『知覚の現象学』入門・要約|意味をわかりやすく解説|モーリス・メルロ=ポンティ

『知覚の現象学』入門・要約|意味をわかりやすく解説|モーリス・メルロ=ポンティ

まえおき

 哲学の本を読むと初っ端から心を挫かれることがある。その難解さのゆえにだ。難解な理由はいくつか挙げられるけれども、その一つにそれまでの哲学史を踏まえているというのがあるだろう。一体誰を敵として描かれているのか、何を念頭においているのか、これはその書物を読んだだけではなかなか理解することが難しいわけで、そこで現象学系の書物だったら現象学史などの知識が必要になったりするわけである。

 哲学書の読み方は一つではない。哲学史を知っていようが知っていまいが、その人がよく理解できたらそれでいいわけであって、絶対に必要な前提知識など存在しない。そもそも日本人はヨーロッパ哲学の歴史性を背負っていないわけであって、自分が分かるように読めればそれで十分なのだ。

 だからここでは一つの読み方を提示したい。哲学の歴史的背景を踏まえた読み方だ。この読み方はそれなりに客観性を担保しているので、ある意味人に伝わりやすく結構簡単な読解方法であるとも言える。今回扱うのは『知覚の現象学』だ。この書物の序文が難しくてわからないなと思った方にはぜひ一度目を通してもらいたい。一体メルロ=ポンティがどうしてそんなよく分からない書き方をしているのか、ある程度理解してもらえるはずである。

 さて、どのような読解の仕方があるのか。結論から言うと、『知覚の現象学』の序文は、フッサール現象学の再評価として読めるのである。しかしフッサール現象学はそんなに評価が低かったのか、評価が低かったのなら再評価すること自体に何か意味があるのか、そういう疑問が湧くと思われる。そういうわけで、フッサール現象学がどのような評価をされていたのかをまず見てみることにしよう。

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前史

『論理学研究』から『存在と無』まで。

 フッサールが現象学者として認められ、哲学の表舞台に立ったのは二作目となる『論理学研究』(1900/1)からである。これによってフッサール現象学というものが認知され、ゲッティンゲン現象学派などが成立する。いい調子である。

 このまま波に乗っていきたいところだが、『現象学年報』の創刊号に収録された第二の主著である『イデーン I』(1913)はあまりいい評価を受けなかった。これはどうも超越論的観念論の傾向の強いもので、そういった観念論は広く受け入れられなかったからである。カントみたいだな、もううんざりだ、というわけである(フッサール自身はカントの超越論的哲学を批判しているが)。というわけでずっと現象学が当時持て囃されていたというわけではない。

 そんな中とどめを差しにいったのが、あろうことかフッサールの弟子であったハイデガーである。ハイデガーはフッサールの現象学と決別して、新たに存在論的傾向を帯びた現象学を提唱した。それが1927年の『存在と時間』である。この著作はフッサールに捧げられていますが、中身はフッサール現象学からはほど遠いものであった。題名がすでに挑発的である。それまでに出版物はほとんどないにせよ、フッサールに出会ってから講義をしていた(見たことないがその中にフッサール批判もあるはず)。また邦訳もある数々の書簡集のなかでもフッサールがけちょんけちょんに言われていたりする。他にもブリタニカ草稿での決別、『存在と時間』のフッサール手沢本の欄外書き込みからわかる困惑と絶望。とにかくフッサールが期待したものとは別の現象学だったわけであるが、世の中に受け入れられたのは『存在と時間』の方であった。フッサールの哲学は直観の哲学、つまり表象(現前)の哲学である偏った見方に囚われているというわけである(ハイデガーの用語ではVorhandensein「目の前存在」という見方)。こういった見方も浸透したため、フッサールの現象学は何か古くさい哲学であるという見方も一般化していった。

