『存在と時間』解説・入門|意味をわかりやすく要約|ハイデガー

『存在と時間』解説・入門|意味をわかりやすく要約|ハイデガー

概要

 1927年に出版されたマルティン・ハイデガーの著作。1925年マールブルク大学哲学教授ニコライ・ハルトマンがケルン大学へ転出し、その後任としてハイデガーが検討されたが業績不足という理由で文部省から退けられた(それまで10年ばかり出版したものが何もなかった)。そこで急遽、これまで書き溜めていた原稿などを一冊の書物としてまとめたのがこの著作である。

未完の書物としての『存在と時間』

 実はそこまで知られていないことだが、『存在と時間』は未完である。発表した当時は前半と記されていたのである。しかし、周知のように『存在と時間 後半』というのは存在しない。要するにハイデガーは断念したのである。少しその過程を追ってみよう。
 まず、『存在と時間』は目次を見てみると、序論と第一部の第二編までしかない。

序論 存在の意味を問う問いの提示

第一部 現存在を時間性へと解釈し、存在を問う問いの超越論的な地平として時間を解明すること

 第一編 現存在の準備的な基礎分析

 第二編 現存在と時間性

実は、当初の構想ではそこに第三編と第二部がくっつく予定であった。その構想が『存在と時間』の第八節に記されているのが、内容は以下の通りである。

 第三編 時間と存在

第二部 時節性(Temporalität)をめぐる問題系を手がかりとした存在論の歴史の現象学的な解体のあらまし

 第一編 時節性をめぐる問題系の前段階としてのカントの図式論と時間論

 第二編 デカルトの「われ思う、われあり」の存在論的基礎。「考えるもの」の問題系には中世存在論が継承されていること

 第三編 古代存在論の現象的基礎と限界を見極める基準としてのアリストテレス時間論

つまり、『存在と時間』はそれぞれ三編がつくことで計六編となる巨大な書物となる予定であった。出版された『存在と時間』当初は書物に「前半」と記されていたが、後に「前半」が削除され「後半」が放棄されたため、未完の大作となった。

執筆意図

業績づくり

 一つ目は世俗的な要因である。すなわち大学の正規教授になるための業績づくりである。前述したように、1925年マールブルク大学哲学教授ニコライ・ハルトマンがケルン大学へ転出し、その後任としてマールブルク大学員外教授であったハイデガーの正規教授昇進が検討されたが、ここ10年論文や著作を何も発表しておらず、業績不足という理由で文部省から退けられた。そこで急遽、これまで書き溜めていた原稿などを一冊の書物としてまとめたのである。

存在論の刷新

 二つ目は内容の問題であり、すなわち、新たな存在論の提示である。ハイデガーによれば、古代ギリシアのプラトンやアリストテレスが存在を探求して以来、基本的に2000年もの間現代に至るまで「存在の問い」に関しては新しいことは何も起こっていない。しかし存在了解に関しては先入見が蔓延っている。この先入見を払拭して新たに存在論を提示するのが『存在と時間』の目論見である。

主題

 「存在」の意味への問いを具体的に仕上げることが以下の論究のねらいである。時間をあらゆる存在了解の可能的地平として解釈することが以下の論究のさしあたりの目標である。

Sein und Zeit, 1(ハイデガー『存在と時間』高田珠樹訳、作品社、2013年)

主題は存在の意味であり、しかも存在の意味とは時間だ!ということである。ということは主題は時間だということになる。どういうことだろうか。

 プラトン、アリストテレス以来、存在というのは現前性だと捉えられてきた。これは時間軸で言うと「今(現在)」であり、時間である。つまり存在の理解(存在了解)に時間性が関わっているのである。そしてハイデガーは存在了解には過去や未来も関わっていることに気づいていた。存在了解の際に、現在だけを特権化する理由はない。だから、時間を考え直そうよと、とりわけ現在だけでなく、過去と未来についても存在了解に関わってるはずだから、それがどういうものか考えてみようとと言っているのである。存在の意味が時間だということはすなわち、存在を理解するときに時間性から存在が解釈されるということである。

