超越論的テレパシー:空想におけるテレパシーとその超越論性
村上靖彦が提唱した独自の現象学的概念。人と人との間にはテレパシーが存在する?知覚的空想って?コミュニケーションの始まりはどこにあるの?
知覚的空想におけるテレパシー
現象学的な枠組みでいうと、ここでいわれるテレパシーというのは空想の中でのコミュニケーションということだ。知覚的な場でのコミュニケーションについてまず考えてみよう。例えば目の前にテッシュがあるとする。相手が「ティッシュを取って」といったら、自分はティッシュを渡すことになるだろう。そのときティッシュはお互いの共有物である。お互いがイメージしているティッシュは同一物であり、目の前に見えているので相手の言っていることが通じる。そのように、知覚的な場におけるコミュニケーションというのは共有物が実在しており、その実在物を介してコミュニケーションが行われる。
それでは空想の中でのコミュニケーションはどうなるのか。例えば一人がテッシュを思い浮かべたとしても、そのテッシュは他の人には見えない。そこにはお互いの共有物がない。しかし空想は無ではない。媒体を通してあげると、何も見えていないのに共有物が生じるような空想的な状況がある。
それが「ごっこ遊び」における状況だ。ごっこ遊びの場合、知覚物を介して空想するので知覚的空想〔perzeptive Phantasie〕と呼ばれる。元々フッサールが提唱した概念だ。例えば、子どもAが、石ころをケーキに見立てておままごとをしているとしよう。このとき石ころ(知覚物)を介してケーキが空想されている。これが知覚的空想である。さてここで面白いことが起こる。空想の中でのコミュニケーションである。どういうことかというと、この遊び相手もこの石ころがケーキと見立てられていることを知っていなければならないのである。Aが空想しているケーキはその遊び相手には見えてないが、それでも遊び相手はAとケーキを共有しなければならない。このように、空想の中で共有物を持ちコミュニケーションをとることが可能なのである。見えるものではないのに共有できてしまうという点で、この空想内で起こっている状況はテレパシーなのである。
空想におけるテレパシーの超越論性
さて村上はこのテレパシーに関して重要なことを指摘する。このテレパシーは超越論的だということだ。
これが無くてはコミュニケーションがとれないが、日常的には主題化されることなく背後の構造として作動するという点でこれは超越論的である。すなわち、「超越論的なテレパシー」とでも名付けられるような現象が、常に人と人との間では成立している。
「創造性と知覚的空想」103頁。
テレパシーは「ごっこ遊び」に特有の現象ではない。人と人との一般的なコミュニーケーションの間でも常に作動している。そう言える理由に関しては村上自身詳しく述べてないが、次のようなことが考えられる。
1.空想の方が知覚や言語より現象学的に深層のコミュニケーションだということ。というのも、現象学的還元は誇張をすれば知覚もエポケーでき、空想にたどり着くからである。ゆえに空想の方が起源的であり、常に作動しているということができる。
2.空想の方が知覚や言語より発達心理学的に深層のコミュニケーションだということ。というのも、そもそも幼児は言語を獲得しておらず、コミュニケーションを取るためには空想を介して行うしかないからである。それゆえ、空想が原初のコミュニケーションの構造だと言うことができ、この構造は成人になっても潜在的に残り続けるので常に作動しているということができる。
ただ村上は具体的な事例を挙げて自説を強化している。引用箇所には注がついており、そこでアスペルガー障害の例を挙げる。彼らは曖昧な表現が苦手で、相手の言葉を文字通りに受け取りがちである。それは超越論的テレパシー的な視点に立ってみれば、空想を共有できずテレパシーが弱いということができる。逆にスムーズな会話というのは、実は背後で空想の共有を前提としている。そう考えると、コミュニケーションの起点は超越論的テレパシーだということができると主張している。つまり、私たちのコミュニケーションは非常にあいまいな核(空想)を共有しており、それだからこそスムーズに会話ができるということである。
超越論的テレパシーにおける間主観性という前提
知覚的空想におけるテレパシーは超越論的だということを説明した。しかしテレパシーは相手がいて成立するものではないだろうか。ごっこ遊びは一人でもできる。それは超越論的テレパシーの反証ではないだろうか。しかし村上は潜在的にはそこに他者がいると主張する。
