形而上学とは何か – アリストテレス|意味をわかりやすく徹底解説

形而上学とは何か – アリストテレス|意味をわかりやすく徹底解説

 アリストテレスの主著に『形而上学』という著作がある。しかしその著作の原題を皆さんはご存知だろうか。今回の記事では、原題を見ていきながら、なぜ『形而上学』と呼ばれるように至ったのかなど、「形而上学」という概念にまつわる様々な謎を分かりやすく徹底的に解明/解説していきたい。

「形而上学」とメタフィジックス

 形而上学という言葉は哲学をやっていると幾度となく耳にする言葉だ。しかし形而上学とはどういう意味なんだろうか。「哲学」と同じでその漢字だけ見てもいまいち分からないし、見当もつかないだろう。それでは原語はどんなものなのか。形而上学となんだが堅苦しく訳すぐらいだから、原語もまた難しいのだろうか。

形而上学の原語:タメタタピュシカ

 原語は古代ギリシャ語の ΤΑ ΜΕΤΑ ΤΑ ΦΥΣΙΚΑ(タ メタ タ ピュシカ)である(小文字だと τα μετά τα φυσικα)。実はこれ『形而上学』というアリストテレスの著作の題名なのだ。これがラテン語になると Metaphysica になり、英語だと Metaphysics、メタフィジックスの完成である。

 ちょっとこの古代ギリシャ語を分解して意味を考えてみよう。ΤΑ というのはいわゆる定冠詞で英語だったらthe にあたる。ΜΕΤΑ は前置詞で「のあとに」という意味。ΦΥΣΙΚΑ は原型が ΦΥΣΙΚΟΣ で「自然の、自然学の」と言う意味の形容詞複数形である。しかしこれだけの説明だと文法的におかしいことになる。定冠詞があるのに名詞がないからである(中学英語の文法を思い出して欲しい!)。実は古代ギリシア語の場合、自明であれば定冠詞だけ挿入して名詞を省略できる。とりあえず今回省略されている名詞が「本」という意味の名詞だとしよう。するとΤΑ ΜΕΤΑ ΤΑ ΦΥΣΙΚΑ の意味は「自然学に関する本のあとの本」ということになる。それではどういう意味で「自然学のあと」なのか。

「メタ」の二つの意味

 「メタ」と聞いて何を思い出すだろうか。哲学を知っている人なら「メタ言語」とか「メタ倫理」とか聞いたことがあるかもしれない。他に哲学をかじったことなくとも知っているものなら facebook から社名を変更したMeta(メタ)とかメタバースがある。このメタも ΜΕΤΑ から引っ張ってきている。

 メタという言葉を聞いたとき、「超越的」とか「・・・超えた」という意味を感じないだろうか。実際現在ではそのような意味で一般的には使用されている。メタバースは Meta と Universe の合成語で、現在とは違う次元の世界を意味した言葉であり、このときの Meta も「・・・を超えた」という意味で使っている。しかしもともそのような意味はメタになかった。メタは古代ギリシャ語では前置詞で、普通は「・・・の後に」(時間的あるいは空間的)という意味で使用されていたのである。

 さて、それでは「自然学のあと」とはどういう意味なのか。これはアリストテレスの著作の順序が関係する。アリストテレスの著作は彼の死後、紆余曲折を経て、紀元前1世紀頃にアンドロニコスによって編集公刊された。今日私たちが知ることのできるアリストテレスの著作は、大部分がアンドロニコスが編集したアリストテレスの草稿に由来するのだが、そのアンドロニコスが編集配列をおこなったとき『形而上学』は「自然学のあと」に置かれたのだ。どういうことかというと、順番に著作を並べていったときに、最初に論理学関係の著作が並べられたあと、次に自然学関係の著作がきて、その次に「第一の哲学」と呼ばれるものに関する著作が並べられた。その「第一の哲学」に関する著作が『形而上学』なのである(さらに次に「人間のことについての哲学」に関する著作→「制作術」に関する著作へと続く)。つまり配列的に自然学関係の書物の後に並べられたので、著作名が「自然学関係の著作のあとの著作=メタフィジックス」となったのである。

 しかし単に著作の配列を示しただけではない、もう一つの意味が「メタ」に込められていると言われている。アリストテレスは学習の順序に関して、まずは私たちにとって明らかな事柄から出発して、次に客観的な真理へと向かい、そしてそれ自体で明らかなこと(客観的な真理)が私たちにも明らかになるようすべきだと述べているのだ。

それがいかに誤って知られているにせよ、その知られているもの〔我々に可知的なもの〕から出発して、今も言ったように、この可知的なものどもを介して、端的に可知的なものを、我々自らにとっても可知的な〔真に知られた〕ものたらしめるように、努力すべきである。

『形而上学』233頁(第七巻第三章 1029b10)

「我々に可知的なもの」とはすなわち自然学に属する事柄である。そう考えると、アリストテレスは弟子達に対して、まず明らかな感覚的事物に関する学問、すなわち自然学の学習が終わったあとに、第一の哲学とよばれる形而上学を学べと言っていたということが想定される。というわけで、メタは配列の順序だけでなく、学習の順序も指していると考えても何ら間違いではない。実際どうなのかは分からないが、アリストテレスは「メタ」をこの二重の意味で使っていたに違いない。

