啓蒙とは何か – カント|意味をわかりやすく徹底解説

啓蒙とは何か – カント|意味をわかりやすく徹底解説

啓蒙の前提条件 : 未成年状態とは

 啓蒙思想とは一般的に理性を偏重する思想であり、理性によって世界を良き方向へ導いていこうという思想である。この思想は17世紀後半からロック、ルソー、ホップズなどの大思想家が登場し、広い分野で学問が勃興した時代に現れた。聖書や宗教から離れ、理性をたてることが重要な点だ。啓蒙思想が盛り上がった17世紀後半から18世紀までを啓蒙時代という。

 イマヌエル・カントは1724年に生まれ1804年に亡くなった啓蒙時代の思想家である。彼は自らの哲学の超越論的転換をコペルニクス的転回と呼び、アンチノミーなどの概念を鍛え上げた。哲学史における彼の影響は絶大で、彼が著した『純粋理性批判』の反動としてドイツ観念論が生まれたりした。そんなカントには、文字通り啓蒙を論じた『啓蒙とは何か』という短い論文がある。ありがたいことに冒頭に啓蒙の定義が書かれている。

、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。

カント 『永遠平和のために/啓蒙とは何か』中山元訳、光文社古典新訳文庫、2006年、10頁

ここで使われている「未成年の状態」は、我々がよく知っているような年齢で区切られるものではない。我々は18歳以上を成年としそれ以下を未成年とするが、カントの時代は学がある者は一握りで、大人であっても未成年の人が大半なのだ。「未成年の状態」とは「自分の理性を使うことができない」人だが、しかしその人たちが理性を持っていないかというとそうではない。理性を持っていながら使う勇気がないのだ。したがって啓蒙の標語は「自分の理性を使う勇気を持て」ということになる。

 人は何故未成年状態にとどまるのか。

 それは「楽なことだからだ」とカントはいう。「理性を働かせる代わりに書物を頼り、良心を働かせる代わりに牧師を頼」る。人は怠惰で臆病で考えることが嫌なのである。現代なら書物や牧師の代わりに Twitterインフルエンサー がくるのかもしれない。事態は今も昔も大して変わらないのだ。問題は、理性の使用は危険である、と思い込んでいる点だ。というより思わされている。理性を使われたら困る人にそう叩き込まれ、理性を使い始めようとした人を見つけては危険だと教えられる。すると「自分で歩く試みすらやめてしまうのだ」。

 理性の使用は怖いという先入観が強力であるため「公衆の啓蒙には長い時間がかかることになる」。これは革命を起こせば解決するものではない。『レ・ミゼラブル』で中心に扱われたフランス革命や、産業革命においてもその点においては何も変わらない。革命は新たな先入観が古い先入観にとって変わるだけなのだ。

公的な理性の使用と私的な理性の使用

 どうすれば公衆を啓蒙できるのだろうか。カントはいう「さえあればいいのだ」と。だが時代が時代だし自由は制限されてしまうこともあるだろう。そこでカントは最も無害で啓蒙にとって最も重要な自由を指摘する。それが公的な理性の使用の自由だ。

 よく誤解されるので丁寧にみてみよう。まず理性の使用は公的なものと私的なものに分けられる。それらは次のように定義される。

さて理性の公的な利用とはどのようなものだろうか。それはある人がすべての公衆の前で、みずからの理性を行使することである。そして理性の私的な利用とは、ある人が地位または官職についているとのとして、理性を行使することである。

カント 『永遠平和のために/啓蒙とは何か』中山元訳、光文社古典新訳文庫、2006年、15頁

一見すると難しいがカントが示した実例をみると意外とわかりやすい。

 例えば上官に命令されて任務についた将校を想定してみよう。将校がその命令が無益だとか理にかなっていないと文句をつけるのは有害だ。何故なら「命令には服従しなければならない」からである。ただし「将校が学者として、戦時の軍務における失策を指摘し、これを公衆に発表してその判断を仰ぐことが妨げられてはならないのは当然のことである」と続く。前者は「私的な理性の使用」に、後者は「公的な理性の使用」に対応している。誤解を恐れず簡単にいうと、個人や組織といった有限で閉じた場所だけに問いかける文句は「私的な理性の使用」で、公衆や世界に問いかける文句は「私的な理性の使用」なのだ。

 現代の語感とずれているため間違って覚えやすい。「公的」というと将校や聖職者などの役職としてという意味にとられがちだ。しかしカントはこれは私的な理性の使用という。逆に「私的」というと役職に囚われない発言のように感じる。しかし教会や組織などの閉じたサークルにではなく「世界に向かって文章を発表し、語りかけるとき」は、これを公的な理性の使用というのである。

 最後にこれを現代に引きつけて考えてみよう。ある人が所属している組織の不平不満を述べると、「不満があるなら辞めればいい」や「自らいるのだから自己責任だ」と言われたりする。このような現状に反感を覚える人も多いだろう。だがカントの啓蒙という観点からすると、自己責任だという主張は正しい。何故ならそれは「私的な理性の使用」にあたるからだ。しかしある人が「学者」として世に問うたらどうか。それは社会にとって有益なはずで、それを止める必要は全くない。これこそが「公的な理性の使用」つまり啓蒙なのである。

関連項目

アンチノミー
コペルニクス的転回
ルサンチマン
動物論入門
ドイツ観念論
フェミニズム

参考文献

カント 『永遠平和のために/啓蒙とは何か』中山元訳、光文社古典新訳文庫、2006年

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