不安とは何かーハイデガー|意味をわかりやすく徹底解説

不安とは何かーハイデガー|意味をわかりやすく徹底解説

意味

 私たちは日常的に不安を覚えたりする。明日の約束事とかこれからの人生のこととか。こういった日常的な不安という概念に分析を加えたのが20世紀最大の哲学者マルティン・ハイデガーである。

 今回はハイデガーの『存在と時間』を引用しながら不安を徹底的に検討してみることにする。

まえおき

 『存在と時間』を呼んで難しいと感じた人はまずこの「まえおき」から読んで欲しい。また『存在と時間』簡単な解説も行っているので、こちらの記事も読んでもらいたい→「『存在と時間』解説・入門

ハイデガー『存在と時間』を読むポイント

 ハイデガーの概念がややこしく感じる理由の一つに、日常的な概念を使うのに意味を変化させているということがある。例えば「良心」という概念があるが、その言葉を彼は存在論的に使うことによって普段の意味から変化させている。だから彼の著作の概念は「難解」だと言われている。

 日常の言葉を難しく使っているとき(とりわけ『存在の時間』で)、押さえておきたいポイントは二つだ。

 一つ目が、彼の分析は現存在(人間)の実存論的解釈であるということである。実存、つまり人間の人間性みたいなものを解釈するには、人間にとって様々な状況(道具を使うこと、恐れ、不安、死、決断、良心、話すこと、未来を考えること)から出発しないといけない。というわけで、ハイデガーの実存論的解釈ではそういった人間における様々な状況が検討されるわけである。

 二つ目が、彼の分析が現存在(人間)の存在論的解釈であったことである。存在論的解釈という別の枠組みを用意したとき、人間の様々な状況にこれまでとは別の優劣の基準を設けなくてはいけない。例えば恐れと不安をあなたならどっちが大事だと考えるだろうか。恐怖度という基準で考えるならば、不安より恐れの方が強度が強そうであり、恐れを選びたくなる。さて、そこでハイデガーが基準として選んだのが存在論だ。ハイデガーは存在論的な基準で人間における様々な現象を捌いていこうとする。存在論的な枠組みというのは、一般的には「それ自体(自身)」「存在そのもの」のような同一性/唯一性の方を基盤に置こうとする考え方だ。実存論的見方が混ぜ合わされると、その基盤が自分自身(ハイデガーだと「現存在」)ということになる。

 というわけで、ハイデガーの『存在と時間』での分析は、実存論的存在論的解釈というハイブリット解釈を使っているから難しくみえるのである。一方で実存の体系があり、他方で存在論の体系があるのだが、それを合体させたわけである。とりあえず、何で良心とか不安とか分析してるかというと、それは彼が実存に哲学の基礎を見出したからであり、何で恐れより不安の方が根源的なのかというと、不安の対象が自分自身だからである。そのポイントを押さえておくと『存在と時間』のハイデガー哲学は、より一層理解しやすくなるはずである。

読解(『存在と時間』)

不安とは根本的な情態性である

 ハイデガーの不安分析の特徴は、まず「不安」と「恐れ」を異なる現象として区別したことである。「恐れ」とは、「世界内に存在するもの」に対して働くものだ。「世界内に存在するもの」とは、ハイデガーの用語なのだが、ここでは日常的に出会ったり考えたりする様々な事物や物事と考えてもらってよい。例えば、机、犬、明日のこととか過去の記憶とかもそうである。だから恐れというのは、例えば「犬が怖い」「台風が怖い」のように恐怖の対象がある。それに対して「不安」は、世界内に存在するものに向けられているのではない。

不安が直面しているのは、世界=内=存在そのものである。

『存在と時間』高田珠樹訳、作品社、2013年、277頁(以下の引用ページ数もこの著作から)。

 世界=内=存在って何よ、となるかもしれないが、世界=内=存在というのはここでは「現存在」のことだ。つまり不安とは、自分自身に直面し、自分自身を恐れている状態のことである。

