メルロ=ポンティと『第六デカルト的省察』

メルロ=ポンティと『第六デカルト的省察』

『知覚の現象学』の訳者竹内芳郎の訳注について。『第六デカルト的省察』は存在しない?

 「竹内の訳注」とはみすず書房の竹内・小木訳『知覚の現象学』(1967)のことである。24頁を見てみてほしい。メルロ=ポンティは23頁でフッサールの言葉を引用しているが、その出典を「VIe Méditation Cartésienne(未刊)」(24頁)として記している。つまり出典は『第六デカルト的省察』であるが、それは『知覚の現象学』発表当時ではまだ刊行されてませんよ、ということだ。それに対して訳者は注をつけて次のように語っている。

VIe Méditation Cartésienne というのは、現行の《Méditations Cartesiennes》(1931年刊)のなかにはむろんのこと、あとで出版された Husserliana 第1巻中のドイツ語原本 „Cartesianische Meditationen”(1950年刊)中にも存在せず、したがって著者が実際にどんな文章から引用したのか不明だが、・・・(略)・・・。

VIe Méditation にあたるものが見出されぬ以上、著者の引用はここから〔『デカルト的省察』〕のもので、したがってこの原注は著者の思い違いだと推定しておくのが自然であろう。

『知覚の現象学1』329−330頁。〔〕は筆者補足。

 フッサールの著作として出版されている『デカルト的省察』は第五省察までしかないので、「第六」とは確かに不思議なのだが、実のところ「第六省察」は存在する。実は弟子のオイゲン・フィンクに共同執筆者として第五省察の続きを書いてもらっていたのだ。それが『第六デカルト的省察』である。執筆者がフィンクということになっているこの著作は、フィンク自身が出版することはなかったが、1988年にフッサリアーナ(フッサール全集)・ドキュメントの第2巻として出版されている。

 というわけでこのメルロ=ポンティの原注の方が実は正しい。実際、メルロ=ポンティは『知覚の現象学』を執筆する前に『第六デカルト的省察』に触れていたことが確認されている(八幡恵一「メルロ=ポンティとフィンク:「現象学の現象学」をめぐって」『年報地域文化研究(16)2012年、218−239頁参照)。『第六デカルト的省察』を丹念に読み込んだことで、『知覚の現象学』が生まれたといっても過言ではない。
 また『第六デカルト的省察』は翻訳が出版されてもいる。それを読むとフィンクが(フッサールを超えて)自らの現象学を全面的に打ち出しており、それに対してのフッサールの疑問とか注釈とかも収録されているので、かなり異色の書物となっている。

無関心な傍観者ーー『デカルト的省察』の場合

 それでは『第六デカルト的省察』のどの部分を引用しているのかを確認してみることにしたい。

 そもそも『知覚の現象学』ではどのような文脈で登場するのであろうか。序文の最後で言及されるのだが、そこでは主観主義と客観主義の話が登場する。メルロー=ポンティ曰く、現象学の収穫は、まずもって極端な主観主義と客観主義を接合させたことにあるという。その意味でフッサール現象学で言及される(超越論的)主観性は絶対精神とか絶対的主観性の類ではなく、全てを完全に理解しうるような合理性を予め備えているわけではない。つまり、

〈省察する自我〉、〈不偏不党の傍観者〉(uninteressierter Zuschauer)は、あらかじめすでにあたえられている合理性と合一するわけではなく、自らの一つのイニシアティブをとって「自己を確立し」、また合理性を確立するのであって、そのイニシアティブ自体も、あらかじめ存在の中に保証をもつものではなく、そのイニシアティブ自身がわれわれにあたえた、われわれの歴史を引き受けようとする実際の能力のうえに、その権利を全面的に依存させているのである。

『知覚の現象学1』23頁

 この引用に登場する「省察する自我」「不偏不党の傍観者」「自己を確立し」の箇所が『第六デカルト的省察』からの引用であるとされているが、この「不偏不党の傍観者」は『デカルト的省察』にも登場する。まずそちらを見ておきたい。

 まず「不偏不党の傍観者」は普通に「無関心な傍観者」と訳されることもある。interessierenという動詞にunという否定辞がついたものが傍観者の形容詞だからだ。これが何に無関心なのかと言うと普通に生きることに対してである。現象学する自我の分析対象は普通に生を営んでいる自我だ。その普通に生を営んでいる自我が素朴に知覚したり、想像したり、思考したりするわけで、そういった事象が現象学の分析対象になるのだとしたら、現象学する自我は知覚するとか想像するとかいう世界に対する関心をシャットアウトして、それらの事象自身をまなざさなければならない。要するに、ちょっと後ろから観察する必要があるわけだ。それをフッサールは自我分裂とか呼んだりするわけだが、実はその両者の関係性、つまり「関心を持つ主体」と「無関心な傍観者」という現象学的自己の関係性などについて考察しようとしたのが『第六デカルト的省察』であり、それゆえそれは「現象学の現象学」について語った本だとされている。『デカルト的省察』でもそのことに関する言及の中で「無関心な傍観者」が登場する。

