意味
世界=内=存在〔In-der-Welt-sein〕とは、ハイデガーが提唱した現存在の根本様態の在り方の一つ。要するに、現存在が世界の外に位置するのではなく、常に世界の中で世界に住まう形で存在しているということ。「内」ということで、上空飛行的な在り方を否定している。フッサールの「生活世界」やユクスキュルの「環境世界」概念から影響を受けたと言われている。
後にサルトルやメルロ=ポンティなどの思想に大きな影響を与えた。
著作読解
『存在と時間』における世界=内=存在
ハイデガーは世界内存在の諸契機を分解できないとはしながらも、三つの観点から考察できるとしている。
まずは「世界内」である。私たちはいつも世界の内に放り込まれているので(被投性といったりする)世界と常に関わっている。ということは「世界」の分析が必要となる。この世界の分析が『存在と時間』第3章で行われる。
次に「世界=内=存在として存在するもの」である。これは日常的に世界と関わっている存在のことであり、いわゆるダスマン(世人、ひと)のことである。この在り方が第4章で分析される。
最後に「内=存在そのもの」である。つまり「内」の分析であり、これは「のもとに住む」や「となじみである」という状態に結びつけられ、その根本様態である情態性(被投性)と理解(投射)が第5章で分析される。
それではそれぞれ内容を詳しく見てみよう。
世界=内とはどういうことか
「世界=内」ということで主題されるのは、現存在に対する世界の在り方のことである。世界は一体どうなっているのか。素朴に考えると目の前にあるものはそれ自体存在するもので、いわゆる客観的な事物として存在している。しかしモノのあり方とは根源的にはそうではない。モノは根源的な現存在に対して道具的なあり方として存在しているのだ。このことに関しては、モノに関する記事をすでに書いているのでそれを参考にしてほしい。
さて、ハイデガーはモノの手許存在的な在り方、つまり道具的なあり方を根源的なモノのあり方として重要視するのだが、モノはそのあり方を保つことで別のモノと連関する。それを目的連関と呼んだりする。
厳密に言うなら、たったひとつの道具というのはけっして在りはしない。道具は、ひとつの道具立て全体の中で初めてそれが今あるところのこの道具なのであり、道具の存在にはもともとすでにこの道具立て全体が不可分なものとして属している。道具とは、本質的に「何々するための」何かである。
『存在と時間』98頁。
例えば「金槌」「かんな」「釘」は家を建てる「ために」存在するかもしれないが、その「家」は雨風を防ぐ「ために」存在している。この目的連関の中では別のモノを指示して、一つのモノが独立して存在しているわけではない。
またその中心には、現存在がいる。というのも雨風を防ぐためなのは現存在だからである。道具というあり方を存在させているのは現存在なのだから、道具をそこに納めさせているのは現存在なのである。
この現存在を起点として発生するモノの連なりの全体として存在するのが根源的な世界という現象である。
自分に指し示しながら理解するところにして、納まるべき帰趨に納まっているという在り方で存在するものがそちらのほうへ立ち現れさせられているところ、それが世界という現象である。
同書、125頁。
この引用中の「自分」とは現存在ことで、「治るべき帰趨に収まっているという在り方で存在するもの」とは道具のことである。そしてそのような形で「そちら」で立ち現れている現象が世界なのだ。
世界=内=存在として存在するものとはどういうことか
「世界=内=存在として存在するもの」ということで主題とされるのは、現存在の日常的なあり方である。先ほども述べたように、ここではダス・マン(世人・ひと)の分析がなされるが、これに関しては記事があるのでそちらを参照してほしい。
内=存在そのものとはどういうことか
「内=存在」ということで主題とされるのは、世界に対する現存在の在り方のことである。世界に対して現存在はどのように存在しているのか。その根本的な在り方が「気遣い(ゾルゲ)」と呼ばれるものである。
気遣いと日本語でいうと、人間同士の間で成り立つ心の作用に感じられるが、ハイデガーの「気遣い」はもっと広義の意味で使われている。「気遣い」とは「気にかかる」「気になる」というような意味に近く、モノや事象にも関係する。例えば、本が気になるとか、天気が気になる、過去のトラウマが気になるとか。つまり現存在とは常に何かが気になりまくっている存在であり、それが途切れることは決してない(寝てる時でさえ!)。
気遣い自体は第6章で分析される。第5章では「気遣い」を構成する現存在の特徴的な在り方を取り上げている。この在り方が現存在を世界に住まうものとして定着させているのである。
一つ目が「情態性」である。色々な訳し方があるがこの訳し方が最も多い。原語は Befindlichkeit で、「ある」という意味に近いのだが、この情態性の実存的な在り方としてハイデガーは恐怖や不安、気分を取り上げるのだ。つまり、情動や感情、哲学的な区分で言えば感性に非常に近い語句でもあるので、情態性の「情」が情動の情になっている。
気分や不安が開示しているのはなんだろうか。それは存在論的にいえば「被投性(Geworfenheit)」ということになる。「被」というのは「被る」ということで「被疑者」とか「被告」という使い方と同じ意味である。つまり被投性とは投げ入れられているということ。では、どこに投げ入れられているかというと、それが世界である。世界に投げ入れられているといっても誰かがどこかのタイミングでその都度投げてくれたりするわけではない。現存在は常にすでに投げ入れられている。何かを感じたり、見たり聞いたりしうるということは、それはその前にすでに投げ入れられていたからである。つまり情態性というのは、現存在が根源的に常にすでに世界のうちにいるということの表現に他ならない。
二つ目が「理解」である。これは存在論的にいうと「投射(Entwurf)」という働きになる。投射は「企投性」と訳される場合もある。これは「被投性」を意識した訳し方で、被投性の反対概念ですよということを強調している。投射は投げ入れられているのではなく、投げることであり、それでは何を投げているのかと言えば現存在自身をということになる。
理解というのは、文章の意味を理解するとかそういうことではない。ハイデガーの用語では、これは存在するものと関わるのにその可能性に基づいて関わるその在り方のことを指す。例えば目の前にコップが置いてあった時、それをそのまま放置しておくこともできれば、どっかに持っていくこともできる。これが可能性に基づいて関わるということである。現存在はこのように、頭で明瞭に意識することなく、受動的にいつも可能性を考えている。これが自分を前へ投げ入れることと重ねあわされ、投射と呼ばれているのだ。
この二つを合わせると「被投的な投射」というあり方を現存在は常にしていることになる。被投的というのは常にすでに気付かぬままに投げ入れられているということで時間的には過去に関わる。投射は可能性に投げ入れるということで時間的には未来に関わる。ここを土台として現存在の時間論も展開されることになる。
影響史・展開
この世界内存在という概念は次の世代の現象学者に大きな影響を与えた。というのも実存という問題系にピッタリと当てはまったからである。とりわけサルトルとメルロ=ポンティが発展的に使用したのが有名である。
サルトルの「世界内存在」
サルトルは世界=内=存在を être-dans-le-monde と訳し、『存在と無』などでその概念を使用した。dans は in に近い意味なので、普通に世界=内=存在を訳したらこうなるかと思われる。
メルロ=ポンティの「世界内存在」
メルロ=ポンティは「世界内存在」を être-au-monde と訳した。au というのは原型が à で英語だと at に近い。つまり世界への帰属に重きを置いている訳し方で、場合よっては世界内属存在と訳されることもある。
『知覚の現象学』などでその概念を見ることができる。
参考文献
マルティン・ハイデガー『存在と時間』高田珠樹訳、作品社、2013年。