 未完の理由もこの存在了解に鍵があることが最新の研究で明らかとなっている。元来未完の理由が様々に推測されてきたが、『存在と時間』前後の著作の検討が可能となってきたことで、より具体的に執筆断念の理由が分かってきたのである。

ハイデガーは1920年代前半までは、自然科学と精神科学それぞれの方法論的な特徴は何なのかという、一九世紀後半以来の新カント学派やディルタイ学派の学問論的議論の流れに棹さしつつ、現象学的方法を基盤として、キリスト教教義学やアリストテレス哲学の解釈の成果も取り込んで、「事実性の解釈学」という一種の哲学的人間学の形成に力を注いでいた。それがカントの図式論の発見を契機として、存在の時間的規定という問題設定が目の前に開けてきた。そしてそれまでは現存在の存在の時間的性格だけを問題にしていたが、そうした問題意識が今度は、現存在の存在だけではなく時間規定へと拡張されていった。このとき現存在は単に時間性によって規定されているだけではなく、この時間性がさらに存在一般の了解を可能にしているのだという側面も、新たに視野に入ってきた。まさにここにおいて、「存在と時間」という問題が確立されたのだ。

轟孝夫『ハイデガー『存在と時間』入門』講談社現代新書、2017年、395−396頁。

 というわけで、『存在と時間』では現存在のあり方が詳しく考察されると同時に、現存在がどのようにして存在を理解しているのか、歴史を踏まえれば、どうして現前性として存在を理解してしまっているのかが問題となる。要約すると、主題は、存在理解がどのようにしてなされているのか時間という観点から考えてみよう、ということになろう。

三点要約

 主題は存在の意味である時間性を突き止めることであった。なぜそれを突き詰めなければいけないかというと、古代ギリシア哲学由来の存在概念は間違っていることが一つと、なぜそのように間違ったまま現代に至るのかを考察するのが二つ目である。というわけで非本来的なあり方をまず提示し(第一ステップ)、その非本来性から抜け出すやり方が第二ステップ、本来性までたどり着き、そこからどのようにして非本来的な存在了解が生じるのかを考察するのが第三ステップである。非本来性→本来性という大きな枠組みが『存在と時間』の骨子だ。

非本来的なあり方:日常性

 非本来的なあり方は現存在の「ひと(das Man)」というあり方である。このひとというあり方のとき、現存在は特定の誰かではない。私たちは個々人それぞれ他人とは異なった特徴を持っている。趣味や関心、得意なこと不得意なこと、それらの差が他人との違いを決定する。ひとはそれらのない平均的日常的なあり方を指す。

 それだけでない。現存在はひとになろうとする傾向性も帯びているということも重要である。「「ひと」はとかく、・・・、自分の在りようが本質的に人並みであるかどうかが気になる」(高田珠樹訳『存在と時間』189頁)。一般的にはこれはどうなんだろうと思うことがあるが、そのときとりあえず一般的にはそうされてるのだからそれに合わせようとうする傾向性を日常でも感じることがあるだろう。それが「ひと」というあり方だ。例えば、スパゲッティを箸ではなくフォークで食べるのはなぜだろう。これはみんながそうしているからだ。このように常識に従うのが「ひと」なのである。ハイデガーはその「ひと」の特徴を「平均性、平坦化、公共性、存在の負担の軽減、迎合」と分析している。

 具体的「ひと」はどんなことをして生を平坦化させているのか。話すこと、見方、解釈することの3つの局面に絞ってハイデガーは取り上げている。順番に「巷談」「好奇心」「曖昧さ」となる。

 巷談は世間一般の通年や定説に則ったおしゃべりである。その会話では、いわゆる常識しか語られない。常識なので、その根拠が妥当なのかどうかとかは問われない。話されている内容は焦点になっておらず、特になんということのない会話が続いていく。

 好奇心は見方に関係する。それはただ流行を追っているだけのような見方である、ハイデガーは好奇心の特徴に「落ち着きのなさ」を挙げている。飽きたら次から次へと飛び移る。気散じや気晴らしの可能性が尽きないように頑張るのである。巷談が好奇心の行先を決める。

