意味
ルサンチマンとは、「無力ゆえの「憎悪」「嫉妬」に基づく、弱者からの「復讐」の感情」のことである。復讐心、反逆心と訳せる場合も多い。
アルファベットで書くと Ressetiment となる。最後の[t]を発音しないのは、この言葉がもともとフランス語だからである(基本的にフランス語では最後の子音は発音しない)。この言葉は、17世紀にはドイツに移入され、ドイツ語として「傷つきやすさ」「不満」「憎悪」などの意味で用いられるようになっていた。
永劫回帰という概念で有名なニーチェによれば、キリスト教道徳はこのルサンチマンによって発生した価値観であり、その価値観をニーチェは「ニヒリズム」と呼んでいる。
著作読解
『道徳の系譜学』におけるルサンチマン
ニーチェにおけるルサンチマン概念の初出は、1875年のデューリング『生の価値』に関するノートである。そして、ルサンチマン論の本格的な展開が『道徳の系譜学』でなされることになる。それでは『道徳の系譜学』第一論文の「「善と悪」・「良いと悪い」」第10節から、ルサンチマンの意味を読み解いてみることにしよう。
価値転倒を生じさせるためには
第10節の始まりはこのような文章から始まる。
道徳上の奴隷一揆が始まるのは、ルサンチマンそのものが創造的になり、価値を生み出すようになった時である。ここでいうルサンチマンというのは、本来の反動〔Reaction〕、すなわち行動上のそれが禁じられているので、単に想像上の復讐によってのみその埋め合わせをつけるような輩のルサンチマンである。
木場深定訳『道徳の系譜』36−37頁(一部訳変更)
道徳上の奴隷一揆とは、虐げられていた者たちの価値転倒運動のことである。ヨーロッパの歴史においては、つまりニーチェからすれば、そこでいわれる価値とはキリスト教道徳ということになる。彼らの運動の原動力となるのがルサンチマンなのである。ルサンチマンは先ほども言ったように、日本語でいうと、反逆心とか復讐心かいうふうに訳されるものであった。これは誰しもが持つ感情だろう。人から馬鹿にされたりしたときに、「なんだとこのやろう」と思うのが広義のルサンチマンである。しかし、ニーチェの概念であるルサンチマンはさらにもう一歩進む。「創造的」であり「価値を生み出す」ようになるのだ。
どのような価値を創造するのか。ここで話題に上がっているのは道徳的価値なのだから、彼らは「善い」という価値を創造するようになる。つまり、今まで「善い」とされてこなかった価値観、あるいは「悪い」とされていた価値観を「善い」という価値に転倒させるのだ。これが「なんだとこのやろう」だけでなく、お前らは間違っている、と叫ぶという反動的な価値形成をルサンチマンを持つ者はするのだ。まず相手の「否定」から入る。これがルサンチマンの初歩的な構造である。先に言っておくと、ルサンチマンを持たないもの(貴族的種族)は自分の肯定から価値を創造する。これが両者の違いになる。
ルサンチマンとは逆の人のことを、ニーチェは貴族的種族や高貴な人々と呼んでいるが、その代表的な例がニーチェによればギリシア貴族である。彼らの下層民と自分たちを区別する言葉の中には「不幸な」「不憫な」というニュアンスが常に含まれている。つまりそういった下層民に対して何らかの反感を持つことはなかったのである。なぜか。彼らはそもそも自分たちのことを「幸福な者」と感じていたからである。対照的に、ルサンチマンを持つ人々は、まず相手を不幸な者として、そこから自分たちを幸福な者とする。後者のような価値の創出の仕方を受動的とニーチェは言っているが、そういった人は「横目を使」い、「黙っていること、忘れないこと、待つこと、差し当たり卑下し謙遜することを心得ている」のである。
