アンチノミーとは何か。カント『純粋理性批判』|意味をわかりやすく徹底解説

アンチノミーとは何か。カント『純粋理性批判』|意味をわかりやすく徹底解説

概要:アンチノミーとは何かーーカントとアンチノミー

 そもそもアンチノミーって何?と思われる方も多いだろう。アンチノミーはドイツ語だと Antinomie と書く。何でドイツ語かと言うと、カントが一躍有名にした概念だからだ。日本語に訳すと「二律背反」となる。で、二律背反って何?となるだろう。辞書的な意味では「どちらも妥当である命題同士が互いに矛盾する状態であること」となる。そんなのありまっかいな!!と突っ込みたくなる。例えば「このリンゴは赤い」と「このバナナは黄色い」という命題があり、どちらも正しいとしよう。目の前にリンゴとバナナがあって、で片方は赤く片方はは黄色い・・・正しい・・・だから何なんだ!!? もちろんこの二つの命題は互いに矛盾せず両立しているので、アンチノミーの状態ではない。では「このリンゴは赤い」と「このリンゴは青い」(同一のリンゴと仮定しよう)はどうだろうか。

 もちろん、赤くなりつつある青色のリンゴというのはあるのだが、そういうことは脇に置いておくと、この命題は互いに矛盾している。よし、それで次だ。「どちらも妥当である」?・・・さすがに厳しいだろう。同時に青くて赤いリンゴなんで存在しない。何?それは矛盾関係にないだって?それではこういうのはどうだろう。「この水は冷たい」と「この水は冷たくない」だ。両方の主語が同一のものだとすると、両方の命題が妥当となるためには「冷たくて冷たくない水」が存在しなくてはならない・・・これはちょっと謎かけにしか思えない。すると、アンチノミー命題はそもそも存在するのかという疑念が湧き上がるだろう。

 実はそれは存在する。そしてそれを、カントは理性の中に見つけたのである。それだけではない。この発見は哲学の枠組みを作り替えてしまうような大発見であり、その大発見を発表したのが、イマヌエル・カント『純粋理性批判』なのだ。

created by Rinker
¥935 (2022/09/30 19:50:17時点 Amazon調べ-詳細)

純粋理性の運命:実はアンチノミー論が『純粋理性批判』の冒頭に来る予定だった(中級編)

 本当にそんなに重要な発見だったの?と思う人がいるかもしれない。そもそも、『純粋理性批判』の章立てを見てみても、おきまりの認識論の展開が並んでおり、感性→悟性(知性)→理性と議論が進み、その理性の項目の中でアンチノミーが語られるだけだ。そんなにアンチノミーが重要なようにはみえない。しかし、構想段階ではその順番は違ったのだ。石川によれば「カントは『純粋理性批判』執筆の開始当初、このアンチノミー論を冒頭に置く構想を描いていた。十一年の歳月を経てこの書が出版された時期にも、彼はこの構想を捨てきれず、弟子のマルクス・ヘルツにこの構想がポピュラリティーを持つと告白している」(『カント入門』26頁)。カントにとって、アンチノミーの発見こそが『純粋理性批判』の革新だったのである。

 どうしてそんなに革新的なのか。一つにそれは、一般に哲学の営みというと、究極の原理の探究ということだったからだろう。第一原理の探究とか呼ばれるものである。例えばプラトンのイデアなどを思い浮かべてもらいたい。石のイデアとか、善のイデアとか、そういったものは経験的な「あの石」「この石」を統一する「石そのもの」だったり、イデアの中のイデアだったりする。これは理性的な働きの内に含まれる。つまりカントのいう純粋理性だ。普遍、理性、理念、神、究極原理、哲学はこういったものを目指して探究を続けてきた。というわけで理性とは、哲学にとって最も重要な究極原理のことだったという前提があるわけだが、その理性がアンチノミーという罠に陥ってしまうとカントは考えた。これは、哲学の歴史を考慮に入れると、かなり大問題を引き起こす発想であった。