 曖昧さというのは本来性との関係で曖昧だということである。巷談や好奇心の中では、それを本当に受け取るべきなのかそうではないのか、それが大事なのか大事でないのかが曖昧である。つまり優柔不断ということでもある。

 それら全てを特徴づけるあり方が頽落である。それは「現存在がさしあたってたいていは、自分が配慮する「世界」のもとにあってそれにかかずらっているのを言い表そうとするものである」(262頁)。つまり頽落とは、自分自身ではなくて世界(物)へと向かってしまう傾向性のことを指す。その世界への没頭というあり方が非本来性というあり方だ。逆に自分自身に向き直るのが本来性というあり方なのだ。それでは、自分自身に向き直るためにどうしたらよいのか。

先駆ける決断のなかで本来性に目覚める。

 現存在の非本来的なあり方である「ひと」のあり方から、本来的な現存在のあり方を目覚めさせるのが第二ステップである。頽落している人はどうしても自分のことを振り返らないで日々を過ごしている。自己に向き変えるためには力技が必要だ。

 その力技のことをハイデガーは先駆ける果断さ(vorlaufende Entschlossenheit)と呼ぶ。先駆けとは、第三ステップにも登場するが、本来的な将来の時間性のあり方だ。私たちの将来の最終地点はなんだろうか。それは死である。つまり先駆けとは自らの死の可能性に直面することである。果断さに関してはハイデガー がこんなふうに言っている。

不安と向かいあう覚悟を持って沈黙したまま自分に最も固有なかたちで負い目を在ることへと自らを投射すること

高田訳『存在と時間』455頁

 要するにハイデガーが示しているのは自分自身の引き受け方だ。世界の方に目を向けるのではなく、自分自身の方に目を向けてみる。すると自らに固有の可能性である「死」「不安」「沈黙(頽落は巷談というお喋りの性格があったことを思い出そう)」「良心の呼び声」「負い目」が自らの前に現れてくるのだ。その中で真の自分自身、すなわち本来的な現存在が自らに迫ってくる。そして、これらを引き受けることこそが果断さなのである。果断に自らに向き直すことによって、そこにはもう本来的な現存在のあり方が現れている。

本来性と頽落

 本性的な現存在が露わとなったことによって、その時間性を分析することが可能となった。それでは現存在の本来的な時間性はどのようなものだろうか。そして、どのようにして非本来的な存在了解の傾向(現在優位)が強くなってしまうのだろうか。

 まず時間は三つに分けられる。過去、現在、未来である。ハイデガーの場合、基本的に在来性、現在、将来というような区別になる(意味はさして変わらない)。またそれぞれに本来性と非本来性の二種類ある。ざっと見ていくと、本来的な将来が「先駆け」であり非本来的な将来が「予期」、本来的な現在が「瞬間」であり、非本来的な現在が「現じさせる働き」、本来的な在来性が「反復」であり、非本来的な在来性が「忘却」である。

 例えば「理解」というあり方においては現存在は本来的であったり、非本来的であったりする。それもそのはずで本来性が理解できないと、そもそも存在論を企てる理由も原理的になくなってしまうからである。重要なのは「頽落」の時間性だ。ハイデガーは頽落に関して「その実存論的意味が現在にある」(516頁)とする。現在にあるだけではない。そのあり方の根本的な特徴は「現じさせる働き」であり、頽落は将来にせよ在来性にせよ非本来的にしか働かないのだ。だからこそ頽落していると、自分自身の方に目が向かなくなってしまうのである。私たちが日常的に暮らしているだけでも、非本来的な現在傾向が強くなっていくのである。

名言、よく言及される話題

道具分析

 有名なのは道具分析である。ハイデガーは物や世界の分析を行うにあたってそのあり方を手許存在と手前存在に分ける。手前存在というのは目の前にあるあり方、対象とか表象とか呼ばれるときのあり方だ。物にはしかし別のあり方がある。道具的あり方である。それをハイデガーは手許存在とよぶのだが、この道具的あり方の方が対象的あり方よりも根源的だとされる。