 フランスの最初の現象学に関する本格的な著作はレヴィナスの博論である『フッサールの直観理論』(1931)だといわれている。もちろんフッサールを論じているわけだが、最後にハイデガーも出てきて、なんだかフッサールをハイデガー現象学で読んだかのような印象を受ける著作となっている。とにかくハイデガーの影響が色濃い。次に『存在と無』(1943)です。これは序文でフッサールの受動性にかんする議論はいらなかった断じている。そもそも名前から分かる通り存在論に関する著作である。こちらもハイデガーから強く影響を受けた著作となっていて、どちらかというとフッサールに批判的な著作となっている。

序文解説

序盤:『存在と時間』のすべてはフッサールの指示から生まれてきた

 このような前提のもとで『知覚の現象学』(1945)序文を読んでみると面白いことが分かる。ハイデガーを推さずにフッサール現象学も捨てたものじゃないよと言っているのである。

 一番最初の数ページが肝だ。最初、メルロ=ポンティは現象学とは何かと問う。そしてこの問いの答えをフッサール現象学の中から探し出そうとすると奇妙なことが分かる。フッサール自身が現象学を「本質の研究」であるといったり、「本質を存在へと連れ戻す哲学」だと言ったりしているのである。この両者は矛盾しているのだ。ここからが面白い。メルロ=ポンティは、しかしこの矛盾はフッサールの現象学とハイデガーの現象学のように区別すれば解決する問題ではないという。つまり、例えば「本質」に関してはフッサールの現象学で「存在」に関してはハイデガーの現象学というように割り当ててもダメだというのである。というのも、『存在と時間』にしたって、このフッサールの矛盾である「生活世界」のような概念を土台として生まれてきたものだからである。この矛盾はフッサールの頭がもっと良ければ解決されるはずだった矛盾なのではなく、現象学そのものに内在する矛盾である。というわけで、現象学とは何かということを矛盾を引き受けながら導き出してみようというわけである。

 面白いことの一つ目はフッサールの矛盾を積極的に引き受けていることである。それは否定されるべきものではなくむしろ肯定されるべきものである。それに続いて二つ目が、ハイデガーの課題評価をやめようという態度である。ハイデガー自身フッサールを引き継いでいるわけだから、むしろ評価すべきはフッサールの方なのである。

中盤:フッサール現象学概念の再評価

 メルロ=ポンティは最初にフッサール現象学は捨てたものではない、と評価したあとフッサール現象学概念について丁寧に再構成していく。記述、現象学的還元、本質、志向性、実はこれらは全部フッサールの概念である。つまり、フッサールの概念を、一般に考えられているような絶対的主観性の哲学からではなく、その矛盾を理解するような仕方で再構成してみようということである。そうすると現象学の新たな一面が見えてくるというのだ。本の記述の順番に追って行こう。

記述

 「記述することが問題であって、説明したり分析したりすることは問題ではない」。この最初のフレーズで感の良い人は「おお!」となる。なぜならこの「記述」というのはフッサールが提唱した態度なのだ。メルロ=ポンティはその意味を解釈して、フッサールは「記述」ということで科学の否認だけでなく、反省的分析も否認していると述べる。

フッサールが、「魂の能力の心理主義」のゆえをもってカントを非難することができた理由もここにあり、また、彼が世界を主観の綜合活動のうえに立脚せしめるノエシス的分析に己れの〈ノエマ的反省〉なるものを対立させ、これはあくまで対象のなかにとどまって、対象の始元的統一性を生み出すのではなくただ顕在化するだけだ、と称した所以もここにある。

6頁(強調筆者)

 「生み出す」のではなく「顕在化」なのである。そういうわけで対象は完全に構成されることはなく、逆に主観の外部にすでに何かがあることになる。それが世界だ。ここで「構成(konstitution)」という言葉を使ってみたが、実はこれもフッサールの用語である。現実は構成したりするものではない、とこの書物で述べたりするが、フッサールは一般的には現実は構成されるものだと考えられている。だからこそそういった言葉は非常に面白く響くわけだ。構成するって言ったりするけど、本当はもっと深いことを言っているんだ、というようなニュアンスを読み取ることができるわけである。

