概要
生活世界〔Lebenswelt〕はフッサールの後期哲学の概念であり、フッサールの有名な著作では『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(以下『危機書』)や『経験と判断』の中で詳しく言及される概念である。
意味
『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の訳者解説では次のように説明されている。
生活世界とは、いっさいの学に先だっていつもすでにわれわれの直接の経験によって与えられている世界であり、したがって学そのものもこの生活世界から出発してはじめて、その真の意味を明らかにされうるのである。
『危機書』546頁
これが極々一般的な考え方である。簡単に言ってしまえば、生活世界とは「私たちが普通に暮らしているこの世界のこと」だといえる。例えば目の前に木があったとしよう。その時科学的態度で接すれば、高さが何センチメートルだとか、化学成分が何々だとかという話になってくるが、普通そのようには考えない。目の前の木は、なんとなく大きかったり小さかったりする木である。これが学に先立って直接経験されるものなのである。したがって、生活世界をそこまで難しく考える必要はない。通俗的には、普通に暮らしていて日常的に出会っている世界だと考えておけばとりあえずはよい。
ただし、より深い意味(狭義の意味)も読み取れることは押さえておいた方が良い。私たちが暮らしの中には物理科学的世界観はすでに浸透してしまっている。その意味で言うなら、普通に暮らしている日常的な世界も生活世界ではない。生活世界はもっと根源的で古代的な世界である。比喩でいうなら、幼児の世界だ。日常的な世界はフッサールの用語で言うと自然主義的態度の世界ということになる。ということは、生活世界とはそこに現象学的還元を施した世界ということになろう。つまり、この意味で生活世界とは現象学的還元を施された世界のことである。前者(日常的な世界)は現象学的還元を施される前の世界である。生活世界は、文脈次第でこの二つの全く相反する意味を読み取ることができるような概念である。とりわけ哲学的な文脈で使われる時は後者の意味合いが強くなる。
思想解説
生活世界とは何か:『危機書』から読み解く生活世界
もう少し厳密に、フッサールが生活世界について何と言っているか見てみることにしよう。今回は主著でもある『危機書』から読み解いてみることにする。
さきほどざっくりした生活世界の意味を見てきたが、『危機書』でもさっき説明したのと同じようなことが述べられている箇所がある。
学は人間の精神の作業であって、その作業は歴史的にみても、また一人一人の学ぶ者にとっても、存在するものとしてあらかじめ共通に与えられている直観的な生活環境から出発することを前提としているし、またその作業はさらに引きつづいてそれを遂行し継続するにあたっても、学者にとってそのつど与えられているがままのこの環境たえず前提としている、という事実である。その環境とは、たとえば物理学者にとっては、彼がそのなかで自分の計測機を見たり、拍節器の音を聞いたり、量を見ながら測定したりなどしている環境であり、しかもそのなかで彼自身もさまざまに行動したり、理論的な思考をしたりしながら、そこに含まれていることを意識しているような環境である。
218頁
こちらはより具体的な例が載せられている。物理学者がなにがしかを計測するためには、そもそもそれを見たり聞いたりする経験が必要なのであって、素朴といっていいような経験を基礎として計測により正確な値を導き出すことが可能となる。それゆえ、あらゆる学問以前に与えられている日常の世界というものがあることになり、それが生活世界だということである。
さて、もうすこし詳しく理解しようとすると、疑問が残るかもしれない。まず生活世界についてであるが、この引用では生活世界という言葉を使っておらず、「環境」という言葉を使用している。『危機書』を見てみると、他にも世界生活のような言葉も登場する。これらは厳密に区別がなされていたりするのだろうか。また学的態度との関係で生活世界が語られているが、なぜそのように生活世界は学的態度との関係の中で語られるのだろうか。そもそも『危機書』はなぜ生活世界について語っているのだろうか。というわけで、もう少し詳しく『危機書』を巡ってみることにしよう。
生活世界、環境、世界生活等々
まず訳語の問題を触れておこう。生活世界はドイツ語で Lebenswelt(レーベンスヴェルト)であり、生活世界だけでなく、「生世界」「生の世界」など様々な訳語が当てられている。また環境の原語は Umwelt である(だから「生活環境」は Lebensumwelt である)。Leben は「生」「生命」という意味であり、Weltというのは「世界」という意味である。そこからわかるように、Lebenswelt と Umwelt はドイツ語だとかなり近しい言葉だということがわかるだろう。Umwelt はその welt の意味合いを残して、「環境世界」とか「身の回りの世界」とか訳されたりもする。
他にも同じような意味で「世界生活」なる言葉がある。これは Weltleben 言葉としてはwelt と leben を逆にしただけなのだが、意味の違いはあまりない。あってもかなり繊細な違いだと思われる。
『危機書』における生活世界の意義
生活世界は『危機書』でどのように扱われているのか。そもそも『危機書』がどのような著作なのかを知っておいた方が良いだろう。
まず何が「危機」なのか。それは題名にあるように、学問の危機であり、学問が生に対する意義を喪失してしまったフッサールの時代の状況が危機なのである。では、なぜ喪失したのか。そこには学問の歴史が関わり、フッサールによれば、ガリレオに始まる物理客観主義の台頭とそれに伴う「生活世界」の隠蔽が原因とされる。つまり『危機書』は歴史哲学的な著作であり、この著作の目的はそのような危機の克服にあり、その克服された学問が超越論的現象学だという算段になっている。