関連記事:物とは何かー手近存在と手許存在(ハイデガー)*なるほう堂

英雄問題

 存在と時間には歴史性の分析の箇所で英雄が登場する。

これまで在ってきた実存の可能性をひとつ本来的に反復する、つまり現存在が自分の英雄を選ぶというのは、実存論的には、先駆ける果断さに基づく。というのも、闘いながら反復可能なものを継承しそれに忠誠を尽くすことに向けて私たちを解き放つ選択は、先駆ける果断さに基づくからである。

高田訳『存在と時間』573頁。

 これがハイデガーの英雄論である。マルク・リシールはこういったハイデガーの傾向性を「ヒロイズムの倫理」と呼んでいる。

原典

『存在と時間』のドイツ語版について

2021年時点において第19版(2006)まで出版されている。

 テクストは三種類(辻村)や四種類(渡邊)に大別できるという。四種類の分け方を提示しておくと、1.第1版から第6版までの「旧版」。表題に「前半」という表示があり、後半が続編として出される予定であったことがわかる(また第5、第6版ではフッサールへの「献辞」が、検閲を恐れた出版社の要請により削除された)。2.第7版から第13版までの「新組版」。この版では新たに「まえがき」がつき、それまであった「前半」が削除されている。3.「全集版」。ハイデガーの死後、ハイデガー全集第二巻(1977)として刊行された。
 ここでは新たに、ハイデガーの自家用本(山小屋手沢本)に書き込まれた欄外書き込みが「脚注」として採録されている。4.全集版刊行後も単行本として刊行されている第14版から19版までの「単行新版」。それまでの形式に加えて、全集版に準じて、ハイデガーの手沢本の欄外書き込みが、新たに巻末に「付録」として追加されている(1)

(1)詳しくは、原・渡邊訳の『存在と時間 I』の「凡例」や高田珠樹訳の『存在と時間』の「訳者あとがき」を参照してほしい。

邦訳

邦訳の種類と特徴

 『存在と時間』の翻訳はこれまでに、私の知る限りでは九冊出版されている。ここではいくつか紹介する。また概念の翻訳についても様々に試みられているのでいくつか紹介する。

『存在と時間 上・下』細谷貞雄訳、ちくま学芸文庫、1994年。

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底本は第一版。梗概や概説などはなく最後に訳者あとがきがついているだけの非常に簡素とした形式。

『有と時・ハイデガー全集第2巻』辻村公一・ハルトムート・ブッナー訳、創文社、1997年。

 底本は全集版。 題名にもある Sein を「有」、Zeit を「時」と訳していることからも分かるように、非常に独特な翻訳が特徴である。この題名に関してはなぜ「有」と「時」にしたのかが訳者後記で述べられている。漢和辞典や国語辞典を参照しながら「存在」や「有」の意味を検討した結果、「存在」は「ハイデッガーの謂う意味での Sein を通俗的理解に委ねるだけ」(訳者後記)ということである。「時」も同様の理由であり「時間」では「派生された「通俗的時間概念」を根本にした見方にもとづいており、本末転倒」だとのことである。また全体の翻訳に関しては「日本語としての読みやすさを犠牲にしても、テクストの言い廻しをも出来るだけ再現することにつとめる直訳をとった」(凡例1)とのこと。

『存在と時間 I・II・III』原佑・渡邊二郎訳、中公クラシックス、2003年。

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 底本は第一版と第四版。世界の名著の原訳『存在と時間』を渡邊が全面的に見直して刷新した翻訳。渡邊によれば「翻訳書としての正確さと読みやすさとを念頭においた」(『存在と時間Ⅰ』凡例1)とのこと。特徴としては原注箇所に訳注を加えて、述語説明をしたり「欄外書き込み」について言及したりなど読者に読みやすいよう補足的な説明を随時加えていることである。

『存在と時間』高田珠樹訳、作品社、2013年。

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 底本は第十一版。平易で読みやすい訳を目指しており、訳注も最小限に抑えられている。Seinkönnenを「ありうべきあり方」と訳すなど、文脈に合わせて翻訳を変えているので、読むときにあまり違和感の感じない訳となっている。