世界というものは、それについて私のなし得る一切の分析に先立ってすでにそこに在るものであって、それを一連の綜合作用から派生させようとするのは不自然であろう。

6頁

 フッサールはこんなに世界を推してない。しかし一応そう言った主張もフッサール現象学から読み取れるというのがメルロ=ポンティの主張である。フッサールを読み込むと、このような結論に自然と到達するはずだというのだ。そういうわけで「記述」ということで言いたかったのは、(内面的生の記述と呼ばれるようなものではなく)「世界」の記述なのだということになる。

象学的還元

 「記述」の意味が定まってくると現象学的還元とはどういうことかも分かってくる。「記述」は世界を記述するものであった。だとしたらその世界を露わにするのが現象学的還元だということになる。

われわれは徹頭徹尾世界と関係していればこそ、われわれがこのことに気づく唯一の方法は、このように世界との関係する運動を中止することであり、あるいはこの運動とのわれわれの共犯関係を拒否すること(フッサールがしばしば語っているように、この運動に参与しないでそれを眺めること)であり、あるいはまた、この運動を作用の外に置くことである。

12頁

 これを読むと、えっと思うわけである。一般的にフッサールの現象学的還元は徹頭徹尾世界と関係していることを想定していない。むしろそのような世界から身を剥がし主観のうちに篭ることで超越論的主観性にまで達することを言っているようにみえる。つまり世界とは関係していないことに気づくために、現象学的還元を実行するのだと言っているようにみえる。しかし、メルロ=ポンティに言わせれば事態は逆なのだ。しかし世界と関係する運動を中止したら、やはり世界はなくなってしまうのではないか。そうではない。やはり世界は「一切の分析に先立ってそこにある」。しかし両者は矛盾しないのか。しないのである。しかし、しないとはどういうことなのか。

ついにはフッサール自身までもがしでかした一切の誤解の根源は、世界を見てこれを逆説として捉えるまさにそのためには、世界とのわれわれのなれなれしさを断ち切ってしまわねばならぬということ、そしてこのような断絶がわれわれに教えるところは、世界の無動機的な湧出以外の何ものでもあり得ないということーーこうしたところにあった。還元の最も偉大な教訓は、完全な還元は不可能だということである。ここにこそ、フッサールが還元の可能性について、絶えずあらためて問い直していた所以がある。

13頁(筆者強調)

 大どんでん返しである。フッサールは無意識のうちに矛盾に陥っており、それを自らで解き明かすまでには至らなかった。違和感を感じ何度も問い直しながらも、それがどのようなことを示しているかフッサール自身分からなかったのだ。非常に繊細な書き方で、フッサール自身の落ち度も認めている。フッサールは正しいことを言っていたのにそれに気づかなかった。だから自分(メルロ=ポンティ)がそれがなんたるかを言ってやろう!というわけだ。気づくべきは完全な還元は不可能だということであり、全てを主観に還元しようとするまさにそのときに沈黙のうちに世界が現れているということなのである。離れたと思ったら逆に近づいていたというパラドックスこそが現象学なのである。

 というわけでハイデガー現象学がフッサール現象学より優位に扱われなければならないいかなる理由も存在しない。逆にフッサール 現象学の方がハイデガーの土台なのだ。

現象学的還元とは、一般に信じられてきたように観念論哲学の定式であるどころか、実存的な哲学の定式なのであって、それゆえハイデガーの世界=内=存在も、現象学的還元を土台としてのみ現れたのである。

13頁

 ここでは現象学におけるハイデガー優位の見方がメルロ=ポンティの中で逆転しているのである。

本質(形相)

 それでは本質はどうだろうか。これこそ悪しき形相学の遺産、直観とか表象による現前の哲学につながる負の遺産のように考えられてきた。しかしすでに世界が還元不可能だということが示されている。それなら本質という概念も逆転するはずだ。

