アンチノミー(二律背反)とは何か|意味をわかりやすく解説|カント『純粋理性批判』

アンチノミー(二律背反)とは何か|意味をわかりやすく解説|カント『純粋理性批判』

意味

 アンチノミー(Antinomie)は、ドイツの哲学者イマヌエル・カントが有名にした哲学的概念である。

 日本語に訳すと「二律背反」になる。アンチノミーとは「矛盾した命題」のことだと勘違いされやすいが、実はまったく異なる。例えば「丸くて四角い図形」というのは、アンチノミーではなく、単に「矛盾した命題」である。

 アンチノミーとは、正しい命題が二つありそれらが互いに矛盾するという事態を意味する。カントのアンチノミーとしては『純粋理性批判』における「四つのアンチノミー」が有名である。

 アンチノミー命題を見つけようとしても、なかなかぱっとは思いつかない。例えば「無知の知」で有名なソクラテスについて考えてみよう。「ソクラテスは人間である」という命題に矛盾する命題は「ソクラテスは人間ではない」となるが、後者は明らかに正しくないので、それらの命題同士にアンチノミーは成立しない。

 このように、アンチノミーは経験的な次元においてはほとんど発生しない。しかし、カントが発見したように、それは理性の次元で存在するのである。しかもその発見が哲学重大問題とも関わるものであり、カントの発見によって、その後の哲学に大きな影響を与えることとなった。

解説

カントの四つのアンチノミー

 カントが提示したアンチノミーは4つ存在する。それがカントの「4つのアンチノミー」と呼ばれるものである。「『純粋理性批判』の超越論的弁証論:純粋理性のアンチノミー」の章が最も有名である。その4つをまず見てみよう。

 概要でも述べたが、アンチノミーとは二つの正しい命題が矛盾し合う状態のことである。というわけで、カントのアンチノミーも命題が二つずつ登場し、それぞれテーゼアンチテーゼに分かれている。


第一アンチノミー
テーゼ:世界は時間において始まりをもち、空間的にも限界に囲まれている。
アンチ・テーゼ:世界は始めをもたず、空間における限界をもたず、時間に関しても空間に関しても無限である。

第二アンチノミー
テーゼ:世界におけるあらゆる合成された実体は単純な部分からなる。そもそも現実に存在するものは単純なものか、それとも単純なものから合成されたものか、それ以外にはない。
アンチ・テーゼ:世界における合成された物は単純な部分からならない。世界のどこにも単純な部分は存在しない。

第三アンチノミー
テーゼ:自然の法則による因果性だけが唯一の因果性ではなく、そこから世界の現象のすべてが導きだされうるわけではない。現象を説明するためには、自由によるもう一つの因果性を想定する必要がある。
アンチ・テーゼ:自由は存在せず、世界においてすべてはただただ自然の法則によって生じる。

第四アンチノミー
テーゼ:世界には、その部分としてか、あるいはその原因として、絶対的に必然的存在者が属する。
アンチ・テーゼ:世界の中であれ外であれ、世界の原因としての絶対的に必然的な存在者は、どこにも存在しない。


 これをみると、それぞれ異なった主題がテーマとなっていることが分かる。第一アンチノミーでは、宇宙の(時間的・空間的)最大を見つけられるのかが問われ、第二アンチノミーでは、何が最小の物体なのかが問われている。第三アンチノミーが自由と因果の問題、第四アンチノミーが創造的な第一原因(神)の問題である。

第一アンチノミーの問題点

 これらの命題同士はどうしてアンチノミーだと証明できるのか。第一アンチノミーを例に見ていこう。カントは第一アンチノミーでテーゼとアンチ・テーゼを示した後、それらの命題の証明に移る。そこではどちらの命題も背理法によって真(正しい)であることが証明されるのだ。

第一テーゼーの証明

 世界が時間からみていかなるはじまりももたないと想定せよ。・・・(省略)・・・したがって世界の始まりは世界の現存在の一つの必然的条件である。
 第二の点(空間的に限界によって囲まれていること)に関しても、その反対を想定してみよう。・・・(省略)・・・したがって世界というものは、空間における広がりからみて無限ではなく、むしろ限界によって囲まれている。