『存在と時間 一・二・三・四』(全四巻)熊野純彦訳、岩波文庫、2013年。

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 底本は第十七版。各分冊の冒頭に「梗概」があり、段落ごとあるいは数段落ごとに「注解」をおき、さらにその注解中に、注解では触れることのできなかった哲学史的な脈絡などを説明する「訳注」がつくなど、とにかく解説の多い邦訳である。熊野自身それを本書の特徴として捉えている。また訳語に関しては「ハイデガーが使用しているドイツ語のなりたちとニュアンスをできるだけ活かすという方針」(『存在と時間 三 』552頁)だったという。

『存在と時間 1-8』(全八巻)中山元訳、光文社古典新訳文庫、2015ー2020年。

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 底本は第七版(1、2巻には、底本は「第一七版(1953年)」と書かれているものがあるが、おそらく間違いだろう」)。『存在と時間』を本文に沿って詳しく解説した注釈書があまりないので「読みやすい翻訳を提供すると同時に、詳しい解説をつけることにした」(第1巻訳者あとがき)翻訳である。よって文体は平易で読みやすいものとなっているが、本の半分以上が解説という書物となっている。また底本は第七版であるが、注に訳注として「欄外書き込み」が加えられているのも特徴。

邦訳の評価

 高田は訳者あとがきで「力量に改めて敬服した」「しばしば感心させられた」と述べるなど、細谷訳を非常に評価している。熊野訳に関しては「私のものとはかなり違った訳文のスタイルであると感じた」と述べている。

『存在と時間』のハイデガー概念の翻訳の種類

 これほど翻訳者の訳がまちまちな書物も他にない。理由はそもそもハイデガー自身が日常的な意味で用語を使用していないことにある。例えば「現存在」だ。これは『存在と時間』ではおおよそ人間という存在者のことを指すが、しかし日常的な語義では人間をさすことはありえない。というわけでハイデガーが付与した意味を含意しながら訳を決定しなければならない。また一般の読者でも分かりやすい翻訳にするのか、専門的にするのかなどそもそも文体によってもどのような訳にするのかは分かれるだろう。そういうわけで様々な訳が試みられているのだが、ここでは主なハイデガー哲学の概念の翻訳を見てみようと思う。

Sein:ほとんどの著作が「存在」と訳しているが、辻村のみ「有」と訳す。なおこのように Sein を「有」と訳すのは全集版翻訳の基本方針であり、ハイデガー全集のどの翻訳もそのように訳している。

Bewandtnis:高田「帰趨」。熊野/渡邊「適所性」。細谷「趣向性」。中山「適材適所性」

Entschlossenheit:高田「果断さ」。熊野/渡邊/中山「決意性」。細谷「覚悟性」。

Sein zum Tode:高田「死に臨んである」。熊野/渡邊「死へとかかわる存在」。細谷「死へ臨む存在」。中山「死に臨む存在」

Befindlichkeitt:高田/熊野/中山「情態性」。細谷「心境」。渡邊「情状性」。

ontisch:高田「存在相的」。熊野/細谷/渡邊「存在的」。中山「存在者的」

Zuhandenheit-Vorhandenheit:細谷「用具的存在ー客体的存在」。辻村「手許に有ることー直前的に有ること」。原・渡邊「道具的存在性ー事物的存在性」。高田「手許に在ることー手近に在ること」。熊野「手もとにあるありかたー目の前にあるありかた」。
 存在には三つある。VorhandenseinとZuhandenseinとDaseinである。前者二つは事物のあり方であり、後者(大抵は「現存在」と訳される)は通常は人間のあり方のことである。そして Vorhandensein が「見る」などのような振る舞いによって捉えられた静態的な事物のあり方であり、Zuhandensein が道具のように扱われる物のあり方である。このようにハイデガーは事物のあり方を二つの存在に分けるわけだが、こうやっててみると翻訳五者共に別の訳でありだいぶ苦労の後が見られる。

Nichtigkeit:高田「抜かり」。熊野「無-性」。細谷「無性」。渡邊「非力さ」。

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