徳、すなわちキリスト教道徳のことだ。ということは実践的および理論的ニヒリズムとは何のことなのか。それは先ほど述べた「人間は偶然的な存在でしかない」とする考え方のことである。キリスト教道徳の仮説とは反対に、この世界には相対的な価値しかなく、災厄には何の意味もなく、絶対的価値に関する知が人間にはないとする、ある意味では絶望的な考え方が実践的および理論的ニヒリズムなのである。見てわかるように、この意味でのニヒリズムはキリスト教道徳と真逆の、「神なんて存在しない〜〜絶望だ〜〜」というような、ある意味でよくわかりやすい、絶対なんて存在しないという意味での二ヒリズムである。これが「最初のリヒリズム」である。

 しかし神を信じるということが極端な仮説になってしまった。キリスト教の信仰も抵抗剤の役目を果たさない。すると人生に意味があると思っていたのに、実は意味がなかった。それでは今まで信じていたのは一体何だったのだろうという感情が湧き上がってくる。

こうして解釈が崩壊する。ところが、一つの解釈に過ぎなかったのに、これこそ唯一の解釈とされていたため、今やおよそ人生には意味がないかのように、すべてがであるかのように見えてくるのだ。

277−278頁

 「現在のニヒリズム」すなわち第2のニヒリズムはこの「無駄だった」という感情を基調としたニヒリズムである。最初のニヒリズムである「実践的および理論的ニヒリズム」と比べると、そこに情動が加わっているのが「現在のニヒリズム」の特徴である。内容は似ていても、最初の場合は人間には価値がないと認識することによって絶望するニヒリズムであったが、現在のは、人間には価値があると考えるのは無駄!というニヒリズムである。現在はもう何も価値を持つことができない。

 その最も極端な形態が永劫回帰だ(城戸はこれを4番目のニヒリズムとしている)。永劫回帰まで行き着くと価値としては無しかなくなるだろう。しかしそれよりも先にさらにニヒリズムがある。

 それが「能動的ニヒリズム」である。全てが無価値で無駄だったという段階の究極まで達すると、力への意志が透けて見えてくることになるだろう。今まで道徳が侮蔑してきたものが今や最高の価値として現れるのである。しかし万人が自分自身を肯定できるわけではない。「出来の悪い連中」はまず強者を宿敵として仕立て上げ、歯向かってくる強者に負けないように力を求めるという周りくどい力の求め方をするのだ。キリスト教道徳もそうだった。彼らが自らを善とするのは、それ自体善だからのではなく、まず最初に悪があって、それに対抗するために善を仕立て上げるというものであった。「能動的ニヒリズム」も同じ図式で、力を自分自身のうちに求めるのではなく、まず自分たちではないもの(強者)を仕立て上げ、それに対して力を持とうとするものである。それに対して強者は「人々、そして人間が能力を、それに対する誇りを自覚しつつ提示できる人々である」(同書、283頁)とニーチェは述べている。

 3つのニヒリズムを紹介したが、ここでの意味は基本的に「価値や目的がない」が原義となっていることがわかるだろう。それのあり方の違いによってニーチェは「理論的ニヒリズム」と「現在(情動的)のニヒリズム」、「能動的ニヒリズム」に分類しているのである。

歴史

ニーチェ以前のニヒリズム

 「ニヒリズム」という言葉はニーチェ以外にも色々な人が使用している。広く有名にしたのがトゥルゲーネフ『父と子』(1862年)である。そこでは権威も原則も信じない人間タイプとしてニヒリズムを描いている。こういったニヒリズム概念は「ロシア・ニヒリズム」として括られる。

 哲学史上の始まりはヤコービとされている。『フィヒテ宛公開書簡』(1799年)(オットー・ぺゲラーが最初に発見したとされる(Vgl. Otto Pöggeler : Hegel und die Anfänge der Nihilismus-Diskussion. In : Der Nihilismus als Phänomen der Geistesgeschichte in der wissenschaftlichen Diskussion unseres Jahrhunderts. Hrsg. v. Dieter Arendt(Wissenschaftliche Buchgesellschaft)1974))において、ヤコービは「無ー知の哲学」の立場から、自我を神格化してそれ以外の一切を無とするフィヒテの思想を「ニヒリズム」と非難している。

 ヤコービの場合は、神に一生到達できない考え方(思想)一般がニヒリズムとされている。というわけである種の観念論は、とりわけドイツ観念論は皆ニヒリズムである。例えばカントの超越論的観念論では「物自体」には一生到達できない。到達できないという無限の虚しさこそニヒリズムである。そう考えると、ニーチェとはだいぶ意味が異なることがわかるだろう。

ハイデガーのニーチェ批判

 ハイデガーには『ニーチェ』という著作があるが、そこでは、人間性中心の思考による技術の支配という存在忘却(形而上学)の極限をニヒリズムとし、ニーチェはそういった形而上学の完成の段階にいると論じている。つまり、結局のところ、ニーチェもニヒリズムを抜け出してはおらず、ニーチェもニヒリストであるというのがハイデガーの主張である。

 しかしもちろんニーチェのニヒリズムとは意味が異なっている点に注意しよう。ハイデガーの場合、新たに存在忘却(形而上学)という観点が入り、その存在忘却の思考が人間中心主義に偏ることがニヒリズムなのである。ニーチェもハイデガーも構造は同じで、どちらも根源的な何か(ニーチェなら「力への意志」ハイデガーなら「存在」)を忘れてしまっていることがニヒリズムなのであるが、ニーチェの場合その根源は「人間的生」であるので、ある意味で人間中心主義でもあるといえよう。しかし、ハイデガーは人間は根源にはならないと主張しているわけである。

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 ニヒリズムに関しては『ニヒリズムーーその概念と歴史ーー(上)(下)』(岩波哲男、理想社、2005(2006)年)という大著がある。第一部「ニヒリズムの概念」で、ニヒリズムという言葉について詳細に研究している。第二部の「ニヒリズムの歴史」ではヤコービのフィヒテ批判から、ロマン的ニヒリズムやロシアのニヒリズムを挟んで、ニーチェにおけるニヒリズムまで詳しく研究している。本当にニヒリズム概念を理解したいなら、この本を手に取る必要があるだろう。

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参考文献

『フィヒテ宛往復書簡』(ネット公開されている)

『ニーチェ全集9』三島憲一訳、白水社、1984年

ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳、岩波文庫、1964年

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