エポケーとは何か|意味をわかりやすく徹底解説

エポケーとは何か|意味をわかりやすく徹底解説

 エポケーについて昨今様々な記事が出まわっているが、そもそもフッサールはエポケーについて何と語っているのだろうか。そんなに厳密に定義づけしているのだろうか。今回はざっくりとしたエポケーの意味をおさえたあとに、フッサールの主著『イデーン I』からエポケーの意味を紐解いていきたい。

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概要:エポケーとは何か(初級編)

 もともとギリシャ語で ἐποχή と書く。ドイツ語だと Epoché である。一般的な意味は 「中止、中断(check, cessation )」(LSJ)となっているが、ギリシャ時代から哲学で「判断停止(suspense of judgement)」という意味で使用されていた。それをフッサールは現象学の方法論として応用したのである。また、その独自性を示すためにフッサールは現象学的エポケーと呼んだりする。

 分かりやすくいえば、エポケーとは「素朴のうちに信じている判断(信念)の一時停止」だ。例えば目の前にリンゴがあるときに何を信じているのだろうか。買い物の最中だったら赤いとか大きいとか小さいとか甘そうとか、また科学的な知識のある人だったら元素記号を思い浮かべたり、リンゴ農家の人だったら売れるリンゴとかダメなリンゴとか考えるだろう。あるいは時間とは何かと聞かれたら、あなたはパッと何を思い浮かべるだろうか。1、2、3、4秒と進んでいく1日24時間の時間を思い浮かべるのではないだろうか。私たちがそれを信じている時、信じているだけなのに、本当にリンゴは赤いとか大きいリンゴが実在していると考えたり、1日24時間の時計時間が実在していると考えてしまう。しかし待てよ、それは信じているだけなのだがら、いったんそれが信念ではないかのような判断はやめてみようと、一時停止してみようというのがエポケーだ。

 さらに用語として使った「素朴に」「判断」「一時停止」にどういう含意があるか読み取ることができれば文句なしに最強だ。それぞれ見ていこう。

一つ目が「素朴に」だ。私たちは知らず知らずのうちにここに物が存在するとか、あれが正しいとか、これ美しいとか判断している。それは計算したり一生懸命考え込んだからそう判断したわけではない。なんとなくそうだということを理解しているのである。そういった事象がエポケーではエポケーされる対象となる。

二つ目が「判断」だ。ここでは判断という語の意味を目一杯拡張してもらいたい。例えば、目の前に木がある、という知覚も判断のうちに数え入れてもらいたい。つまり見たり聞いたり何かを感じているのも、そこに感じられるものがあるという点で判断のうちに数え入れてもらいたいのである。対象があるというのが重要だ。何かが意識されたときにそこに意識されたものがあるならば、それは判断のうちに入る。フッサール現象学だとそれを信念と呼んだりする。

三つ目が「一時停止」である。なぜ重要かというと、現象学の場合消去されてしまうような判断は存在しないからだ。例えば、この素朴に信じている判断が間違っていたとしよう。デカルト的な誇張的懐疑の場合、間違ってるのだから真理に値しない、としてその判断を捨ててしまう。しかしエポケーは判断を捨てない。間違っている判断も正しい判断もその意味で同価値である。なぜなら、間違っている判断も正しい判断も同様に何かを意識しているからだ。この意識している様を探求したいがために、何も捨てないでおく。それが一時停止である。イメージとしては電気回路のスイッチを思い浮かべて欲しい。スイッチを切ったりつけたりしても、回路自体はなくなるわけではない。ゴミ箱に捨てるのではなく、スイッチであると考えておくと良いかもしれない。

 

エポケーとは何か:エポケーはかなり曖昧な概念(実は編)

 さて今度はより詳しく見ていきたい。先ほどはざっくりと意味が通じるように解説した。しかしながら、フッサール自身がそのように分かりやすく解説してくれたわけではない。エポケーは現象学にとって超重要概念であるにもかかわらず、実は、フッサールにとってエポケーという概念は明確に輪郭を描けなかった概念であり、なにかと記述も錯綜している。

