レヴィナスの問題設定
エマニュエル・レヴィナスという哲学者をご存じでしょうか。
彼は、リトアニア出身のユダヤ人思想家で、哲学者であり、ユダヤ教の聖書解釈者でもあります。現象学という哲学分野をフランスに紹介した第一人者として知られています。「他者」を論じた哲学者、として有名です。この他者というテーマは、言ってみれば取っ付きやすい。というのも、他者の奇妙さ、分からなさは万人が共有する感覚だからです。なので、レヴィナスは哲学が専門じゃないひとにも広く親しまれてきました。他者という問題に関心をもったことのあるおそらくは非常に多くの人たちにとって、レヴィナスは需要のある哲学者だといえるでしょう。
しかし人気の割に、レヴィナスの著作には、専門家の間でも解釈が定まっていない箇所が多々あります。レヴィナスのテクストは、読者それぞれによって好き勝手な仕方で解釈されやすい。この傾向をコリン・デイヴィスは、「レヴィナス効果」と呼びました。読者それぞれに「私にとってのレヴィナス像」があり、異なるレヴィナス像が乱立しています。なので、「解説書を読みさえすればレヴィナスをスッキリ理解できる」という状況からは程遠いのが、レヴィナス研究の現在の状況です。この記事で僕が提示するのも、あくまで僕の解釈したレヴィナス像に過ぎません。しかしなるべく、レヴィナスの思想の骨格といえる議論の構造を提示することを、試みようと思います。レヴィナスの情感たっぷりな表現を、可能な限り形式的な概念に置き換える、というのが僕の解釈の特性です。
まずはレヴィナスの哲学の動機と目的について、説明しましょう。ここでは『全体性と無限』というレヴィナスの中心的著作に焦点を当てます。この著作の中でレヴィナスは、人間は他者のために生きなければならない、と説きました。言い換えると、人間には他者に対する責任がある、ということです。このような観点から、レヴィナスは、従来の哲学のうちに潜むエゴイスティックな傾向(私を中心に考える傾向)を批判しました。つまりレヴィナスは、人間の利己的なあり方を、利他的なあり方へと転換するための倫理学を構築したといえるでしょう。
ではなぜ、私は自分のためではなく他者のために生きなければならないのでしょうか。なぜ私は他者に対して責任を負っているのでしょうか。レヴィナスはこの問題に端を発して、道徳に関する独自の理論を展開します。
これは一見するとありふれた問題設定にもみえます。ですが、レヴィナスの議論はかなり衝撃的です。というのも、レヴィナスの思想は普通の利他主義ではないからです。通常の利他主義的な道徳の決まり文句に、「情けは人のためならず」というのがありますが、レヴィナスの思想はこのフレーズに表れている思想と真っ向から対立します。「情けは人のためならず」というのはけっきょく、「他人のために善い行ないをすれば、めぐりめぐって自分のためになるよ」ということです。つまり、この手の通俗的な利他主義には、エゴイズムがひそんでいます。めぐりめぐっての見返りを約束するような利他主義は、人間は自分の幸せのためにしか行動しない、という利己主義的前提があるからです。
レヴィナスが説くラディカルな利他主義は、このような見返りを前提しません。他者に対する責任を果たしたとしても、私は幸せにはならないのです。それどころか彼によると、他者に対する責任を果たすと、私のもつ権利はむしろどんどん少なくなっていきます。以下、『全体性と無限』からの引用です。
責任の無限が言い表しているのは、(…)引き受けられるに応じて責任が増大していくということである。義務は達成されるに応じて拡大していく。私が義務を達成すればするほど、私のもつ権利は少なくなる。(藤岡訳439頁)
利己主義的前提を維持するならば、ここで言われているような責任を負う理由は理解できません。責任を果たすことで私の権利が少なくなるなら、責任を負っても私は何も得しない。むしろレヴィナスによると、責任をとらないほうが、私はより多くの権利を保持できます。にもかかわらずレヴィナスは、他者に対する「無限の責任」を私は引き受けるべきだと言います。なぜ私は、自己の権利を少なくしてまで、そのような理不尽なまでに膨大な責任を負わなければならないのでしょうか。この記事では、「人間は他者に対する責任を負うべきだ」というレヴィナスの主張を解釈するための、ひとつの見通しを与えることを目指します。
