ハイデガーの良心論
マルティン・ハイデガーが現存在分析の中で、存在論的に意義深い現象として着目した人間的現象の一つである。ハイデガーは良心という現象を実存論的存在論的契機として位置づけ、現存在を本来性へと開示させる一つのあり方としてて提示する。
まずは一言で超簡単にまとめてみよう。良心とは何か。というよりもハイデガー的存在論にとって良心とは何か。良心とは、本来性に至ることができるということの証明である。
意味が分からないと思う。がしかし、ハイデガーが遂行している分析が現存在の存在論的解釈であるということを知っておけば、わりかし理解できる。つまり、彼がやっているのは存在論なのである。証とかそんなわけない!と思う人もいるだろうが、なぜそう思うのかというと、それはその人が存在論的に「良心」を考えていないからである。
さてどういう意味だろうか。まず、本来性が重要である。ハイデガー的存在論には本来性と非本来性という区別がある。要するに、本来性の方が非本来性よりも根本的であり、本来性が非本来性の土台になるということである。だから存在論的探究においては本来性へと向かうことになる。本来性を獲得できれば、そこから非本来性を基礎づけることができるからである。
しかし、本来性が露わになっていたとして、現存在自身が本当にその本来性に至ることができるかは定かではないとハイデガーは考えた。本来性を露わにするのは「不安」であった。しかし、それだけではまだ本来性が目の前に見えているだけである。そこに一歩踏み出せる道があることが示されなければならない。それゆえ本来性へ(つまり現存在自身へ)と至りうるための証明(道)が必要だという。それが良心という現象である。良心があるからこそ、自らの本来性へと現存在自身回帰することができると言えるのである。
本来性が単に実存的に可能であることを示すだけのものではなく、それを現存在自身に求めるような証があるのか、ということについて検証しておく必要がある。
『存在と時間』高田訳、398頁。
ハイデガーは「良心」を証(Bezeugung)として置き、分析を進めていくことになる。
ちなみにこっからはパズルみたいに「良心」の性格が存在論的に規定されてつながっていくので、その不思議さを魅力と感じることができれば、きっと『存在と時間』を楽しく読むことができると思う。
良心とは何か ーー『存在と時間』(中級編)
良心の呼び声
さて、それではハイデガーの良心論を『存在と時間』から見ていこうと思う。良心は証だといった。しかし、どうして証だといえるのか。現存在自身への回路はどのようにして開かれているのか。
このような証として私たちが以下の解釈で引き合いに出すのは、現存在の日常的な自己解釈が良心の声(Stimme)として知るものである。
400頁
良心=声という分析がまず導かれる。良心というのは声なのだ。しかし声にもいろいろあるだろう。人に話しかけるのも声だし、独り言も声である。そういった声の中で、本来性へと導く存在論的な良心の声を見つけなければならない。それではどのような声なのか。
良心をさらに一歩踏み込んで分析してみると、それが一種の呼び声(Ruf)であることが分かってくる。・・・良心の呼び声は、現存在に、自分にとって最も固有な自己でありうべき在り方に意を注ぐように呼びかける(Anruf)という性格、それも最も固有なかたちで負い目を在ることへ現存在を呼び起こす(Aufruf)という性格を備えている。
402頁
単なる声〈Stimme〉ではない。良心の声の性格は呼び声〈Ruf〉なのだ。そのルーフ(Ruf)構造の分枝として、アンルーフ(anruf)やアウフルーフ(aufruf)があり、そこから良心の根本的な性格が求められることになる。
さてW5H1みたいなのがまだ明確になってない。良心の呼び声とはどのようなものなのか。誰に向かっての呼び声なのか。誰が何を呼びかけるのか。まずここでは「誰が」「誰を」を明らかにしたい。
これは、ハイデガーが『存在と時間』でやりたかったことが現存在の本来性を抽出することであったことを覚えておけば、すぐに分かる。現存在の本来性というのは、要するに現存在自身(そのもの)のことだ。というわけで良心がこの本来性の証だとしたならば、誰が呼びかけるのかというと、現存在自身である。これをハイデガーは現存在の「気遣い」(これは現存在の根本的な在り方であり、フッサールの現象学と比較してみるならば、これは志向性と同様の身分である)が呼び声を発していると言い換えている。それでは誰を呼びかけるのかというと、それは現存在自身を呼びかけるのである。現存在自身が現存在自身を現存在自身へ呼びかける。これが良心の存在論的構造から読み取れるわけだ。