 ハイデガーによれば、人は大抵不安に陥ってない。なぜだろうか。それは私たちが世界内に存在するものに慣れ親しんでいるからだ。そうやって親しんでいる状態(頽落)が私たちの日常的な状態なのだが、それをハイデガーは自分から目を背けているんだ、と解釈する。つまり、本当は自分のことに目を向けるべきなのにそれは不安だから、世界の方に目を向けて(逸らして)世界の方に没頭してしまっている、というのだ。ハイデガーにとって世界に埋没するということは「ひと〔das Man〕」として埋没することであり、そこでは本当の我を忘れてやすらぎ、安心の中で気楽に生きているという状態になる。ただそれ自体は単に私たちの日常的な性のあり方でしかないので、それを否定的に捉えるのはよろしくないのだが、存在論的には少し問題を抱えている。というのも、存在論的に根本的なのはむしろ自分自身(現存在)の方だからだ。

 不安という現象によって現存在自身が濁りなく現れてくる。不安の中で現存在そのものが不安に駆られながら開示される。世界に頼るべきものなど何もない。彼はそのような状態を「不気味(Unheimlich)」であるとか、「くつろがない(Un-zuhause)」といった様態であると言っている。フロイトも「不気味」について詳細に検討しているが、これはハイデガーによれば我が家にいないことであり、どうにも落ち着くことのできない状態なのだ。そのようなところに長く居座りたいと思う人はいないだろう。それだからこそ、現存在自身の特性を如実に示しているのである。

不安は何を意味しているか:①可能的存在としての現存在

 それではその特性とは一体何なのか。ハイデガーは次のように言っている。

したがって、不安は、それが何の身を案じて不安に駆られているかということをもって、現存在可能的存在として、しかも孤立化させられたものとしてひたすら自分自身によってしか在り得ない可能的存在として開示するのである。

280頁

 もう世界内に存在するものにかかずりあってない。不安の中ではその一歩手前の状況にある。現存在自身の可能性があって初めて世界内に存在するものの有意性なども生じてくる。よって立つところは自分自身しかない。つまり、そこが立脚地点であるという意味で、不安は現存在が可能的存在である、ということを示しているのだ。

 しかし単純にどのような可能性にも開かれている、つまり、AということもできるしBということもできるといった可能性に開かれているということなら、キルケゴールと同じなのではないかという意見も出てこよう。キルケゴールの不安については次の【不安とは何かーキルケゴールの場合*なるほう堂】を見てもらいたい。

 しかしハイデガーは注で、批判的に次のようなことを言っているのだ。

不安の現象の分析で最も奥深くにまで突き進んだのは、セーレン・キルケゴールであるが、彼もまた、原罪の問題を「心理学的」に提示するという神学的な文脈でこれを行っている。

283頁

 「心理学的」というところが重要で、キルケゴールの分析は心理学的に詳細ではあっても「存在論的」ではない。その意味でキルケゴールの不安分析はまだ真実にまで辿りついていない。では、不安は存在論的にはどのようなことを指し示すのか。

不安は何を意味しているか:②現存在の本来性

不安は、現存在の中に、自分に最も固有な在りうべき在り方に向けて在ること、つまり自分自身を選び取り、また掴み取る自由に向かって開かれている自由な在りようが潜んでいることを暴き出す。不安によって現存在は、自分が常にそう在るところの可能性としての、自分の存在の本来性に向かって開かれて自由であること(自発的であること)に直面させられる。

280頁

 この文章では不安によって「自由」が暴かれることが明らかにされる。自由とは、一般的には「何でもできる」と言ったようなことを指すがここではそうではない。存在論的には、自由は「自分の存在の本来性に向かって開かれて」あることである。つまり、現存在自身の存在というものが自らに開かれており、真の自分自身とでも呼べるような本来性にいつでも向かうことができる、というのが存在論的な自由なのである。これを「開示性」と呼んだりもする。

 というわけで、可能的というのもいろんな可能性に開かれているから現存在は可能的存在だというわけではなくて、本質的には現存在が自分に最も固有な可能性に開かれていることが現存在を可能的存在たらしめているのである。最も固有な可能性、つまり本来性に導かれているときは、現存在はもろもろの世界内に存在するものには煩わされないので、その意味でなんでもできる可能性を持っているというのも正しい。しかし不安の現象のどこが重要かというと、存在論的にその現存在の本来性を開示するという点であり、そこがキルケゴールとハイデガーの異なる点なのだ。

関連項目

参考文献

マルティン・ハイデガー『存在と時間』高田珠樹訳、作品社、2013年。

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