 もう一つが、これは石川が主張していることだが、そもそもアンチノミーの発見があったからこそ、カントは超越論的哲学を打ち立てられたということである。アンチノミー論がまず先にあって、そのあと『純粋理性批判』が構想されたことはすでに述べたが、それだけでなく、第一アンチノミーの結論を考察していくと、時間・空間は客観的な実在性をもたず主観の形式にすぎないことが分かってくるのである。これは要するに超越論的感性論における直観の形式を意味している。つまり『純粋理性批判』第一章の超越論的感性論というアイディアはアンチノミーという発想が土台となっており、それに連なる形で壮大な超越論的哲学の体系が完成するのである(『カント入門』第3章参照)。

 だからこそ『純粋理性批判』の第一版序文冒頭は非常に意義深い。つまりこれはカントの「熱い思い」なのだ。

人間の理性はある種の認識において特殊な運命を担っている。すなわち、理性が退けることもできず、かといって答えることもできないような問いに煩わされるという運命である。

 この運命は超越論的現理論の第二部門超越論的論理学のさらに第二部:超越論的弁証論で語られる。弁証論〔Dialektik〕、これは理性の二枚舌のことであり、そしてさらにいえば、理性は必然的に間違える!ということだ。そしてそこで満を辞して登場してくるのが理性の特異な運命であるアンチノミーなのである。

 何度も言うがこれは、ほう、理性はいろいろ大変なんだね、で済まされる話ではない。アンチノミーを発見したカントはそれによって新たな体系である超越論的哲学を打ち立て、それまでの形而上学の対象であった「神・自由・(魂の)不死」を葬り去ろうとしたのである。「神は死んだ」と言ったのはニーチェであるが、神を殺したのはカントである。さらに「魂の不死」というメンデルスゾーンの仮説も粉砕した。その調子で自由も・・・と行きたいところだったがカントはここで立ち止まった。自由がなくなるとなあ・・・世界は因果関係しかなくなってなあ・・・困る!!。というわけでアンチノミーを受け入れたカントであったが、自由の問題に直面したのである。さてこれは解決できるのだろうか。なんとカントは解決する、それもアンチノミーの中で

四つのアンチノミー解説(『純粋理性批判』超越論的弁証論「純粋理性のアンチノミー」)(中級編)

 理性は間違える、と先ほど述べたが、そのような理性の推論(弁証法的推論)は実は三つある。一つ目が「純粋理性の誤謬推論」であり、これは魂とか心の実在性に関わる。魂に関して理性はそれが実在するか否かを判断することはできない。二番目が「純粋理性のアンチノミー」でこれは宇宙(世界、自然)に関する理性の暴走だ。三つ目が「純粋理性の理想」と題されるが、それは神認識に関わる。神についても理性はその実在性について確証させることはできない(だから神を殺したのである)。さきほど形而上学的な問いとして「魂、自由(自由は宇宙論の枠内なの?と思われるかもしれないが、自然法則との関係でいえば宇宙論に含まれる)、神」を挙げておいたが、ようするにそういった形而上学的な問いに対する批判が超越論的弁証論でやりたいことなのである。

 さてアンチノミーである。『カント入門』では紙片の都合上、アンチノミーの一つ目と三つ目だけを解説している。なぜ中途半端な三つ目?と思われるかもしれない。それはこの三つ目が自由の問題と絡んでくるからだ。ここでは紙片の都合などないのだが、全部を検討する気力はないので、とりあえず四つを紹介だけはしておこうと思う。

 さきほどもいったがアンチノミーとは二つの正しい命題が矛盾し合う状態のことだ。というわけでカントのアンチノミーも命題が二つずつ登場し、それぞれテーゼとアンチテーゼに分かれている。

第一アンチノミー
テーゼ:世界は時間において始まりをもち、空間的にも限界に囲まれている。
アンチテーゼ:世界は始めをもたず、空間における限界をもたず、時間に関しても空間に関しても無限である

第二アンチノミー
テーゼ:世界におけるあらゆる合成された実体は単純な部分からなる。そもそも現実に存在するものは単純なものか、それとも単純なものから合成されたものか、それ以外にはない。
アンチテーゼ:世界における合成された物は単純な部分からならない。世界のどこにも単純な部分は存在しない。