生活世界論はこの書物の第三部の前半に登場する。第一部で、同時代の学問が実証主義を信奉することにより危機に陥っており、普遍的哲学の理想の復権は歴史の目的論的運動のうちに見出されることが明らかとされる。第二部で、その目的論的運動の中で、ガリレオを典型とする物理学的客観主義が超越論的現象学のうちで乗り越えられることが明らかとされる。第三部で、超越論的現象学の根本問題が検討され、前半部では(生活)世界の問題が、後半部では心理学(主観)の問題がそれぞれ超越論的現象学との関係の中で取り上げられる。
生活世界は、我々が生き、現実に経験されるこの世界のことであるが、時代時代の理念化によって隠蔽・忘却されてきた。精密科学による自然の測定可能性、さらにはその可能性を自然の全てに拡張した自然の数学化が行われ、歴史の流れの中で、その数学化された世界が客観的で現実に真なる世界とみなされるようになったのである。
というわけで、生活世界を学問の中に取り戻すこと(第一の還元)が『危機書』での第一のプログラムとなる。しかしながら、生活世界が科学的な知識の地盤だとしても、それだけではフッサールの成し遂げたかった学問の究極的基礎づけというプログラムが破綻することになる。というのも、基礎はやはり超越論的主観性の側にあるはずであり、そこからしか究極的な基礎づけは遂行できないからである。そういうわけで、生活世界から超越論的主観性への第二の還元が要求される。科学的世界から生活世界へ、さらに生活世界から超越論的主観性へと還元を進めることで「生活世界」の具体的内容を露わにしようというわけである。第二の還元によって見えてくる世界は、基礎づける生活世界も引っくるめて還元されているわけだから、先ほどの科学的世界も包括した文化歴史的世界となる。つまり生活世界論の意義は
1.物理科学的な客観世界の基礎づけ
2.我々が生きている物理科学的世界や文化的世界など全てを包括した生活世界の解明
ということになる。
補足:フッサリアーナ39巻『生活世界』
おそらくフッサールの生活世界論を研究したい人はこれを読むしかない。『フッサリアーナ39巻「生活世界」』である。ここには1916年から1937年までの生活世界論に関する遺稿が収められている。日本語翻訳はなく、ドイツ語で買うしかない。また生活世界に関する研究でいうと、U. クレスゲスの「フッサールの〈生活世界〉概念に含まれる二義性」という著作が有名である。こちらは『現象学の根本問題』(新田義弘/小川侃編晃洋書房、1978年)に収められている。
発展史
フッサール生活世界論の生成
生活世界が詳しく語られるのはフッサールの後期哲学となってからであるが、生活世界に関する思想は初期の頃からあった。とりわけ生活世界という概念に決定的な影響を与えたのは、アヴェナリウスの「自然的世界概念」であると言われている(木田元『哲学と反哲学』岩波書店、1991年、115頁参照)。フッサールはアヴェナリウスの著作を1899年に最初に読んでおり、アヴェナリウスの著作『人間的世界概念』は1902年2月7、8日に読んだと記録されている。そして、1910/11年の『現象学の根本問題』と題された講義ではアヴェナリウスの「自然的世界概念」を取り上げ検討し直している(1915年にもアヴェナリウスを講義で取り上げている)。
その自然的世界概念に関する考察が結実したのが『イデーンII』(成立は1913−1917年の間)である。『イデーンII』では 「自然主義的態度」と「自然的態度」を明確に区別し、前者を人為的な物理学的自然を構成する態度とし、後者の根元的な日常世界の優位性を強調した。
しかし自然主義的に考察されるこの世界はやはり世界そのものではない。むしろあらかじめ与えられているのは日常世界としての世界であり、・・・
『イデーンII-II』立松/榊原訳、みすず書房、2009年、42頁
ここでいわれる日常世界は意味としてはほとんど生活世界である。生活世界という用語はここでは登場していないが、1917年の草稿にはすでにひっそりと「生活世界」の語が登場している(Hua IV S. 374f.)。
1920年代になると、明確に現象学の主題として生活世界が語られるようになる。そして、1924年5月1日に行われたカント記念講演や1925年の草稿「実証科学の批判を通じて超越論的哲学へ至る道、『イデーン』のデカルト的な道と先所与的な生活世界」(Hua VIII. 259)で主題的に論じられたことから、1925年前後に生活世界に関する問題系が確立したとみられている。
また谷の研究によれば、生活世界概念の萌芽は、実はアヴェナリウスの読書体験よりも古く、1880年代に見出されるという。『フッサリアーナ21巻』の1892年以後の論考を見てみると、幾何学的・物理学的な空間や時間をエポケーして直観的・生活世界的な空間や時間を取り出すという発想が論じられている。そしてその発想自体は、どうやらシュトンプやブレンターノのもとでの研究に影響を受けている。というわけでその発想は、ブレンターの門下のウィーンの知的雰囲気の中で自然と醸成されていった、と谷は論じている(『意識の自然』60-71頁)。
フッサール以後の生活世界論
生活世界の応用としては、メルロ=ポンティやフッサールの弟子である社会学者のアルフレッド・シュッツが有名だ。メルロ=ポンティの哲学はそのまま生活世界の中の現象学であるし、シュッツは社会を分析するにあたり、フッサールの生活世界論を応用し、生活世界の存在論を打ち立てた。主著に『社会的世界の意味構成』などがある。
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関連項目
参考文献
エトムント・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』中公文庫、1995年。
野家啓一/木田元/村田純一/鷲田清一編『現象学事典』弘文堂、1994年。
谷徹『意識の自然』勁草書房、1998年。
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