我々が世界のうちに自然と入り込んで経験し、何らかの仕方で生きている自我を、世界に関心を持っている自我と呼ぶとすれば、現象学的に変更され、その変更が維持された態度には次のことが含まれる。つまり、自我分裂が生じているということであり、そこでは素朴に関心を持っている自我のうえに現象学的自我が無関心な傍観者として置かれている。

Hua I, 73. 『デカルト的省察』72頁

 問題はこの「無関心な傍観者」がメルロー=ポンティの言うようなあらかじめ合理性と合一しないような自我なのかどうかである。

 一般的には、メルロー=ポンティが語ったのとは逆にフッサールにはそのような理想があったとされている。実際『デカルト的省察』ではメルロー=ポンティが語っていたような言及はないし、むしろ合理性を備えたものとして考えていた節すらある。「現象学的に省察する自我は・・・普遍的にも、自分自身を無関心に観察する者となることができ」(『デカルト的省察』76頁)。そう考えると、『第六デカルト的省察』でどれくらい隔たりがあるのかはとても興味深いところだ。

無関心な傍観者ーー『第六デカルト的省察』の場合

 実際にはメルロ=ポンティが言うようなことが『第六デカルト的省察』で直接言及されているわけではない。ただ間接的にはメルロ=ポンティがいったようなことに落ち着くという読解は可能だと思う。一部を長々と引用してみよう。

だが一切の「存在対比」を越えて、現象学を営む自我は構成する自我とのをかたちづくる。だが「観視者」は、けっきょくのところ構成する自我によって(むろん構成的にではなく)立てられた反省自我である。そうするとこの反省自我[無関心な傍観者]は、あるーー極めて分析困難なーー仕方で構成する自我の自己世界化によって包括され、たえず支えられ、世間化されるかぎりにおいて、いわば世界構成に関与することとなる。世界内の人間への構成する自我の世界化を、その「自己統覚」の構成を、われわれはすでに本来的もしくは第一次世界化と名づけた。それは超越論的構成的なである。構成する自我は自己の能動的な構成の能作によって世間化される。この構成の能作は現象学的に理論たてる「無関与な」自我を世間化へと引きずりこむのであり、そして世間化はこの自我のもとではに基づいているのではから、そこでは世界化にしかならない。・・・。いまや現象学的営為は・・・世界に再転落し、世界において試みられた超越する営為となる。いまや還元という「脱人間化」としての現象学的営為は人間化される。

『第六デカルト的省察』102ー103頁([]は筆者挿入)

 ここでは無関心な傍観者と構成する自我の分裂が語られており、無関心な傍観者の方が構成する自我を基礎づけることになるはずなのだが、この無関心な傍観者を反省するときには、それは構成する自我の側からしか無理なのであり、それゆえ構成する自我の能動性が無関心な自我を「世界化」し「世界に再転落」させ、「脱人間化」された傍観者を「人間化」するのである。

 その意味で、無関心な傍観者は絶対的主観性みたいなものになりえない。そもそも構成する自我の世界化によって傍観者は「たえず支えられ」なければならないのであり、傍観者は構成する自我に依存しているのである(逆もまたしかりである)。すると合理性みたいなものをあらかじめ備えているわけではないというメルロ=ポンティの主張はまさにその通りであるし、またその二つの生は一体なのだからそれが一つののイニシアティブをとるというのも読解可能だろう。しかしその無関心な傍観者自体がイニシアティブをとるとかいうこと自体をフィンクはあまり言及しておらず、むしろ無関心な傍観者の届かなさ、隔たりを強調しているように見える。その隔たりをどう乗り越えるかがフィンクの根本的な問いだったわけである。

 ただ素朴に考えて、そのような自我分裂を想定することにどのような意味があるのだろうか。分裂していたところでその分裂を経験できるわけではないのだから、やはりその二つの生は一体であり、むしろ生の統一から自我分裂が生じるのではないだろうか。メルロ=ポンティの読解はそう訴えかけているように見える。構成する自我にせよ傍観者にせよ世界のただなかに属しているのだ。この軽く哲学的難問を飛び越えていくあたりはメルロ=ポンティの豊かさといえよう。

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参考文献

モーリス・メルロー=ポンティ『知覚の現象学1』竹内芳郎・小木貞孝訳、みすず書房、1967年。

フッサール『デカルト的省察』浜渦辰二訳、岩波文庫、2001年。

エトムント・フッサール、オイゲン・フィンク『超越論的方法論の理念 第六デカルト的省察』新田・千田訳、岩波書店、1995年。

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