現存在とは何か-ハイデガー『存在と時間』|意味をわかりやすく徹底解説

現存在とは何か-ハイデガー『存在と時間』|意味をわかりやすく徹底解説

現存在とは

 現存在〔Dasein〕とは、『存在と時間』で分析の主題となる「現というあり方を持った存在」のことである。そして『存在と時間』において、この「現存在」は人間のことであるとされ、この現存在分析を通じて、存在の意味である「時間性」というものが明らかにされていく。

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著作から:研究1『存在と時間』第二節と第四節(中級編)

 マルティン・ハイデガーは『存在と時間』第二節で現存在を定義している。なんと述べているのだろうか。

存在を問う問いを改めて提起し、しかも完全に見通しがつくようにその問いを立てることが必要である。そうだとしたら、この問いを練り上げるのに求められるのは、これまで論じてきたことからすると、存在の見方や意味を理解し概念的に把握する仕方を明らかにすること、範例となる存在するものを正しく選べるように準備し、この存在するものに接近する正しい方法を練り上げることである。

SZ. 7.

 実はこのちょっとまえに「存在とは存在するものの存在」(SZ. 6.)だということが語られている。そんなわけで、存在を問うまえにその存在を有している存在者を選ばなければならない。というわけで「範例となる存在するもの」が必要になる。存在するものならなんでも良いというわけではない。それで

注視する、理解し概念的に把握する、選ぶ、接近する、これらは問う働きを構成する振る舞いであり、それ自体ある特定の存在者の、つまり我々のような一人一人問いかける者である存在するもの存在様態である。そうであるならば、存在の問いを練り上げることは、ひとつの存在するものーー問いかける者ーーを、それのあり方から見通しをつけることに他ならない。この問いを問うことは、ひとつの存在するものそれ自体の存在様態として、本質的にそこで問われているもの、つまりそのあり方によって規定されている。われわれがそのつどそうであるこの存在するもの、とりわけ問うというあり方を可能性として持っている存在するものを、われわれは現存在という用語で捉えたいと思う。

SZ. 7.

 注視するとか理解するとかの働きは最終的に「問う」という振る舞いに集約される。「問う」からこそ「存在の問い」も可能になるわけで、それゆえ、「問う」という振る舞いをする存在するものを特権的な存在者として、つまり範例として取り出すことが必要である。というわけで、範例は「問う」というあり方を可能性として持っている存在者となるが、それこそが現存在だというのである。問いを立てるのは一般に人間だけだとされており、この存在するものをハイデガーは「われわれ」であると言っている。ということは現存在は人間のことなのだろうか。

 第四節を見てみると最初にこんなことを言っている。

学問は人間の営みということで、この存在するもの(人間)のありようを宿している。この存在者をわれわれは現存在という用語で捉えたいと思う。

SZ. 11.

 なぜが二度目の定義づけであるが、ここでは明確に現存在を人間だと言っている。簡単にまとめると、現存在とは人間のことだと考えても間違いないということだろう。

著作から:研究2 現存在と開示性(中級編)

 しかし、それならばなぜ「現存在=Dasein」という言葉を使用したのか。そもそもこの言葉は人間を表すものでは決してない。「もともと「そこにある」くらいを意味する da sein という副詞を伴った動詞の不定形が一語の名詞とされたもの」(『存在と時間』709頁)である。また Dasein には「普通に人生や生活、日々の暮らし向きといった意味合いが」(同書、同頁)ある。例えば、ワイマール憲法で生存権を規定した有名な文言「人間たるに値する生活」という文言があるが、このドイツ語は〈ein menschenwürdiges Dasein〉である。ということは、Daseinも人間に適用したのにはそれなりの理由があるということになる。

 いくつか理由が考えられる。まず「存在 Sein」の強調だ。これからやるのは存在論だから、その問いかける存在者にも存在という言葉があった方が都合が良いということだろう。それに付随して Da という言葉の選定がある。Dasein はその sein の意味を強くとれば、Da という Sein、つまり「現」という「存在」という意味になる。実際ハイデガーは Da-sein「現−存在」と書いたりしている。さらに、もっと噛み砕いていうと、これは「現という在り方・あり様」という風にも理解することができる。また現存在は人間という存在者でもあるのだから、つまり現存在という言葉で意味しているのは「現という在り方・在りようをしている存在者」 ということにもなる。それでは「現」とは何か、ということになるだろう。これもいくつかあるだろうが、ここでは一つ、その開示性という性格について探求してみることにしたい。

『存在と時間』第二八節

世界内存在によって本質的に構成されている存在するものは、それ自身各々の「現」である。なじみ深い言葉の意味合いからすると、「現」は「ここ」とか「あそこ」を示唆している。「ここにいる私」の「ここ」は常に手許の「あそこ」から、その「あそこ」へ遠ざけつつその方向に向かいながら配慮するという在り方という意味で理解されている。そのようにして、現存在に対してその「場所」を規定する現存在の実存論的な空間性はそれ自身世界内存在に基づいている。「あそこ」とは世界内的に出会うものの特性である。

SZ. 132.

 とりあえず世界内存在=現存在だということにしておこう。そうすると最初の文章は、「現存在は現という存在である」と言っているだけである。どういうことだろうか。徐々に明らかになってくるのは、空間規定に関していうと、「現」が「ここ」とか「あそこ」といった場所規定の基礎(条件)となっているということである。つまり世界内存在としての現存在がどこか=現にあることによって、あそことかこことかいう場所が規定されていくということである。こことあそこは相対的だ。あそこが特定されてここも特定されるし、逆もまた然りである。しかし何がそうしているのだろうか。つまり、誰がそのような規定を可能にしているのだろうか。それはまさに現存在が存在しているからということになるだろう。それゆえ

「ここ」とか「あそこ」はただなんらかの「現」においてのみ可能である。つまり、「現」の存在として空間性を開示している存在者がいる場合にのみ可能である。この存在者はその最も固有な意味で閉ざされていないという性格を備えている。「現」という表現はこの本質的な開示されてあること=開示性〔Erschlossenheit〕を示している。

ibid. (強調筆者)

ハイデガーはここで「現」が空間性(ここ、あそこ)を可能していることを、現というものの開示された在り方として規定している。「現」とは開示性(=開かれていること、閉じていないこと)なのである。

 ここまでみてみると、人間を現存在と言い直した二つ目の意義も見出される。つまり、この現という性質を存在論的に使用して新たな意味合い(例えば開示性)を含ませたかったということだ。現存在の現とはさまざまな性質を含ませた「現」なのだ。


参考文献

Martin Heidegger, Sein und Zeit[SZ], Max Niemeyer Verlag, Tübingen, 2006.

マルティン・ハイデガー『存在と時間』高田珠樹訳、作品社、2013年。

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