 錯綜はすでに『イデーン I』に見られる。『イデーン I』の手沢本の欄外注に面白いことが書かれている。三一節に登場する「エポケー」という言葉に対して欄外注記として「むしろ信念抑止(Glaubenensthaltung)と言った方が良い」と書かれているのである(知りたい方は渡邊訳『イデーン I』みすず書房、278頁を参照して欲しい)。『イデーン I』では「判断中止」とか「遮断」とか「カッコ入れ」とか言われていた。こういった表現より、曰く「信念抑止」と言った方が良いというのである。それを書き入れたのは1929年だと推定されている。時が経ってエポケーという概念のイメージも少しずつ変化してきたのだろう。意味も年代によってちょっとずつ変わっていくのである。

 もう一つ問題なのは、同じような概念として「現象学的還元」という概念があるということである(【現象学的還元とは何かーーフッサール*なるほう堂】参照)。この二つの概念を確かに区別しているようにみえるが、フッサールがエポケーと還元の差異について明確に指摘した文言はおそらくない(著名な現象学者であるアレクサンデル・シュネルがそう言っていたと記憶している)。

 それにも関わらずエポケーと還元を明確に区別し、それによって「非主観的現象学」というものを打ち立てたフッサールの弟子がいた。ヤン・パトチカである。彼は『現象学とは何か』という論考で「エポケーと還元の区別」について詳細に語っている。なんにせよ、これらの概念は、フッサールの著作からは明確に定義づけることのできない非常にあいまいな概念なのだ。

フッサールが語ったエポケーの意味(中級編)

 エポケーとは何か。『イデーン I』ではエポケーの意味を表現するのに次のような表現が使われている。曰くエポケーするとは、あらゆる定立を「作用の外に置く」「遮断する」「カッコに入れる」「判断中止する」ことなのだということである。様々な表現が使用されているが(多分理解してくれないと思っていたからだろう)、大雑把にはこれで掴めるだろう。つまり定立という働きをストップすることだ。それでは定立とは何かということになるが、これもぼんやりした哲学的概念だ。とりあえずすごく簡単に、椅子を見ることで椅子を意識したり音楽を聴くことでその音楽を意識したりするこの意識の働きと考えて良いだろう。定立(Setzung)はドイツ語で「置く」という意味であり、椅子を意識(置く)したり、音楽を意識(置く)したりする作用のことをフッサールは定立作用と呼んでいる。

著作を紐解く:①定立の遮断とそれでも残るもの(『イデーン I』第三一節)

 『イデーン I』第三一節でエポケーについての記述が登場する。その章では、まず「自然的態度の徹底的変更」を試みなければならないという。そのために「普遍的な懐疑の試み」(デカルト)を持ち出してくるのだが、かといってデカルト的な懐疑を施そうというわけではない。曰く懐疑は「方法的な便法」として役に立つだけであり、フッサール自身は懐疑に含まれる「本質」的成分だけを取り出したいと言う。そこで取り出される懐疑の本質というのが「定立をある種の具合に停止するということ」であり、これこそが遂行してみたいことなのである。それゆえこの定立の停止は

むしろある全く固有なものである。遂行された定立をわれわれは放棄しないし、われわれは自らの確信に何ら変更を加えるものでもない。・・・しかしながらその定立は一つの変様をこうむるのであるーーその定立はそれがあるがままにあり続ける一方で、われわれはその定立をいわば「作用の外に」置き、「その定立を遮断し」、「その定立をカッコに入れる」。その定立は依然としてそこに存在しており、それはちょうどカッコに入れられたものがそれでもカッコの中に存在し、遮断されたものがそれでも回路の連関の外側で存在しているのと同じである。

Hua. III, 63.

 つまりエポケーにおける「作用の外に置く」とか「遮断する」とか「カッコに入れる」とかいうのは、これまで遂行されていた定立が消滅することではない。例えばの話、ある机の知覚について分析するとしよう。その場合は机は実在するものとして知覚されている。そのときこの状況を分析するためにエポケーを加えるからといって、その机が実在するという判断を消すことはできない、というようなことなのだ(机が本当は実在せず、全て今見ているものは夢であるというような判断に囚われる状況に陥ったら、それはある種の狂気である)。それゆえ、

われわれはただ「カッコ入れ」「遮断」という現象だけを取り出して捕まえる。・・・しかしいかなる定立に対しても全き自由をもって、この独特なエポケーを行うことができる。このエポケーは一種の判断中止であるが、この判断中止は、真理についての揺るぎない、場合によっては揺るぎえない確信とも調和するのである。というのもその確信は明証的だからである

Hua. III, 64.