第三アンチノミー
テーゼ:自然の法則による因果性だけが唯一の因果性ではなく、そこから世界の現象のすべてが導きだされうるわけではない。現象を説明するためには、自由によるもう一つの因果性を想定する必要がある。
アンチテーゼ:自由は存在せず、世界においてすべてはただただ自然の法則によって生じる。

第四アンチノミー
テーゼ:世界には、その部分としてか、あるいはその原因として、絶対的に必然的存在者が属する。
アンチテーゼ:世界の中であれ外であれ、世界の原因としての絶対的に必然的な存在者は、どこにも存在しない。

 それぞれ違った主題がテーマとなっている。第一アンチノミーは宇宙の大きさと時間の始まりの話だ。第二アンチノミーは現代風に言ったら原子とか分子とか話で、第三が自由と因果、第四が創造的な第一原因(神)の話である。

 第一アンチノミーを例に見ていこう。第一アンチノミーではテーゼとアンチテーゼが示された後、その証明に移る。そしてどちらも背理法によって真であることがが証明されるのだ。

第一テーゼーの証明

 世界が時間からみていかなるはじまりももたないと想定せよ。・・・したがって世界の始まりは世界の現存在の一つの必然的条件である。
 第二の点(空間的に限界によって囲まれていること)に関しても、その反対を想定してみよう。・・・したがって世界というものは、空間における広がりからみて無限ではなく、むしろ限界によって囲まれている。

石川訳『純粋理性批判』

 第一アンチテーゼもこんな感じで証明される。というわけでテーゼ、アンチテーゼは共に正しい。さて問題はどっちも正しいという事実をどう解釈しようということだ。時間空間ともに有限であるとともに無限である。これはどういうことなのだろうか。

 まず、そこに何も問題はないという超人的な解釈は考えられる。有限であると同時に無限であるという状態は原理的に存在可能である、とすることである。しかしそんな結論は土台意味がないし、おそらくカントの超越論的分析論を前提にすると無理があるようだ。そのような矛盾は明らかにカテゴリーの枠外にある。

 ここに何かしらの問題がある、とカントは見た。

 カントが導き出したのは、このような矛盾した状況が導かれる場合は、どちらの命題も間違いだと言う結論だ。『カント入門』によれば、第一アンチノミーの対立は論理学で「反対対立」と呼ばれるものであり、厳密な意味での矛盾をなしておらず、その場合命題がどちらも間違いという場合がありうる(『純粋理性批判』第二2篇第2章第7節も参照)。カントはこのことに関して「四角い丸は丸い」と「四角い丸は丸くない」という例を出している。どちらの命題もそもそも命題の前提が間違っていることが容易にみてとれるが、これは第一アンチノミーの構造と同じ構造をなしているのである。要するにどちらの命題も間違いだ、ということはそもそ前提が間違っているということなのである。

 それでは第一アンチノミーの前提は何だったかというと、それは世界が客観的に実在するという前提である。だからこそ世界には時間的にも空間的にも限界があるのかないのか云々という議論がなされていたのだ。しかしそもそも世界が客観的に実在しないとしたらその議論は無意味である。この暗黙の前提によって理性は混乱させられていた。世界が無限だと主張するのは、世界が、世界は限界がある(有限である)と主張するのは、世界が。世界は量的には測れないものなのである。というわけで、第一アンチノミーに関する結論は、そもそも世界が有限とか無限とか問うてはいけないということになるのである。

第三アンチノミーと実践理性:第三アンチノミーは救われる(中級編)

 さて、全てのアンチノミーに対して、「そんなことは問うてはいけない」という結論に達するのなら非常に簡単な話だった。しかしそうはならなかった。カントは第三アンチノミー(第四アンチノミーも)は救うのである。

力学的系列のあまねく条件づけられているものは、現象としてのその系列と分離されがたいが、しかし経験的に無条件であってしかも非感性的な条件と連結されれば、一方で悟性を、他方で理性を満足せしめうるのであり、だからたんなる諸現象における無条件的総体性をなんらかの仕方で求めた弁証論的論拠は崩壊するのに、これに反して、両方の理性的命題は、このように是正された意味において、両方とも全て真でありうることになる。