ギリシア人に関してであるが、もともとニーチェは古典文献学者で古代ギリシア悲劇に関する研究である『悲劇の誕生』が彼の処女作だ。つまりニーチェはギリシア哲学の思想だけでなく、ギリシア人の価値観や語源学に関する教養も持ち合わせており、さらにギリシア(のディオニュソス的なもの)が大好きだ。実際にギリシア人貴族がルサンチマンではないかどうかは置いといて、彼がギリシア人を頻繁に持ち出すのはそういった背景もある。
悪を創造するルサンチマン
さて、もう少しルサンチマンの言及について見てみよう。ニーチェがルサンチマンを持つ人々は「卑下し謙遜することを心得ている」と述べたあと、次にように言っている。
ルサンチマンをもった人間どもの種族は、必ずやついにいかなる貴族的種族よりもより利口になる。彼らは利口さということをまた全く別の尺度で、すなわち最高級の生存条件として尊重するようになる。
『道徳の系譜』39頁(一部訳変更)
貴族的種族は逆に、ニーチェによれば、この利口さに「贅沢」とか「典雅」という意味合いを込めがちだということだ。この利口さはおそらく価値転倒のために、最高級に尊重されるのであり、貴族的種族においてはそこまで重要ではない。というのも貴族的種族は価値転倒をしようと思わない(か思ってもすぐに消えてしまう)。彼ら貴族的種族はその価値転倒ということに関して「真面目に取り合ってられない」と思っている(好例はミラボーらしい)。貴族的人間には価値転倒を行いたいと思わせるような敵はいないのだ(そのような敵は象に対するアリのようなものである)。むしろ貴族的人間の敵は極めて多くの尊敬すべき点をもつものに限られている。これがルサンチマンを持つ人間だと逆になる。最後の文章を引用してみよう。
ルサンチマンをもつ人間はまず「悪い敵」を、すなわち「悪人」を構想する。しかもこれを基礎概念として、それからやがてその模像として、その対照物として、更にもう一つ「善人」を案出するーーこれが自分自身なのだ!・・・
『道徳の系譜』40頁(一部訳変更)
わかりやすくまとめ
ルサンチマンを理解する上で大事なのは、ルサンチマンを持つ人々は価値の創出を自分自身からではなく、自分自身でないものから、相手から創出するということである。逆に高貴な人々はまず価値の創出というものを自分自身を軸にして行うことになる。
ニーチェの哲学は、単純な自己肯定の暴力的な思想と取られがちだが、やはり形而上学(第一哲学)として彼の思想を捉えた方が良いだろう。つまり、貴族的な人間による価値の創出といったときに重要なのは、自己肯定すれば自分は貴族的な人間になれるのだ、といったことではなく、価値の起源というものがあれば、それは自分自身の肯定からであり、それを基礎にしてさまざまな価値体系が築かれるということなのだ。ここでいう自分自身というのが、ニーチェによれば「人間」なのであり、だからこそ価値の始原が人間にあるという意味で、彼は第一哲学的には実存主義と呼ばれるべきなのである。
というわけで、ルサンチマンを持たない人はいない(と考えた方が自惚れなくて済む)。ニーチェが超人ということでツァラトゥストラを持ち出すのは彼が人間ではない存在だからである。人間は貴族的種族には到底なれない。ギリシア人も本当は然りである(そもそもギリシア人が道徳的価値の起源なのか?という問いは成立する)。それでも超人を目指すことはできるし、理解することもできる。ニーチェの思想は、このように哲学の歴史という土台から理解しようとすると案外理解しやすい思想である。さらに詳しいことは専門書を読んでみよう。
〈ルサンチマン〉を知るためのおすすめ著作
参考文献は、岩波文庫版『道徳の系譜』(一般に”系譜学”が正しい訳語だと言われている)であるが、おすすめには光文社古典新訳文庫の『道徳の系譜学』を推したい。理由は岩波文庫版の訳が古すぎるからである。
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参考文献
フリードリヒ・ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳、岩波文庫、1964年。