子どもと私は、同時に「ウルトラマン」と「怪獣」としてやりとりするのである。知覚的空想は構造上対人関係を組み込んでいる。さらに言うと、実際に語りかける相手と遊びの空想のなかの相手との二重の対人関係が作動する。一人遊びの場合も、ウィニコットが強調するとおり誰かがままごとに立ち会う可能性を前提としている (Winnicott 1965, ch.2)。そしてひとり遊びのなかで子どもは劇を演じる。すなわち対人関係を演じるので、ごっこ遊びは構造上対人関係を組み込んでいる。
同書、104頁
何かを演じているというときにはそこに他者が存在するのである。誰かを演じているだけでなく、誰かを誰かと演じるのである。それゆえ超越論的テレパシーは間主観的ということになるが、ということは間主観性も超越論的ということだ。ここではテレパシーは空想の中でおきるので、間主観性も空想における間主観性である。何らかの空想的な状況の中で、常に私たちは他者と言葉のない会話を交わしている。常に他者と共にいるからこそ超越論的テレパシーによって、空想でのコミュニケーションが生まれるのである。
超越論的テレパシーと創造性(上級編)
最後に超越論的テレパシーのコミュニーケーションの特徴を概観しておきたい。特筆しておかなければいけないのはその創造性についてだ。というのもこの創造性があるからこそ、このテレパシーは超越論的だともいえるからである。
さきほど、超越論的テレパシーが他者を前提としていることについて述べたが、他者を前提としているということは何らかの予測不可能性を前提としているということである。この予測不可能なものとの出会いによって、意味が産出される。超越論的テレパシーはその出会いの構造だともいえる。
村上は「創造性と知覚的空想」で、具体的に超越論的テレパシーの創造性を三つにまとめている。
(1)超越論的テレパシーのなかで相手から持ち込まれる新たなアイディア。
(2)相手の空想への受肉。
(3)現実を引き受けつつ生成する思いがけない「意味」の自然発生。
(1)では、ウィニコットがテディベアに耳をあてて「何か喋っているみたいだよ」と患者の子どもに語りかけたことが例に挙げられている。そのようなことは子供にとって予期せぬことだったが、子供は興味を示し空想が活性化され、ごっこ遊びが始まった。ウィニコットのアイディアが患者の子供を触発したのだ。他にも日常的な例では読書経験が挙げられる。読書も潜在的な他者経験だ。それによって読者が変容を被ったり、今までにないアイディアが生じるたりすることがしばしばある。
(2)では、同性愛者ではない中年の男性患者を「女の子」のように感じ、「女の子」と話しているような感じになったことが例に挙げられる。実はこれは、母親が彼を女の子として育てようとしていたことに起因しており、母親の空想にウィニコットがアクセスしたことになる。(1)では単に空想世界を共有しただけであるが、ここでは相手の空想世界に入り込んで、自分が母親役を担っている(これを母親への受肉と呼んでいる)。対等な関係ではなく、一方的に相手の領域に入り込むテレパシーもあるのである(この場合は、相手の空想空間が原理的に閉じていた場合である)。
(3)の例では、先ほどの話の続きで「女の子」と直感してしまったことのその到来が語られている。それはウィニコットにとっても相手にとっても予期せぬ発想であり、全く新しい「意味」の産出を告げている。全くよくわからず自分でも驚く仕方で、意味が産出されるのである。
超越論的テレパシーは空想において交わされるが、その構造の中はいつでも自由である。逆に固定化されたものは終着点である。石ころを介して見立てられたケーキにしたって、色や形などは決められてないしそもそも見えない。そのように最終的に見立てられたり、アイディアとして浮かんできたりする前に様々な交流がある。その不可思議な交流を通してアイディアが生じてくる。そこではどんな会話が交わされているのか、無言であるからわからない。しかしそれでも曖昧な何かが行われている。だからこそその構造は超越論的テレパシーなのである。超越論的テレパシーを侮ってはいけない。
>>本記事はこちらで紹介されています:哲学の最重要概念を一挙紹介!
参考文献
村上靖彦「超越論的テレパシーを貫く治療者の欲望ーーフッサールとドルト」『現代思想12月臨時創刊号』青土社、2009年、224-236頁。
村上靖彦「創造性と知覚的空想ーーフッサールとウィニコットを巡って『人間科学研究科紀要』第36号、大阪大学大学院人間科学研究科、2010年。99-116頁(https://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/events/pdf/hs36-099.pdf)。
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