原訳『純粋理性批判』337−338頁

 最後の文章に注目してもらいたい。「両方とも全て真でありうることになる」らしいのである。つまりアンチノミーの両命題ともに正しいということになるらしいのだ。

 どうしてそんなことになってしまうのか。曰く、第一・第二アンチノミーと第三・第四アンチノミーはそれぞれ質が異なるという。その違いを数学的理念と力学的理念という区別で説明する。第一・第二は数学的理念、第三・第四は力学的理念だということである。しかし、力学的理念はどうして救われるのであろうか。

 世界といったものは経験的に無条件的なものとはならない。いくらでも量的に遡行できるからである。しかし自由はそれ自体なにからも条件づけられていない、つまり無条件である。

感性的な諸条件の力学的系列は、その系列の一部分なのではなくたんに仮想的なものとしてその系列の外にあるような、そうした異種的条件をもさらに許すということになる。

(原訳、337頁)

 カントのアクロバティックな解決方法が分かるだろうか。なるほど、世界は量的にいくらでも遡行できるので無条件的なものとならない。逆に自由はそれ自体が始まりであり無条件である。しかし因果系列の中にどうやって自由を組み込むというのか。いや、組み込まないというのである。カント曰く「その系列の外」に自由はあるというのである。外に?ここであの有名な区別がでてくるわけだ。現象(感性界)と物自体(英知界)である。つまり、自由というのは物自体に属するわけで、だから現象世界の因果系列とは関係がないんですよ、ということである。こんな二世界説みたいな説が一体通用するのだろうか。

 『カント入門』曰く、このように自由を保証することは正当であり、なぜなら「アンチノミーを放置しておくことにはるかに勝るから」(138頁)だとのことである。とにかく自由はなんらかの形で存在していなければまずい。そうでないと、人間世界における倫理というものを確保できないからだ。その意味で第三アンチノミーは救わなければいけないアンチノミーでもあった。

 こんなことを言ったからといって、カントが自由の実在を主張していたわけではないことには注意が必要だ。「注意しなけばならないことだが、私たちが以上によって立証しようとしたのは自由のではない」(原訳、366頁)。さらに「自由のをすら証明しようとしたのでは全然ない」(同頁)。それでは何なのか。

自由はここでは超越論的理念としてのみ論じられているのであって、自由というこの超越論的理念によって理性は、現象における諸条件の系列を感性的に無条件的なものによって端的に開始しようとした考えるのであるが、・・・

原訳、367頁

 これはこれで新たな問いが成り立つだろう。それでは超越論的理念とは何なのかと。思うに理念でしかないということは、簡単に言えば、思考でしかないということだ。しかしながらそれが超越論的だということは、こういった問題を考えるときに必然的につきまとう形式でもあるということだ。自由と因果性という根本的な(形而上学的な)問題を考える際につきまとう超越論的理念、これこそ、カントが示した自由というものが何たるかの結論である。

理性の問いは巡って:理性論のカント以後の展開(中級編)

 アンチノミーという発想は思うに大発見だった。しかしその後のドイツ観念論の人たちはそういった見方を引き継がない。彼らが企てたのは理性の復権である。

 理性の復権ということで一般に言われるのは、カントが自由の領域(実践理性の領域)でしか認めなかった理性的なものを『純粋理性批判』の領域にも適用しようとする試みだ。理論(純粋)理性の領域では理性は弁証論という仮象に陥るのであり、形而上学的な問いに対しては役に立たない。しかしその領域にもう一度、神とか自由とか魂とかの問題系を持ち込んだのだ。

 例えばフィヒテだが、リシールによればフィヒテの問題意識は有限と無限の関係性であり、その意味で彼が土台とした議論は『純粋理性批判』のアンチノミーであると主張している(『マルク・リシール現象学入門』参照。リシールに関しては【マルク・リシールを読もう【著作紹介】*なるほう堂】)。