さて次である。良心の呼び声とはどのようなものか。ここにハイデガーはかなり変わった解釈を打ち出すので見ていこう。
沈黙の呼び声
良心はただひたすら沈黙というかたちで語る。
408頁
良心の呼び声は沈黙している。非常に難解である。良心は何かを語りかけるのであるが、そこに言葉はいらない。というのも「厳密には何も伝えてない」(408頁)からである。良心は、何かこれをした方がいいとか、アレをした方がいいとか、そういった道徳的メッセージのように捉えてはいけない。それはいわゆる通俗的理解というのものである。この発想自体を訝しる人もいるだろうか、「不安」の分析と見方は同じである。要するに世界の様々な事柄について「不安」と同じく「良心」も伝えているわけではないということだ。良心が無言のうちに伝えていることがあるとすれば、それは現存在自身についてだけなのである。
良心と負い目
良心の「声」は何かしら「負い目」について語っているというのは、良心に関する経験や解釈がこぞって指摘するところである。
417頁
良心が沈黙のうちで現存在自身に呼びかけてくることはよく分かった。しかし現存在の何を呼びかけてくるのか。つまり現存在自身の何を伝えてくるのか。それは現存在自身が「負い目ある存在」であることである。
良心の呵責や負い目という言葉が日本語にもあるように、良心と負い目は結びつきやすい。そして一般的には負い目とは誰か他人に対して、例えばミスなどをして借りがある場合に、負い目があると使用する。しかし、それもいわゆる通俗的な理解である。ここでは存在論的に負い目を考えなければならない。そう考えたら、他人など入り込む余地がないことが分かるだろう。存在論的な負い目は他人とか法律とかには直接関わらない。むしろ負い目は基礎として、逆に存在論的な負い目があるからこそ、他者に対する負い目は法律上の判断も成立する。
さて、それでは負い目とは何なのか。ハイデガーはこれまた斬新にも、ある負い目の特徴を抽出する。
「負い目が在る」ということの形式的な実存論的理念とは、ひとつの「ある」がひとつの「ない(Nichit)」によって規定されていることの根拠、つまりひとつの「無力(Nichitigkeit)」の根拠であるとして規定することにしよう。
423頁(訳を一部変更した)
そして、
この「ない」が、被投性の実存論的な意味を構成する契機である。
425頁
負い目の特徴は、まずそこに「ない」という性格が含まれていることである。Nichit というのは英語の not であり、それを名詞化したのが Nichitigkeit、すなわち「無力」である。普通は「つまらない」とか「無効」を意味するが、『存在と時間』ではそれに「自分自身ではどうにもならない」というようなニュアンスも含まれる場合が多い。高田訳では「抜かり」と訳されているが、これだと本当はできたのにへましてできなかった(抜かった!)というニュアンスも含まれるのではないかと思い、どうにもならなさを前面に押し出して今回は「無力」にした。他にもさまざまな翻訳が試みられているので、知りたい方は「『存在と時間」とその邦訳ーーマルティン・ハイデガー」の「概念」の項目を見てほしい。
そして「ない」つまり「無力」であるとはどういうことで、何が無力なのか。それは次の引用に含まれている被投性(Geworfenheit)という性質が鍵を握っている。被投性は werfen という「投げる」という意味の動詞の過去分詞を名詞化したものだ。だから訳が「被投=投げられる」となっているのである(被疑者とか被害者の用例と同じ意味である)。投げられているのは自分自身でいつも今いる自分として投げ入れられているということをハイデガーは言いたい。説明も難しいので『存在と時間』翻訳者の高田珠樹の説明を載せておく。
自分が在るということが、自分の能動的な選択や発意によるものではなく、気がつけば既成事実的にここにいたという事態を指す。
『存在と時間』694頁(用語・訳語解説)
無力と被投性が結びつくのは、この「気がつけば既成事実的にここにいた」という事実どうにもならなくゆるぎないものだからだ。いつも、自分の存在を確認したときには既に自分はその前に存在していたことになる。私は自由に自分の人生選ぶことはできないし、この今いる私を引き受けて生きなければならない。このどうにもならなさが被投性であり、その実存論的なあり方が無力なのだ。また被投性の反対概念の投射=投げいれること(Enfwurf)は原理的に「被投的な投射」だと言われる。