なぜ私は責任を負うのか
レヴィナスの「責任」という概念を理解するにあたって、注意すべき点は以下二つです。
1.責任とは、応答可能性のことである。
2.他者に対する私の責任は、自我論を経由してのみ理解できる。
第一の点は、中高の英語教育のなかで気が付いている人もいると思います。責任という概念は、フランス語でいうとresponsabilitéで、英語で言えばresponsibilityです。つまり責任とはレスポンスするアビリティーなわけですから、直訳風に「応答可能性」と日本訳できます。これは単なる言葉の問題ではありません。すこし考えてみれば、応答可能性という語が、責任という事態をまさに的確に表現していることが分かるでしょう。他者に対して責任があるとは、他者の求めに対して応じることが可能だ、という状態のことです。そして責任を取るとは、他者の求めに対して応じることだといえるでしょう。以下では、責任=応答可能性という定式に基づいて、「責任を負う」や「責任を取る」といった事態を、「応答しうる」や「応答する」という事態と、互換可能なものとして扱います。
それを踏まえたうえで、僕が特に強調したいのは、二つ目のポイントです。レヴィナスの責任という概念を理解する上で決定的に重要なのは、彼の自我論である。これが本記事の中心的主張です。レヴィナスのいわゆる「他者論」を理解するためには、彼が他者を直接論じている箇所ではなく、彼が自我(すなわち私)をどう考えているのかを知るのが近道だと僕は考えます(このような考えは、現代のレヴィナス研究ではだいぶ一般化してきました)。
「なぜ私は他者に対する責任を負っているのか」、これがこの記事で取り組む問題でしたが、この問いに一言で答えるとするなら、僕はレヴィナスの主張を以下のように要約するでしょう。
他者に対して応答する限りにおいて、私は存在する。
逆にいえば、
他者に対して応答しないならば、私は存在しない、
ということです。
この論理は、「私」という一人称の代名詞で表されている主体を分析することで、理解可能になります。
世界のうちに客観的に存在している対象を、「自分のもの」として理解することで、私は世界に関与します。たとえば、この身体は、医学的にみれば客観的なデータで分析されるような一つの人体ですが、私はこれを自分の身体として理解します。このように、身体という特定の対象を自分のものとみなしている主体が私です。そしてこれは、身体に限った話ではありません。私の声や私の書いた文章、私が買って着ている服や、私の家。私の仕事上の成果物ないしは業績。私に関わるあらゆる記録のすべて。このような様々な対象を、私は、自分のものとみなすことができます。このように、対象を自分のものとみなすことを、レヴィナスは「所有」と呼びます。私が所有している対象の総体が、客観的秩序における私のすべてです。(ちなみに言うと、レヴィナスは私が所有する様々な対象を、私の「作品」と呼びますが、この記事では説明を手短にするためにこの表現は使いません。)
ここで、いま述べた所有という概念を死という問題と結び付けて考えていましょう。仮に、私が所有している対象がすべて、私のものでなくなってしまったとします。すると、私はもはや存在できなくなってしまいます。つまり、私は死んでしまうわけです。死という現象は、私の所有する対象が、もはや私のものでなくなってしまう現象として解釈できます。つまり、私の身体が遺骸と化してもはや私のものでなくなり、私に帰属するあらゆる物が遺産として他者の手に渡るという現象、それが私の死です。私が生きて存在するためには、私のものとして対象を所有しなければならないのです。このように、対象を所有することと、世界内での私の存在が結びついていると考えた場合、私の存在は容易に脅かされるということが分かるはずです。というのも、生物学的・法的意味での死が訪れるのをまたずとも、私の所有物は容易に他者の手に渡るからです。そして私の所有物がすべて、他者の手に渡った場合、私は世界に属する何ものも自分のものとみなせなくなり、もはや世界に存在できなくなります。