『純粋理性批判』石川訳

 詳しい論証の中身は『純粋理性批判』を手に取って確認してもらいたい。とにかく、このようにテーゼの正しさが証明され、そのあと第一アンチ・テーゼも同じように正しさが証明される。というわけで、テーゼ、アンチ・テーゼは共に正しいということになる。

 さて問題はどちらも正しいという事実をどう解釈すべきかということだ。時間空間は有限であるとともに無限である。これはどういうことなのだろうか。

 カントが導き出したの答えは、このような矛盾した状況が導かれる場合は、どちらの命題も間違いだという結論である。『カント入門』によれば、第一アンチノミーの対立は論理学で「反対対立」と呼ばれるものであり、厳密な意味での矛盾をなしておらず、その場合、命題がどちらも間違いという場合がありうる(『純粋理性批判』第二2篇第2章第7節も参照)。カントはこのことに関して「四角い丸は丸い」と「四角い丸は丸くない」という例を出している。どちらの命題もそもそも命題の前提(主語)が間違っていることが容易にみてとれるが、実は、これと第一アンチノミーは同じ構造をなしているということなのである。一見すると第一命題はどちらも正しいように見えるが、命題の前提が間違っていたのである。

 それでは第一アンチノミーの前提は何だったかというと、それは世界が客観的に実在するという前提である。だからこそ、世界には時間的にも空間的にも限界があるのかないのかという問いが成立する。しかし、カントの超越論的哲学の前提では客観的に実在するものは存在しない。仮に実在するものあったとしても、人間はそれを主観の枠組みの中でしか認識できないのである。この暗黙の前提によって理性は混乱させられていた。世界が無限だと主張するのでは、世界が、世界は限界がある(有限である)と主張するのでは、世界が。世界は量的には測れないのである。というわけで、第一アンチノミーに関する結論は、そもそも世界が有限とか無限とか問うてはいけない、ということになるのである。

第三アンチノミーと実践理性:第三アンチノミーは救われる

 さて、全てのアンチノミーに対して、「そんなことは問うてはいけない」という結論に達するのなら非常に簡単な話だった。しかしそうはならなかった。カントは第三アンチノミー(厳密には第四アンチノミーも)を救うのである。

力学的系列のあまねく条件づけられているものは、現象としてのその系列と分離されがたいが、しかし経験的に無条件であってしかも非感性的な条件と連結されれば、一方で悟性を、他方で理性を満足せしめうるのであり、だからたんなる諸現象における無条件的総体性をなんらかの仕方で求めた弁証論的論拠は崩壊するのに、これに反して、両方の理性的命題は、このように是正された意味において、両方とも全て真でありうることになる。

原訳『純粋理性批判』337−338頁

 最後の文章に注目してもらいたい。「両方とも全て真でありうることになる」らしいのである。つまりアンチノミーの両命題ともに正しいということもありうるのだ

 どうしてそんなことになってしまうのか。曰く、第一・第二アンチノミーと第三・第四アンチノミーはそれぞれ質が異なるという。その違いを数学的理念と力学的理念という区別で説明する。第一・第二は数学的理念、第三・第四は力学的理念だということである。しかし、力学的理念はどうして救われるのであろうか。

 世界といったものは経験的に無条件的なものとはならない。いくらでも量的に遡行できるからである。しかし自由はそれ自体なにからも条件づけられていない、つまり無条件である。

感性的な諸条件の力学的系列は、その系列の一部分なのではなくたんに仮想的なものとしてその系列の外にあるような、そうした異種的条件をもさらに許すということになる。

『純粋理性批判』原訳、337頁

 カントのアクロバティックな解決方法が分かるだろうか。なるほど、世界は量的にいくらでも遡行できるので無条件的なものとならない。逆に自由はそれ自体が始まりであり無条件である。しかし因果系列の中にどうやって自由を組み込むというのか。いや、組み込まないというのである。カント曰く「その系列の外」に自由はあるというのである。外に?ここであの有名な区別がでてくるわけだ。現象(感性界)と物自体(英知界)である。つまり、自由というのは物自体に属するわけで、だから現象世界の因果系列とは関係がないんですよ、ということである。こんな二世界説みたいな説が一体通用するのだろうか。