ここまでで、良心とは呼び声であり、その呼び声は負い目を呼び覚まし、負い目を分析したところ、その根本的な特徴は「無力」であり、それは被投性の無力であることが明らかとなった。さて良心論の最後まであと一歩だ。良心とは本来性の証だと言った。つまりそれは本来性へとつながるレールである。しかしまだ本来性へと至るには不十分である。レールを眺めていても本来性までたどり着くことはできない。眺めるのではなく、列車に飛び乗らなければならないのである。
良心から選択へーー良心と果断さ
この呼び声を理解するというのは選択することである。良心を選択するのではない。良心そのものを選択することはできない。選択されるのは良心を持つこと、言い換えれば自分にとって最も固有なかたちで負い目を在ることに向かって自由に開け放たれていることである。呼びかけを理解するとは、良心を持ちたいと念じる(Gewissen-haben-wollen)ということを意味する。
430頁。
今列車が目の前に止まっている。しかしそれに飛び乗るのは不安だ。そのときは選択しなければならない。そしてその選択とは呼び声に耳を傾けて理解することであり、それが良心を持ちたいと念じることなのだ。この言葉の原語である Gewissen-haben-wollen であるが、Gewissn が「良心」haben = have が「持つ」wollen = will 「・・・しようと思う」という意味だ。それを繋げただけだが、念じるといっても念仏みたいなのを唱えるということではない。それよりも「持ちたい」という方向性が大事で、それで世界の方ではなく自分自身に向き合う可能性が生じてくる。またこの選択=良心を持ちたいと念じるも通俗的に理解してはいけない。例えばこの選択は「りんごを買いたい」ということでスーパーでりんごを購入、というような行為全般と関係がない。逆に根源的に良心を持つという選択ができるからこそ、行為としての選択も可能なのである。
さて、ここまでで証としての良心が到達した地点は「良心を持ちたいと念じる」であった。そしてこの「良心を持ちたいと念じる」というのは呼び声を理解することであり、これは実は「理解」という現存在の開示性の一つを構成するものであるとのことである。開示性というのは存在や世界といったものを示しているということだ。理解はその一つであり、またこの呼び声の理解は負い目を在ることの被投的な投射と言い換えられる。そして、開示性には他に「情態性」と「語り」があり、良心の呼び声に対応する「情態性」は「不安」、「語り」は「沈黙」と語られる。
呼び声の理解=負い目への投射、呼び声の情態性=不安、呼び声の語り=沈黙、と三つの契機が取り出された。ここでは「情態性」については説明しない。というのも良心にとって重要なのは、三つの契機をまとめた先に登場する概念だからだ。
沈黙したまま不安と向かいあう覚悟をもって自分に最も固有なかたちで負い目を在ることへ自らを投射すること、それが現存在自身の中で本人の良心をその証とする本来的な開示性であった。この格別な開示性を私たちは果断さ(Entschlossenheit)と呼ぶことにする。
443頁
果断さは entschließenという動詞の過去分詞の名詞化であり、通常は「決断する」「決意する」という意味をとる。だから果断さを「決意性」と訳してる訳書もある。この言葉は Entdecktheit や Erschlossenheit と同じくギリシア語で真理性を意味するアレーテイアの訳語なのだが、やはりここでは通常の意味では「決断」を意味することが重要だと思う。良心の話をしてきたのだが、倫理の究極である果断さ=決断が根本的な開示性として登場するのである。
先の比喩で説明すれば、これは列車に飛び乗ったということである。あとは本来性に至るだけである。かといってこれは比喩なので、果断さによって意志によって「・・・を決断したんだ!」などと通俗的に考えてはいけない。決断という0コンマ1秒かかるかのような何らかの行為をしているわけではない。実際は何もしてないのだ。何かをしたのではなくて、この果断さがあらゆる決断の場面や行為の基礎となるのである。これは何度もいうが、存在論的基礎を分析する存在論なのである。現存在自身の実存を見つめ直すことにより、決断という通俗的な現象が、存在論的には果断さであることを発見したのである。
まとめ