形而上学と第一の哲学

 さてここまで「第一の哲学」という言葉をほとんど説明なしに使用してきた。それで頭がこんがらがってしまった人もいるかもしれない。そこで第一の哲学と形而上学の関係はどのようなものなのか、説明していきたい。

 まずかなり重要な事実を述べておきたい。形而上学=メタフィジックスという言葉、この言葉はアリストテレスの著作の題名にもなっているにもかかわらず、衝撃的なことにその著作の中では一度も使われていない。というか他の著作でも使用されていない。そもそもアリストテレスからしたら、メタフィジックスという言葉は哲学的概念ではなかったのである。

 それでは自然学のあとにくる学、すなわち形而上学では何が語られているのか、それが第一の哲学と呼ばれるものなのである。なぜ第一の哲学なのか。実はアリストテレスにとっての哲学の範囲は現代よりもかなり広い。自然学や数学も哲学の仲間なのである(詳しくは【哲学とは何かー哲学者による定義を解説*なるほう堂】を見てほしい)。数学は「第二の哲学」とよばれる。しかしその哲学の中には究極の原因を探究する学問が存在する。それが「第一の哲学」である。

 ややこしいのは、このような究極の原因を探究する学問の呼び名がアリストテレスの時代にはまだ定まっていなかったことである。例えば第一の哲学は、またの名を「神学」と呼ぶ。そしてその学問自体をアリストテレスは『形而上学』で「今我々の探究している学」とか呼んだりする。固定した名称がなかったのだ。そういうわけで書名にメタフィジックスが当てられると、それがそのまま第一の哲学を表す名称となっていったわけである。

形而上学という訳語

 さて最後の問題である。直訳すれば「自然学のあとの学」なのに、どうしてメタフィジックスが「形而上学」になってしまったのか。

 最初に「形而上学」はラテン語では Metaphysica と書くと述べておいたが、中世になると meta の意味が転じて、自然界・感覚界を「超越」したものに関する学を指す語として用いられるようになった。現代の「メタ」に通じる意味である。もともとの意味からだいぶずれてしまったが、『形而上学』という名前もその意味に応じて訳されたものである

 哲学の概念の翻訳は漢文から拾ってきたものが多い(哲学もそうである)が、形而上学もそうである。『易経』の繋辞伝に「形而上者謂之道、形而下者謂之器」という言葉がある。意味は「形より上なるもの、これを道といい、形より下なるもの、これを器という」となる。形より上というのは、形を持たない万物の原理や根拠を指し、形より下というのは、形を保ったもの、すなわち自然の事物を指す。この「形而上」という言葉がメタフィジックスの「自然界・感覚界を「超越」したもの」にピッタリだったのだろう。西洋哲学、というよりむしろ中世哲学だとそれは道ではなく神という言葉がふさわしいものだが、なんにせよどちらも形はない。というわけでメタフィジックスは日本語で形而上学と呼ばれるようになったのである(中国語も同じである)。

アリストテレス以後の形而上学の展開

 中世哲学では形而上学が「超越」に関する学であったことは先ほど述べたが、その後はどうだったのだろうか。実は人によって定義がまちまちでそれだけで一つ記事が作れる状況である。形而上学を神に関する学問だと定義した人なら、とりわけ近世哲学の哲学者からしたら否定的に捉えられる概念となるし、そうではなくて神ではないけど形のないものに関する学問と定義したら、刷新された形而上学の意味として肯定的に扱われるだろう。カントやヘーゲル、マルクス、ハイデガー、レヴィナスなどの哲学者が形而上学という概念について言及している。

ハイデガーの場合

 ハイデガーにおける形而上学とは、プラトン・アリストテレス以来の西欧伝統の形而上学のことである。その伝統の中では存在者の存在が問われないままであったと彼はいう。ハイデガーの存在論はこうした西欧形而上学の伝統の破壊に他ならない。なお彼には『形而上学入門』という著作がある。

デリダの場合

 デリダの有名な言葉に「現前の形而上学」という言葉がある。デリダはそうしたハイデガーの目論見に示唆を受けつつ、西欧形而上学の特徴を「現前の形而上学」と規定したのである。その意味は《主観の前にありありと現前すること》をもって真理の基準とする態度のことである。しかしそうした見方は一種の形而上学的偏見に過ぎず、それゆえ現前の形而上学が脱構築されることとなる。

レヴィナスの場合

 レヴィナスにおける形而上学概念はハイデガーのような見方を引き継がない。レヴィナスは倫理学こそ第一哲学であると説いたが、その第一哲学としての倫理学は、他者が直接は現前しない限りにおいて、形而上学であるとする。つまり自らの他者の哲学こそ良い意味で「形而上学」なのである。

参考文献

アリストテレス『形而上学(上)』出隆訳、岩波文庫、1959年((下)1961年)。

こちらは哲学用語特集 – 〇〇とは何か – に収録されています。こちらもぜひご覧ください。

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