 『カント入門』曰く、このように自由を保証することは正当であり、なぜなら「アンチノミーを放置しておくことにはるかに勝るから」(『カント入門』138頁)だとのことである。とにかく自由がなんらかの形で存在していなければまずい。そうでないと、人間世界における倫理というものを確保できないからだ。その意味で第三アンチノミーは救わなければいけないアンチノミーでもあった。

 こんなことを言ったからといって、カントが自由の実在を主張していたわけではないことには注意が必要だ。「注意しなけばならないことだが、私たちが以上によって立証しようとしたのは自由のではない」(原訳、366頁)。さらに「自由のをすら証明しようとしたのでは全然ない」(同頁)。それでは何なのか。

自由はここでは超越論的理念としてのみ論じられているのであって、自由というこの超越論的理念によって理性は、現象における諸条件の系列を感性的に無条件的なものによって端的に開始しようとした考えるのであるが、・・・

原訳、367頁

 これはこれで新たな問いが成り立つだろう。それでは超越論的理念とは何なのかと。思うに理念でしかないということは、簡単に言えば、思考でしかないということだ。しかしながらそれが超越論的だということは、こういった問題を考えるときに必然的につきまとう形式でもあるということだ。自由と因果性という根本的な(形而上学的な)問題を考える際につきまとう超越論的理念、これこそ、カントが示した自由というものが何たるかの結論である。

実はアンチノミー論が『純粋理性批判』の冒頭に来る予定だった

 アンチノミーが語られるのは、『純粋理性批判』の超越論的弁証論「純粋理性のアンチノミー」の章であり、全体から見ると後半部分になる。前半ではあまり言及されないので、そこまで注目しない専門家もいる。

 しかし、構想段階ではアンチノミー論が冒頭に来る予定であった。カント研究者の石川によれば「カントは『純粋理性批判』執筆の開始当初、このアンチノミー論を冒頭に置く構想を描いていた。十一年の歳月を経てこの書が出版された時期にも、彼はこの構想を捨てきれず、弟子のマルクス・ヘルツにこの構想がポピュラリティーを持つと告白している」(『カント入門』26頁)。カントにとって、アンチノミーの発見こそが『純粋理性批判』の革新だったのである。

 なぜ革新的なのか。理由は二つある。一つ目が、理性の権威を失墜させたからだ。理性は、カント以前には、正しく使用すれば究極の真理に到達するものと考えられてきたが、カントは逆に、理性はアンチノミーを引き起こすと考えた。つまりカントが言っているのは、理性を正しく使用したとしても究極の真理には到達できないということである。アンチノミーの罠にはまってしまうと、理性はそこから自力で抜け出すことはできない。

 もう一つが、これは石川が主張していることだが、そもそもアンチノミーの発見があったからこそ、カントの「超越論的哲学」へのコペルニクス的転回も可能となったということである。アンチノミー論がまず先にあって、そのあと『純粋理性批判』が構想されたことはすでに述べたが、それだけでなく、第一アンチノミーの結論を考察していくと、時間・空間は客観的な実在性をもたず主観の形式にすぎないことが分かってくるのである。これは要するに「超越論的感性論における直観の形式」を意味している。つまり『純粋理性批判』第一章の超越論的感性論というアイディアはアンチノミーという発想が土台となっており、それに連なる形で壮大な超越論的哲学の体系が完成するのである(『カント入門』第3章参照)。

 だからこそ『純粋理性批判』の第一版序文冒頭は非常に意義深い。つまりそれはカントの「熱い思い」なのだ。

人間の理性はある種の認識において特殊な運命を担っている。すなわち、理性が退けることもできず、かといって答えることもできないような問いに煩わされるという運命である。