 ヘーゲルはものすごい逆利用をした。ヘーゲルはアンチノミーを否定しない。むしろ全肯定しこれこそ理性の展開を表しているとする。超越論的弁証論の逆利用だ。つまり弁証論というのは理性統一の働きを表しているのである。ヘーゲルは精神の運動を弁証法と名付けたが、それはカントの弁証論を(カントにとってはそれは理性を仮象に導くものでしかなかったわけだが)逆転させた思想なのである(『大論理学』参照)。そうすることでヘーゲルもまた理性を復権させようとした。

 もちろん論理的にはそういったことは簡単に行えるのだ。例えば、理性は分裂したり誤ったりするとしても、それはまだ理性が完成形態にまで至っていないからだといえば理論上事足りる。ドイツ観念論はカントの認識論的枠組みは踏襲したにもかかわらず、カント的な二分法は破棄した。彼らはカント哲学の大発見を断固として受け継がなかったのである。

 その後の生の哲学の時代(キルケゴール、ニーチェ)、フッサールハイデガーなどの現象学の時代になるとまた新たな展開を見せる。どちらかというと理性ではなくて感性推しになるのである。実存という難しい問題に直面したからである。しかし、それでも理性による統一という発想は基本的に受け継がれているし(特にフッサール)、哲学が続く限り理性をどう考えるかという悩みはつきない。

 カントの物自体と現象の区別は現代でも批判されるが、だからといってアンチノミーの魅力が色あせることはないだろう。というのもアンチノミーは現代物理学においても普通に見出せるからである。一番小さい粒子(とかその類)は何なのだろうか。それは絶対に分からない。というのも「必然的な最小」というものは経験できないからである。経験的な最小はいくらでも分割できるわけで、その最小は経験できない。

 カントの入門に関しては石川文康の新書をお勧めしたい。彼は一貫して理性に関する一大発見からカントの思想を論じている。彼にはカントの『純粋理性批判』の翻訳もある。この翻訳は例えば「悟性」を「知性」と訳したことなどで有名なのだが、その理由も詳しく書かれており(簡単に述べておくと、その頃のドイツ語の哲学の概念はラテン語の翻訳であり、ラテン語を参照しながら日本語に翻訳し直したから)非常に読みやすい翻訳となっている。

おすすめ関連商品

created by Rinker
¥902 (2022/09/30 20:38:09時点 楽天市場調べ-詳細)
必読の書
created by Rinker
¥1,034 (2022/09/30 20:38:10時点 Amazon調べ-詳細)
倫理学入門におすすめ
created by Rinker
¥250 (2022/09/30 15:19:57時点 Amazon調べ-詳細)
created by Rinker
¥577 (2022/09/30 15:19:58時点 Amazon調べ-詳細)

補足:『純粋理性批判』とは

 このアンチノミー論が語られる『純粋理性批判』とは、カントの最初の主著であり、別名『第一批判』とも呼ばれる書物である。カントは『・・・批判』という著作を他に二つ発表しており、それが『実践理性批判』(第二批判)と『判断力批判』(第三批判)である。この三つを合わせてカントの『批判書』と呼ばれることもある。

 ここでいわれる「批判」は、日本語のような否定のニュアンスはない。意味とてしては「審査」「審判」「判定」「吟味」に近く、〈純粋理性批判〉の意味は、純粋理性という能力では何がどこまで可能なのか吟味・審査しますよ、ということだ。簡潔にいうと、純粋理性の限界について考える、ということだ。だからこそアンチノミー論が重要な位置を占める。それは理性の限界を超えたときに現れるものだからである。

 『実践理性批判』も『判断力批判』もそれら、実践理性という能力と判断力という能力の限界を見定めようとした書物である。『実践理性批判』では善(倫理)の問題が、『判断力批判』では美(快・不快)の問題が扱われる。

参考文献

イマヌエル・カント、原佑訳『純粋理性批判(中)』平凡社、2005年。

イマニュエル・カント、石川文康訳『純粋理性批判(上)(下)』筑摩書房、(2014)年

石川文康『カント入門』ちくま新書、1995年。

こちらは哲学用語特集 – 〇〇とは何か – に収録されています。こちらもぜひご覧ください。

哲学カテゴリの最新記事