ハイデガーの論述は一個一個ピースをはめていくようなパズルのようなものである。良心論も良心の呼び声という現象から出発して、現存在の気遣い(誰)、沈黙(どのような)、負い目(何を)、良心を持ちたいと念じる(理解)、果断さ(まとめ)と様々な現象を取り出してきた。良心はもともと通俗的には道徳や倫理にかかわるものなので、この良心論でも倫理や道徳に関わる概念が頻出する。人間の実存的なあり方の倫理的側面から様々な現象を引っ張ってきて存在論的に規定し直す。そして、良心の呼び声を聞くところから決断まで(聞く→引き受ける→理解する→決断する)、パズルのピースを埋めるように巡って、良心が証である読者に示したわけである。
アリストテレス解釈と良心ーー『存在と時間』以前(超上級編)
「良心」は実は「知」と非常に近しい言葉である。ドイツ語で良心は Gewissen と書くが、ギリシア語のσυνείδησις、ラテン語の conscientia のドイツ語訳である。ラテン語の方を見てもらうと分かるが、言葉の組み合わせとしては con=共に+scientia=知識、なので原義は「共に知ること」となる。フランス語や英語も同じであり、大抵1.知識、という意味と、2.良心、という意味がある。ドイツ語の場合、Gewissen に知識という意味はないが、wissen が「知る」という意味なので、形としては原型の意味合いを留めている。しかしなぜ知識と良心が同じ一つの言葉で言い表されるのだろうか。
ギリシア語の辞典を見てみると、良心という意味の説明のところでは「良い行いと悪い行いに関する知識」と説明されている。つまり、共に知るというのが、単純に皆が知っているという意味で使われた場合、「知識」という意味になり、道徳的価値を知っているという意味で使われた場合は「良心」という意味合いを帯びるということだろう。西洋の伝統では、道徳的な価値判断とは知識なのである。
Gewissenに「知識」というような意味は失われているが、哲学では「共に知る」という原義に結びつけて考えた思想家が多い。良心論ではヘーゲルも有名だが、彼がその代表格で『精神現象学』でその論を展開している。
ハイデガーもその一人だ。細川の発見であるが、ハイデガーは『ソピステス』(ハイデガー全集19巻)で、「フロネーシス φρόνησις(実践知)を良心として解釈している」(『ハイデガー哲学の射程』177頁)。フロネーシスは一般に知慮とか思慮とか訳される言葉であり、ソピア(学知)と対比させて、細川は実践知とここで呼んでいる。少なくとも、ハイデガーによれば、フロネーシスは知の系統に属するものなのである。
『存在と時間』以前にハイデガーは詳細なアリストテレス研究をしていたことで知られているが、ハイデガーの良心論はそのアリストテレス研究の成果である。ハイデガーがどのようにして良心概念を獲得していったのかは、彼のアリストテレス研究(とりわけ全集第19巻)を見てみると良いかもしれない。だたし、この全集第19巻、よく他の哲学者から引用されたりするのに、翻訳がまだ出ていない。
ハイデガー良心論の発展的読解(思想家編)
ハイデガーの良心論は他の哲学者があまり解釈したりとりあげたりしない箇所だが、フランスの哲学者アンリ・マルディネは良心の呼び声をハイデガーが語った共存在(Mit-sein)に陥らない他者の存在と結びつける。良心の呼び声は、そういった他者への呼びかけととるのである。
逆に共存在に陥るような状況は、主体がまったく予想を超えた他者の到来を受け入れない状況なので妄想的な相貌を持つ。実際、マルディネはハイデガーの現存在分析を読み替えながら、統合失調症などの精神病理的な事例を分析している。つまり、「現存在と現象学的人間学」で示したように、現存在分析を狂気の分析と考えることも可能なのである。ハイデガーは存在論的分析を施したが、人間(あるいは実存)は存在論的ではない。
実際問題として、沈黙の呼び声に意味を見出し、そこから果断さまで到達するのはかなりの狂気である。無言は無言であり、沈黙が何も語らないのならば、そこから聞くべきことは何もない。つまり負い目や果断さなどを自ら引き受けようとするのは妄想を信じるようなものである。
そういう意味でも、つまり反存在論的に読み替えることができるという意味でも、ハイデガーの良心論は意義深いものである。
>>本記事はこちらで紹介されています:哲学の最重要概念を一挙紹介!
関連項目
・手許存在
・実存主義
・他者(レヴィナス)
・ニヒリズム
・ルサンチマン
・自由(メルロ=ポンティ)
参考(引用)文献
マルティン・ハイデガー『存在と時間』高田珠樹訳、作品社、2013年。
細川亮一『ハイデガー哲学の射程』創文社、2000年。
>>哲学の入門書の紹介はこちら:哲学初心者向けの人気おすすめ著作を紹介!
>>本格的な人向け哲学書の紹介はこちら:本格的な人向けおすすめ哲学書を紹介!