『純粋理性批判』第1版序文冒頭

 この「運命」は、超越論的原理論、第二部門超越論的論理学、第二部:超越論的弁証論「純粋理性のアンチノミー」で語られるのだが、そこに登場するのがアンチノミーである。冒頭で言及されている「理性の特殊な運命」というのは、アンチノミーに陥ってしまうという運命なのである。

発展史

ドイツ観念論者たち

 アンチノミーという発想は大発見だった。しかし、カント以後のドイツ観念論の人たちはそういった見方を引き継がない。彼らが企てたのは理性の復権である。

 理性の復権ということで一般に言われるのは、カントが自由の領域(実践理性の領域)でしか認めなかった理性的なものを『純粋理性批判』の領域にも適用しようとする試みだ。理論(純粋)理性の領域では理性は弁証論という仮象に陥るのであり、形而上学的な問いに対しては役に立たない。しかしその領域にもう一度、神とか自由とか魂とかの問題系を持ち込んだのだ。

 例えばフィヒテだが、リシールによればフィヒテの問題意識は有限と無限の関係性であり、その意味で彼が土台とした議論は『純粋理性批判』のアンチノミーであると主張している(『マルク・リシール現象学入門』参照)。

 ヘーゲルはものすごい逆利用をした。ヘーゲルはアンチノミーを否定しない。むしろ全肯定しこれこそ理性の展開を表しているとする。超越論的弁証論の逆利用だ。つまり弁証論というのは理性統一の働きを表しているのである。ヘーゲルは精神の運動を弁証法と名付けたが、それはカントの弁証論を(カントにとってはそれは理性を仮象に導くものでしかなかったわけだが)逆転させた思想なのである(『大論理学』参照)。そうすることでヘーゲルもまた理性を復権させようとした。

 もちろん論理的にはそういったことは簡単に行えるのだ。例えば、理性は分裂したり誤ったりするとしても、それはまだ理性が完成形態にまで至っていないからだといえば理論上事足りる。ドイツ観念論はカントの認識論的枠組みは踏襲したにもかかわらず、カント的な二分法は破棄した。彼らはカント哲学の大発見を断固として受け継がなかったのである。

ドイツ観念論以後の哲学者たち

 キルケゴール(不安)、ニーチェニヒリズムルサンチマン永劫回帰)といったその後の生の哲学の時代、フッサールハイデガーなどの現象学の時代になるとまた新たな展開を見せる。どちらかというと理性ではなくて感性推しになるのである。実存という難しい問題に直面したからである。しかし、それでも理性による統一という発想は基本的に受け継がれているし(特にフッサール)、哲学が続く限り理性をどう考えるかという悩みはつきない。

 カントの物自体と現象の区別は現代でも批判されるが、だからといってアンチノミーの魅力が色あせることはないだろう。というのもアンチノミーは現代物理学においても普通に見出せるからである。一番小さい粒子(とかその類)は何なのだろうか。それは絶対に分からない。というのも「必然的な最小」というものは経験できないからである。経験的な最小はいくらでも分割できるわけで、その最小は経験できない。

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必読の書

 カントの入門に関しては石川文康の新書『カント入門』(ちくま新書)をお勧めしたい。彼は一貫して理性に関する一大発見からカントの思想を論じている。彼にはカントの『純粋理性批判』の翻訳もある。この翻訳は例えば「悟性」を「知性」と訳したことなどで有名なのだが、その理由も詳しく書かれており(簡単に述べておくと、その頃のドイツ語の哲学の概念はラテン語の翻訳であり、ラテン語を参照しながら日本語に翻訳し直したから)非常に読みやすい翻訳となっている。

関連項目

参考文献

イマヌエル・カント、原佑訳『純粋理性批判(中)』平凡社、2005年。

イマニュエル・カント、石川文康訳『純粋理性批判(上)(下)』筑摩書房、(2014)年

石川文康『カント入門』ちくま新書、1995年。

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