もちろん他者たちは、私の身体を見たときに、「この身体は自分のものだ」と思っている私の存在に気付いてくれますし、私の発した言葉や私の家にある物たちがこの私に帰属すると考えてくれます。しかし、私が私の身体を「自分のものだ」とみなすときの感覚を、その身体を見た他者たちは感じることができません。なぜなら、私の身体は他者にとっては「自分のもの」ではないからです。これは、他の諸々の対象に関しても同様です。私の所有物を、私がどのような意味で自分のものだと思っているかを、他者は知ることはできません。この身体やそれが関わるいくつかの対象を、私が「自分のものだ」と思っていることは、私がそれを他者に伝えない限り、世界中の誰にも知ることができません。「これは自分のものだ」という主観的な確信は、客観的な世界のなかに場所をもちません。つまり、この確信を私が他者に伝えなければ、私は世界に存在しないことになります。逆にいえば、他者たちが私の存在に気付けるのは、自分の身体や所有物に対する私の理解を、私が他者たちに示しているからです。
私はしばしば、私が対象を所有することを他者たちも承認してくれるはずだと楽観的に考え、そしてこの考えに基づいて、私の所有や存在が他者たちの間で客観的に保証されていると素朴に信じています。つまり、「これは自分のものだ」という私の理解を他者に示さずとも、私は当然存在している、と私たちは普段思っています。しかしそれは錯覚だ、というのがレヴィナスの見立てです。私が「自分のものだ」と思っている対象を、他者はかならず私とは別様に理解します。そのため私からみれば、他者は、私のものであるはずの諸々の対象について、必然的に誤解しています。
この誤解が訂正されない限り、私は世界に存在することができません。しかし、この誤解を訂正できるひとは私以外にはいないため、他ならぬ私が他者の誤解に応答しなければなりません。私は他者による誤解に応答することによってのみ、世界に存在するというわけです。とはいえ、この応答によって、他者による誤解が完全に払拭されるわけではありません。それどころか私は、他者によってますます誤解されるようになるでしょう。というのも、私が自分のものを「これは自分のものだ」と思う感覚は原理上私にしかつかめないため、その感覚を理解してもらおうという試みは、常にさらなる誤解を生みます。すると私の存在はますます脅かされ、私はますます応答しなければならないことになるでしょう。
このように、
応答しなければ存在できない、
でも応答すればするほど存在が脅かされる、
だから無限に応答しなければならない、
という理不尽な状況にたたされた特異な存在者が「私」だということです。そういうわけで、私の存在は、他者に対する応答可能性以外の何ものでもありません。
つまり、
私=他者に対する無限責任
ということです。
だから、私が他者に対して責任を負っているのは、当然です。なぜなら、私は、他者に対する応答と同義だからです。以上のように考えれば、レヴィナスいう「他者に対する無限の責任」は、「私」を分析することで必然的に導出される観念であることがわかると思います。
結び
以上で見てきたように、レヴィナスは「他者のために生きるように心がけなさい」というお説教をしているのではありません。私は他者に対して応答することによってしか生きられない、という驚くべき現実を提示しているのがレヴィナスの哲学だと僕は思います。この記事では、私という概念から出発して、他者に対する私の責任を論証しました。レヴィナスの哲学には、道徳的なメッセージをたくさん読み取ることができます。でもその道徳は、私たちが従うべき規範や平和な世界像を提示する試みではありません。むしろ、私たちの通常の認識に衝撃を与え、驚くべき現実に目を開かせます。
みなさんも、もしよければ『全体性と無限』を手に取ってみてください。この記事での記述は主に、『全体性と無限』の第三部を念頭に置いたものです。読めばきっとみなさんなりに何らかの驚きや発見が得られると思います。