 しかしエポケーの「独特さ」はそれだけではない。後半の部分が肝だ。曰く「真理ついての揺るぎない、場合によっては揺るぎえない確信とも調和する」。つまり、かりに判断停止するからと言って、すべての判断(の類)も遮断されるわけではない。この「確信」はエポケーしたあとでも残るのである。なぜならそれが「明証的だから」である。

 この「明証的」というものの含蓄は、だからこそ現象学は学問として成立するということだろう。「明証的な真理」が、エポケーを介してもある意味その外側で残り続けることによって、これから遂行される現象学的記述の正当性を現象学者は主張することができる。そしてそれらの正しい言明があるからこそ、現象学は真理の学問となるのである。

著作を紐解く:②一般定立をエポケーするとは?(『イデーン I』第三二節)

 節としてはこちらの方が重要だ。なぜかというとこの三十二節の題は「現象学的エポケー」だからである。エポケーについてさらなる規定がここで語られている。さてフッサールは何を語るのだろうか。

 最初にいきなりフッサールは「エポケーの全般性を制限する」という。デカルト的な「全般的懐疑」はしないと、ここでもデカルトとの差異を強調している。「全般性」とはありとあらゆるものに適用可能というようなことで、要するにフッサールはここでエポケーの範囲を絞りたいということを述べているのだ。というのもフッサールがやりたいのは、新たな学問分野(=現象学)を打ち立てることだからである。ではどこまでに制限するのか。

 一言で言うと、制限というのは次のことである。
 自然的態度の本質に属する一般定立を、われわれは作用の外に置くということである。つまり、存在的な観点から見てその一般定立に包括されるありとあらゆるものをカッコに入れるということである。それゆえこの全自然的世界をカッコに入れるのである。

 ・・・私は、時間空間的に現にあるものに関する判断を完全に排除することによって、「現象学的」エポケーを遂行するのである。

Hua. III, 65.

 答えは「自然的態度の本質に属する一般定立」である。では一般定立とは何かというと、それは「全自然的世界」である。全自然的世界といきなり言われても意味不明であるが、曰く「常に「われわれにとって現にそこに」「目の前に」存在しており、たとえ自由にそれがカッコに入れられるものだとしても、意識された「現実」として絶えずそこにあり続ける」ようなものが全自然的世界である。

 あまりに略しすぎかもしれないが、一言でいうと、実在物(性)一般をエポケーするということだ。椅子とか机とかその全体の世界とかが実在しているということをだ。実在物が存在すると仮定して行う学問が実在論だとしたら、要するに実在論のエポケーだ。実在論を肯定すると世界はまずもって実在することになり、その実在的世界を主体の外部に想定せざるをえない。するとそこから理論を組み立てることになるが、そういった態度自体を禁止するということが言いたいようだ。

 なんでこんなことを主張しているのかと言うと、これこそフッサール現象学の歩みそのものだからだ。こういった実在論的なものが混じっているというのが、当時の哲学とか師匠のブレンターノに対する批判でもあった。それゆえそれを乗り越えた先に、実在という外部を排して、全てを内部化するという方法を発見したことがフッサールのエポケーの核心だったはずである。

 しかし、実在性一般だけにエポケーを制限するということは何かが残るということである。例えば本質直観によって直観されるエイドス(形相)などがそうであろう。しかしこの本質主義的な側面を残しておいて良いのだろうか。エポケーによってエイドスもエポケーするべきではないのか。こういったことが後の現象学者によって問われることになる。

参考文献

E. Husserl, Husserliana III/1. Ideen I : Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie, Martinus NIjhoff, Haag, 1976.

フッサール『イデーンI-I』渡邊二郎訳、みすず書房、1979年。

こちらは哲学用語特集 – 〇〇とは何か – に収録されています。こちらもぜひご覧ください。

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