「(・・・)まだ黙して語らない経験をこそ、その経験自身の意味の純粋表現へともたらすべきである」。フッサールの言う本質は、経験のもつ生き生きとした一切の諸関係を同伴して来るはずであって、それはあたかも、海底から引き上げられた漁網が、ピチピチとした魚や海藻を同伴してくるのに似ている。

15頁

 本質化は一般に物事を表象化してしまうことによって、その物事そのものを捉え損なうかのように考えられてきた。しかしメルロ=ポンティの解釈は違う。黙して語らざる経験(これも有名な言葉)を生き生きと語ることを可能にするのが本質や形相といったものであり、決して本質化はそのような生き生きとした経験を歪める実質をもっていない。それゆえ

〈意識の本質〉を求めるということは、したがって、意識という言葉の意味を展開したり、存在から言表された事物の世界へと逃れたりすることではなくて私への私のこの実際の現前、つまり私の意識という事実そのものをあらわにすることだ

15−16頁。

志向性

 さてそれでは志向性の意味はどのようになるだろうか。志向性のすこぶる簡単な定義は「意識は・・・についての意識である」というものであった。これの定式は何を言わんとしているのか。今までの議論を追っていけばおのずと答えがである。それは、世界が「すでにつくられたものとして、あるいはすでに存在するものとして生きられている」(19頁)ということなのである。「・・・について」の部分(世界)が意識がその「・・・」を構成する前にはすでにいつもある。

 だからこそフッサールが作用的志向性と作動的志向性を区別した理由もそこにあるわけだ、とメルロ=ポンティは言う。作用的志向性は能動的な志向性で先ほど述べた「構成」とかに関わるものだとされているが、それだとゼロから「・・・」を構成できるような印象を受けかねない。作動志向性があることですでにいつも構成の手前に何かがあることが示されている。つまりこの作動的志向性こそが

世界およびわれわれの生活の自然的かつ前述定的統一をつくっているのもの、・・・われわれの認識がその正確な翻訳たろうとしている元のテキストを提供してくれるものなのである。

19−20頁

意味と理解

 というわけで現象学的に理解するというのもその志向的関係全体を理解するということであり、その世界との生まの触れあいを理解するということになるだろう。メルロ=ポンティが言うには、それは一方的な知的な理解(intellection)ではないわけであって、極々単純に言えば、世界との生まの触れ合いをあらゆる方面からあらゆる水準であらゆる仕方で理解することなのである。

 有名かつ分かりやすい比喩なので次の言葉を引用しよう。理解の仕方はヘーゲル的なものだけでもいけないし、かといってマルクスだけでもいけないのだ。

歴史は頭で逆立ちして歩むものではないことはたしかである。しかしまた、歴史はその足でものを考えるわけではないことも同様に確かなのだ。あるいはむしろわれわれは歴史の〈頭〉にも〈足〉にも心を奪われるべきではなくて、その全身にこそ専念すべきなのである。

21頁。

結論

 というわけで、「現象学の最も重要な収穫とは極端な主観主義と極端な客観主義とを接合させたことにあるだろう」(23頁)ということになる。これとてメルロ=ポンティ独自の思想だというわけではなくて、フッサール自身から引出される結論なのだ。実際、この結論部分でも〈無関心な傍観者〉というフッサールの概念を引き合いにだして、この傍観者は決して「極端な主観」ではないことを力説している。

 最後もフッサールが登場する。「こうして哲学は、フッサールも言うように、一つの対話ないしは無限の省察」(25頁)となる。ここでもフッサールの現象学観が肯定されている。フッサールは誤っていたり古臭かったりするのではなく、誠実にずっと現象学を追求してきただけなのだ。『知覚の現象学』序文はフッサール現象学の中からフッサール現象学を越えようとした異色の研究論文なのである。

関連項目

自由(メルロ=ポンティ)
ニヒリズム
間主観性
無意識
無知の知

参考文献

モーリス・メルロ=ポンティ『知覚の現象学 1』竹内・小木訳、みすず書房、1967年。

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