コペルニクス的転回とは何か|意味を分かりやすく解説|カント『純粋理性批判』

コペルニクス的転回とは何か|意味を分かりやすく解説|カント『純粋理性批判』

意味

 コペルニクス的転回とは、哲学的にはカントが自らの哲学の哲学史における大転換を示すために使った概念。一般には、物事の見方が180度変わることを意味する。元ネタは天文学における天動説から地動説への説への転換で、この発見をしたのがコペルニクスだったので、それがコペルニクス的転回と呼ばれるようになった。

 カントは自分の超越論的哲学への転換が、そのようなコペルニクスの転換に類似していると語っている。そのことからカントは、それまでのイギリス経験論や大陸合理論の主要学説から自身の超越論的哲学への転換そのものをコペルニクス的転回と呼ぶようになった。

解説

コペルニクスの地動説への転換との共通点

 そもそもコペルニクスの偉業がどのようなものであったのかを抑えておきたい。コペルニクスは、1507年ごろ太陽中心説の基本構想をまとめた『コメンタリオルス』を著す。これを理論的に整備したのが『天球の回転について』(1543)である。そして、その著作で発表した地動説によって、それ以前のアリストテレス的な地球中心の天動説宇宙観を根本的に打ち砕いたのである。

 この地動説への転換とカント自らの超越論的哲学への転換は共通点が二つある。

 一つ目が《主観と客観の価値の転倒》である。天動説の場合、自分(主観)は止まっていて、天体(客観)が動いているが、コペルニクスの地動説になると、自分(主観)が動いていて、見ている天体(客観)が止まっていることになる。同じようにカントの場合は、従来の哲学では「認識(主観)が対象(客観)に従う」と考えられてきたが、カントの場合「対象(客観)が認識(主観)に従う」ということになる。

 二つ目が《仮象の存在》である。すなわちコペルニクスの場合、天体運動の仮象(見かけの運動)を見抜き、真の運動を記述するためのものが地動説であり転回であった。同じように、カントの超越論的哲学は、理性批判として仮象に陥る理性の正体を暴き出し、その真相を明らかにしようとした。そこで彼は理性の問いを分析論と弁証論に分け、見かけの運動でしかない仮象の正体を弁証論においてアンチノミーとして暴き出すこととなった。

著作読解

カント『純粋理性批判』におけるコペルニクス的転回

 実は、カントの著作や手紙の中にも「コペルニクス的転回」という言葉は出てこない。後に誰かが名付けた言葉なのである。しかしながら、一般的には『純粋理性批判』第2版序文にこの言葉が結びつけられている。というわけで、『純粋理性批判』第2版序文をみてみることにしよう。

『純粋理性批判』第2版序文におけるコペルニクス的転回

 カントが序文で述べるには、まず理性的な学問の成立にはアプリオリな認識が不可欠だということである。アプリオリということは、ここでは〈経験と関係なく〉ということだ。例えば「カラスは黒い」という認識は経験に依存(関係)している。というのも、カラスを見なければ「黒い」かどうか分からないからである。しかしながら経験に依存しない認識も存在するし、そこから学問が成立することもある。その例が論理学であり数学と物理学である。これらの学問の対象はいちいち経験を調べなくても真であることが確かめられる。例えば数学(幾何学)の対象である二等辺三角形。本物の二等辺三角形というのは現実には存在しない(それっぽいものでも現実には誤差が生じてしまう)が、観念としての二等辺三角形からはその特性を導き出すことができる。これがアプリオリな学問の特徴である。それを応用した自然科学はガリレイやニュートンを経て、確実な学問を打ち立てている。

 さて、問題は形而上学である。形而上学に関する問い(例えば神、宇宙(自由)、霊魂の不死、対象)も理性のアプリオリな問いなのだから、理性自身が確実な学問として打ち立てなければならない。しかし形而上学はこれまでのところ確実な学問として道を打ち立ててこなかった。みんな適当に様々な意見を言っていたのである。

 面白いのはここからである。カントは、それはなんのせいだったのか、と問う。形而上学がてんでバラバラな意見しか集められないのはなんのせいだったのか。そのヒントをカントは数学・自然科学との類比で考えるのである。この類比は「コペルニクスの最初の考えにおける事情と全く同様である」と言ったあと、次のように述べる。

すなわち、コペルニクスは、彼が全天体が観察者の周りを回ると想定した場合、天体運動の説明がうまくいかなかったので、観察者を回転させ、これに対して星を静止させたならば、もっとうまくいくのではないだろうかと試みた。さて、形而上学においては、諸対象のに関して、ひとはそのことを類似したやり方で試みることができる。

『カント全集4』34頁。

 コペルニクスは見方を180度回転させた。自分は静止しており天体は動いている、と星々をみるとそう思うわけである。しかしそのやり方では、わたしたちも知っているように、天体運動を簡潔に説明することができなかった。ところが、自分が動いており、星は静止していると考えたなら、説明が「もっとうまくいくのではないか」と考えたのである。これをカントは形而上学にも当てはめてみようとしたのだ。

 形而上学の世界では、対象が実在しており、それに認識が合わせるという、いわゆる「認識が対象に従う」という見方が一般的であった。しかしそのような見方だと、形而上学の問題をスマートに簡潔に説明することができない。それでは逆にしたらどうなのか。「対象が認識に従う」と考えたら「もっとうまくいくのではないか」。カントは引用で「直観」に関してうまくいくと述べている。カントの場合、直観とは感性の領域の話で、つまり感覚的なものを捉えるのに、実は認識の側に直観の枠組みがあると考えると、アプリオリな認識というものがうまく説明できるというのである。例えば幾何学が挙げられるだろう。これは感性的であるが、経験によらないアプリオリな認識である。

 概念も同じことである。概念とはカントの枠組みでいうと悟性と関わるのであるが、ここも対象の存在に先立って、我々の方に悟性の規則が与えられている。というわけで認識(直観、概念)は、まず主観の側に規定があると考えた方がよろしいということになる。それがいわゆるカントの超越論的哲学となる。それゆえ

考え方の変革的方法とは、つまりは、我々自身が諸物のうちに置き入れるものだけを、われわれは諸物に関してアプリオリに認識するということである。

同書、35頁。

 「考え方の変革的方法」というのは、コペルニクス的な転回のことである。コペルニクス的転回が180度視点を変えたように、諸物に関する認識も視点を変えなければならない。元来は物の方にアプリオリな何かが備わっているとみなされてきた。そうではなく、主観のほうにアプリオリな規定(枠組み)があり、そのなかでしか諸物を見ることができないのである。

 ちなみに余談だが、マルク・リシールには『コペルニクス的転回の彼方へ』という超かっこいい題名の本がある。彼の初期の哲学的宇宙論であり、中身は超難解である。

参考文献

『カント全集4』有福考岳訳、岩波書店、2001年。

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